第百三十四話「終わりの始まり」
「クロスフレイム!」
ヤナギの声にキュレムが応じ、炎の十字架を押し広げた。だが紫色の雲は全く霧散する気配がない。これ以上は戦力の限界か、とヤナギが感じていた、その時であった。
「ウルガモス、オーバーヒート!」
背後から声が響き渡り、炎が一直線に紫色の雲へと昇っていく。だが紫色の雲からしゅるしゅると手のような形状の帯が放出されたかと思うと、それが固まって炎を防いだ。ヤナギが振り返る。視線の先には優勝候補の一角がウルガモスと呼ばれたポケモンを繰り出している。
「アデク、か」
その声にアデクは応じる。
「谷間の発電所以来じゃな」
あの時、自分の敵として屹立した男。だが今は紫色の雲を相手取る事で合意したようだ。
「あれは、なんじゃ?」
「俺の見立てではゲンガーだ」
「ゲンガー? しかし、あのように強大な……」
「メガシンカしたとこの女が言っていた。メガゲンガー、というわけだな。俺にも正確なステータスは一切分からない。このキュレムをもってしても、まるで手応えがないとは」
ヤナギが歯噛みしていると先ほど急降下してきたバシャーモとチアキがヤナギを呼びつけた。
「大丈夫か?」
駆け寄って尋ねると、「私に大した傷はない」とチアキは応じる。
「バシャーモは?」
「急降下のダメージが少しだけある。だが、上空の敵に対して攻撃は望めないな。スカイアッパーを食らわそうにもあの手応え、ゴーストタイプか」
やはり腐ってもジムリーダー。タイプ相性を見分けたのだろう。
「ああ。ゲンガーに格闘技は通用しない」
「それに、何だ? あれからは逃れられる気がしない。セキチクシティという檻に囚われたようだ」
その感覚は間違いではないのだろう。ヤナギも同じように感じていた。キュレムで離脱しようかと考えたがその思考そのものを一蹴する何かがメガゲンガーにはある。
「倒さない限り逃げられない。だが倒す手段が皆目、ではこちらの戦意も削がれるな」
「それに、この騒動を聞きつけて人が来れば来るほど被害が甚大になる。我々の行動も極秘では進み辛くなるぞ」
「その我々とやら、詳しく聞きたいものじゃな」
口を挟んだアデクにチアキは眉間に皺を寄せる。
「何だ? こいつ」
「アデク。優勝候補の一角だ」
「なに、そう気負う必要はない」
「誰も気負っていない。ただ、貴公のような人間も動員されているところを見ると、この異常現象の原因、そちらにあると考えていいか?」
率直な物言いに、「恐らくは連れの問題じゃろう」とアデクは答える。ヤナギもキクコのゲンガーである可能性が高い以上、無闇に攻撃は出来ないのが心情だった。
「クロスフレイムも何回も撃てるような攻撃じゃない。かといって、凍結させれば、と言っても俺自身、まだキュレムを御せていない」
瞬間凍結、あるいは凍える世界を撃とうとしてもそれ相応の対価を払わねばならない。これが伝説を操るつけか、とヤナギは舌打ちを漏らした。
「どうやって攻撃するか。真上のカミツレにサンダーでの強行突破を命令するか?」
「いや、カミツレはこの状況から脱している重要な人間だ。もしもの時にはセキチクそのものを捨てる覚悟で挑まねばならない。そのような時、外部との連絡手段がないのでは違ってくるだろう」
出来るだけ穏便に済ましたい。そのようなヤナギの胸中を嘲笑うかのように上空の雲が集約されていく。渦を巻き、何かが現れる気配を伴った。
「何だ?」
チアキの声に出現したのは悪性腫瘍のような雲の塊だった。その表面に赤い眼が開く。その眼光に縫い止められたように動けなくなった。
「何だ、これは……」
ヤナギは指先を見やる。かすかに震えていた。これは恐れだ。
「俺が、恐怖している?」
「オレもじゃ。この感覚は……」
塊から乱杭歯の並んだ口腔が露になりそれが哄笑を吐き出した。圧倒的な勝利宣言。それを覆す力は自分達にはないのだと言うように。
「嘗めるな! キュレム、クロスフレイム!」
キュレムが両腕を開き、雲の塊へと赤い十字の炎を撃ち込んだ。だが炎は雲の渦に掻き消され、内部へと吸収されてしまった。
「……クロスフレイムを」
「呑んだ、だと」
チアキとヤナギは信じられなかった。「クロスフレイム」の威力は身に沁みて知っている。だからこそ、それが一端のトレーナーやポケモン程度に掻き消されるものではないと分かっていた。だというのに、目の前の現実はヤナギへと敗北の二文字を突きつけてくる。
「どうすればいいのだ。このような力を前にして……」
アデクの苦渋はそのまま全員の胸中だった。アデクとてウルガモスで攻撃する気になれないのは力の差を理解しているからだろう。一トレーナーの戦闘単位を超えている。
――このままでは。
ヤナギの懸念を裏付けるように雲の塊から両腕らしきものが伸びる。その手が開かれたかと思うと球体が形作られた。一つが家屋ほどもある巨大な影の球体だ。凝縮し、二つの球体は撃ち出されようとする。
「シャドーボールか」
「だが、あんなサイズ……」
見た事もない大きさのシャドーボールに全員が息を呑むしかない。あれが命中すればどれほど甚大な被害を及ぼすのか。影の塊――既にメガゲンガーの形状を成したそれが嗤う。悪魔の笑みだ。この場所を灰燼に帰す事さえも愉悦の一つだとする邪悪。
その時、声が響いた。
「ドラゴンクロー!」
一条の黒い光線がメガゲンガーへと突き刺さる。完全に予想外からの攻撃だったのだろう。シャドーボールが生成途中で掻き消え、メガゲンガーはそちらへと赤い眼を向けた。ヤナギ達も同じように目を向ける。
ポケモンセンターの屋根の上に立っているのはユキナリとオノノクスだった。オノノクスは全身から黒い瘴気を立ち上らせ牙へと集約する。赤い磁場を伴って牙の一閃が放たれた。
再び攻撃をぶつけてきたオノノクスへとメガゲンガーは手で受け止めようとするが、その直前に光条が拡散した。無数の短剣と化したそれがメガゲンガーへと突き刺さる。メガゲンガーが初めて呻り声を上げた。
「オーキド・ユキナリ!」
ヤナギの声にユキナリが目を向ける。手を薙ぎ払い、「キュレム、氷柱の生成くらいならば出来るな?」と声にした。
「何をする気だ?」
「氷柱を作ってオーキド・ユキナリをメガゲンガーの有効射程まで運ぶ」
「危険だぞ!」とアデクが声を張り上げる。アデクにとってしてみてば仲間の命がかかっているのだろう。
「だが、この距離でドラゴンクローを撃っても無駄だ。もっと近くなければ。そのために、氷柱を形成する! 受け取れ、オーキド・ユキナリ!」
キュレムへと氷柱を形成させ、浮かばせてユキナリの下へと運ぶ。ユキナリは頷き、オノノクスと共に乗った。ヤナギはそのまま氷柱を誘導させ、メガゲンガーの有効射程へと持ち込もうとする。
「だが、メガゲンガーが何もしないわけが」
チアキの懸念にメガゲンガーは身体から帯状の触手を作り出し、それぞれを矢のように打ち出した。ヤナギとて回避させながら運ぶ事は出来ない。オノノクスは黒い瘴気を纏いつかせた牙で弾いているが、それも手数が同等な場合のみだ。メガゲンガーの手数は圧倒的だった。一度オノノクスがよろめいたかと思えばユキナリとオノノクスへと、正確無比に触手が放たれる。その一撃にオノノクスが牙を持ち上げた隙に、触手はユキナリを貫いた。アデクが声を上げる。
「ユキナリ!」
オノノクスもそれを認識する前に身体を無数の触手で貫かれ、地へと落ちていく。希望の落下を、ヤナギ達は見つめる事しか出来ない。
「……死ぬな、オーキド、ユキナリ」