第百三十三話「グラウンドゼロ」
行く当てなどなかった。
東側のゲートから出たユキナリはただただ彷徨うしかない。トレーナーと思しき人々が時折声をかけるが何も聞こえていないようにユキナリが歩いていくので皆避けていった。
どうせ自分になど価値はない。ポケモンも持っていないのだから玉座を目指す事も、絵描きを目指す事ももう出来ない。畢竟、逃げたのだ。どうにもならない呪縛を抱えて、自分の身を持て余す。雨脚が強くなってきた。人々がセキチクシティへと駆けていく。ユキナリだけはそれとは正反対の方向へと歩いた。当て所ない道筋は波止場に辿り着いた時自嘲に変わった。
「……何だ。どこへ行っても同じじゃないか」
どこへも逃げられない。だが、戻って戦う勇気もない。屈んで海面を覗き込んでいると、「何しているんだ?」と声がかけられた。聞き覚えのある声に顔を上げる。そこにいたのはセルジと名乗った釣り人だった。
「セルジ、さん」
「おお、覚えていてくれたのか。まぁ、俺の事なんて名前で呼ばなくってもいいさ。おじさんでいいよ」
ユキナリは隣で釣りを始めるセルジから視線を逸らす。セルジは釣り糸を垂らしつつ、「みんなはどうした?」と聞いた。
「……分かりません」
その声音が尋常ではないのだと感じたのか、「……なるほどね」と得心した様子だった。
「随分と、らしくない眼をしているじゃないか。あの時、シルフカンパニーに喧嘩を吹っかけた無謀者の顔じゃないよ」
ユキナリはぎゅっと拳を握り締める。あれは、あの状況に精神が昂っただけの話だ。本来の自分は弱々しい一個人に過ぎない。
「俺はあの時、君はとても勇気のある人間だと感じた。だって天下のシルフと戦って、生き残るなんて。俺みたいな凡人じゃ及びもつかないってね」
「そんな大層な真似をしたつもりはないですよ」
「いや、立派さ。君は誇れる事をしたんだ。誰だって言葉の表面で取り繕う事は出来る。でも実行に移す事が出来るのはごく少数だ。君は、そちら側の人間だろう」
「やめてください。そうやって、僕にラベルを貼り付けるのは……!」
勝手な理想を押し付けるのは。ユキナリは肩を掴んだ手に力を込める。
「アデクさんに酷い事をしたんです。ナツキにも取り返しのつかない事をしてしまった。だったら、僕なんていないほうがいい。旅なんて続けないほうがいい。夢も見ないほうがいい」
「そうやって、また逃げるのかい?」
その声にハッとする。セルジは釣り糸を見つめながら、「逃げる事は、ある時にはそれが正しい事もある」と告げる。
「何も全ての行為が責められる事じゃない。でも、今、やるべき事から逃げ出して、それで何が残る? やれる事とやるべき事を君はもう、分かっているんじゃないのか?」
セルジの言葉にユキナリは、「……でも」と顔を伏せた。
「僕にどうしろって言うんですか。もう平気な顔をして戦う事なんて出来ませんよ。何食わぬ顔でみんなに会うなんて出来ない。ナツキと、もう二度と顔を合わせる事なんて出来ない」
「だが、君は選んだはずだ。あの時、俺の目には君の魂の輝きがシルフビルを割ったのだと思った。あれほどの覚悟を抱けたのに、ここで潰えるのはもったいないだろう」
「あんなの、状況に流されただけですよ。オノノクスだってもう僕と戦いたくなんてないはずだ」
「ポケモンとトレーナーはお互いを信じるところから始まる。オノノクスって言うのか。あのポケモンは君を信じていた。今度は君が、オノノクスを信じる番だ」
「無理だよ、そんなの。出来るわけないですよ!」
覚えず顔を上げて叫ぶとセルジはユキナリの目を真っ直ぐに見据えていた。その目から視線を外せずにいると、「君はやるべき事を控えている」とセルジが告げた。
「君は生き残るべき人なんだ。たとえ全てを犠牲にしてでも、やるべきと思った事を成す力、未来を描く力を君は持っている」
「僕は、犠牲なんて……」
「生きていれば誰かを犠牲にする。俺だって、こうして水棲ポケモンの命を犠牲にしている。何らかの代償を払わなければ人って言うのは、生きていけないほどに脆いんだ」
セルジの言葉にユキナリは言葉を彷徨わせる。自分のほうが犠牲になればよかったのだ。ナツキは傷つかず、アデクも傷つかない世界があれば。そのために自分だけが犠牲になればいい。
「……誰も傷つかない世界って言うのは、ないんでしょうか」
「ないね。残念ながら」
セルジの声は非情だった。だがこの世界の正鵠を射ている。
「君はこの時代を生きるしかないんだ。誰だって生まれる事と死ぬ時だけは選べないんだから。でも、だからこそ、選べるものを最大限に選ぶのが人生だと俺は思うよ」
「僕に、そんな価値はないですよ」
「あるさ。君はお嬢ちゃん達を何度も助けようとした。それは一時的な勇気だけじゃない。君の中に、いつだって勇気はあるんだ。それを解き放つかどうかだけの話」
「僕の中にある、勇気……」
胸に触れる。鼓動はまだある。生きていたいと願う鼓動。まだ終わりたくないと願うもの。
「傲慢な言い方になってしまうかもしれないが、既に君は解き放たれた運命の中にある。もう後戻りする事なんて出来ないんだ。君は、前身の道を辿るしかない」
ユキナリは自嘲気味に返す。
「どっちが前か後ろかなんて、もう分からない」
「君が進むほうが前さ。そう考えると楽だろう?」
「僕の、進むほう……」
自分はどうしたいのか。何のために自分は生きているのか。
「セキチクのほうが暗いね」
セルジが振り返ってそうこぼす。ユキナリも目を向けていた。セキチクシティ上空を、紫色の雲が覆っていた。尋常ではない。それだけは理解出来る。何かが起こっているのだ。自分の大切な人達がいるあの場所で。
「もう関係がない、としらを切るのも自由だよ。セキチクシティがどうなろうと、君の仲間がどうなろうと、本当に君がどうでもいいと思っているのならば」
セルジは釣り糸へと視線を戻す。しかしユキナリは目を逸らす事が出来なかった。あの場所にいる自分の大切な人達。それを守れる力があるのならば。
「……僕に、もう一度出来るでしょうか。その資格はあるのでしょうか」
「俺は何とも言えないよ」とセルジは返す。
「ただ、夢を追う資格のない人間はいない。夢破れてでも戦い続ける。その資格を奪う事なんて誰にも出来ないんだ」
ユキナリは立ち上がる。セルジは振り返らずに、「行くのか?」と呟く。
「君も死ぬかもしれないぞ。もしかしたらさらなる地獄を見る事になるかもしれない」
「僕の命はいいんです」
ユキナリは拳を握り締める。
「ただ、これ以上僕の大切な人達が傷ついていくのを、見ていられない」
ユキナリは駆け出した。雨脚が強くなり、風が頬を叩きつける。それでも足を止めなかった。その先に何が待っていようと。何が邪魔をしようと。
ゲートを潜り、セキチクシティから逃げ出そうとする人々とは真逆を行く。ゲートを抜けてみればセキチクジムから絶え間なく紫色の竜巻が発生しており、それを中核として紫色の雲が広がっていた。ユキナリの目には雲そのものが自分達を俯瞰して嗤っているように映った。借りていた宿へと寄ってGSボールを手にし、ユキナリは竜巻の中心部へと向かう。途中、何度か足をすくわれそうになった。転び、泥に膝をつきながらユキナリはポケモンセンターに向かおうとする。だが、ポケモンセンターはジムの隣だ。既に倒壊している可能性もあった。
「このままじゃ……」
近づけない、そう感じたその時である。雹が降り始めた。突然の気候に戸惑っていると、仰いだ視界の中に映ったのは巨大な灰色の龍だった。天使の輪のような凍結範囲を広げ、浮遊している。その姿は通常のポケモンとは一線を画していた。ユキナリが眺めているとそのポケモンの背に立つ人影が目に入った。
「お前は……!」
相手も気づいたのだろう、龍のポケモンが真っ直ぐに降下してくる。突風を発生させながらそのポケモンが舞い降りた。手を前に翳していると、「オーキド・ユキナリ」と冷たい声音が発せられる。
「何故、ここにいる?」
因縁の相手に名を呼ばれ、ユキナリは身を強張らせた。
「カンザキ・ヤナギ」
「あれの原因は、お前じゃないのか?」
ヤナギがあれと評したのは巻き起こっている紫色の気候変動だ。ユキナリは首を振り、「僕にも分からない」と答える。
「でも、何かが起こっている事だけは確かだ」
「どうしてだか、この現象から俺達はここに辿り着いたのだが、皆目見当がつかないな。カミツレ!」
ヤナギがポケギアへと声を吹き込むと、『こっちは上空を旋回している』と女性の声が帰ってきた。シルフビルの時にヤナギを拾ったサンダーのトレーナーの声だ。
「どうだ? 上からは何か分かるか?」
『セキチクシティを囲むみたいに紫色の雲が張っている。まるで結界ね。サンダーは上空からは近づけない』
ヤナギは舌打ちを漏らし、「チアキ、バシャーモで強行突破は?」と尋ねる。
『駄目だ。この乱気流では格闘タイプの技が正確に命中する気がしない。それにこの雲、ただの気候変動ではない、殺気がある』
「殺気、だと」
ヤナギは空を振り仰ぎ次いでユキナリに目をやった。
「どうやら闘争している場合ではなさそうだな」
ヤナギの声に、「ここは休戦だ」とユキナリは口にする。
「この現象をどうにかしない限り、セキチク全体が危ない」
「言われなくとも」
ヤナギは灰色の龍のポケモンに目をやり、「キュレム!」と名を呼んだ。
「もう一度、あの姿になれるか?」
その言葉にキュレムと呼ばれたポケモンの右側の身体が軋みを上げ始めた。白い羽毛のような身体が引き出されてゆき、キュレムが二つの足で立ち上がる。小さかった前足が腕となって発達し、背部へとチューブが伸びた。キュレムの背面へと赤い球体が形成され、チューブからエネルギーを得てキュレムが紫色の雲を見据える。
「いくぞ。クロスフレイム!」
キュレムが全身から炎を噴き出させ、エネルギーを循環させた瞬間、目が輝き雲の中央部に向けて炎の十字架が放たれた。一瞬だけ紫色の雲が千切られ、青い空が垣間見えたがすぐに再生する。ヤナギは、「やはりポケモンか」と呟いた。
「これがポケモンの仕業だって言うのか」
「クロスフレイムで反応があった事からそう考えるのが妥当だろう。自然現象にしては出来過ぎている」
ヤナギはキュレムに視線を配ってから、「全力攻撃だ」と告げる。
「凍える世界」
キュレムから放たれた冷気のオーラが一瞬にしてセキチクシティを覆った。竜巻が静止し、紫色の雲の動きが止まる。ヤナギはポケギアへと吹き込む。
「やれ! チアキ!」
その瞬間、凝結した紫色の雲を一筋の赤い流星が破った。V字型の鶏冠をした猛禽の人型が炎の蹴りを纏いつかせて急降下してくる。
『攻撃に成功したが、これで倒せたかどうかは』
「ああ、分からないな。だが一度凍らせて炎で破ったんだ。それなりに効果はあるはず――」
その言葉尻を劈くような絶叫が遮った。ヤナギとユキナリが思わず耳を塞ぐ。悲鳴の元は紫色の雲だった。出現した赤い眼がヤナギとユキナリを睥睨する。乱杭歯の並んだ口腔があるポケモンを想起させた。
「ゲンガー、なのか……」
ユキナリの声にヤナギも狼狽する。
「ゲンガー? まさかゴースの進化系か」
ヤナギも覚えがあるらしい。ユキナリは、「だとすると」と思いつく可能性に至る。
「キクコ?」
そんな馬鹿な話があるか、と一蹴したかったが、ユキナリにはそう思えて仕方がなかった。ヤナギが、「何を馬鹿な事を!」とユキナリに掴みかかる。
「キクコが、この現象の原因だというのか!」
怒りを滲ませた声に、「確証はない」と応じる。
「でも、ゲンガーを持っていて、このセキチクにいたのはキクコだ」
ヤナギはユキナリを睨み、「そんな事で」と再び紫の雲へと目をやった。
「この異常気象を説明出来ない。一体何が起こればゲンガーにこんな力が」
その時、ジムのほうからこちらへと危うい足取りで歩いてくる人影が目に入った。ユキナリは思わず駆け寄る。ナタネがボロボロの身体を押して、彷徨っている。
「ナタネさん!」
「ユキナリ君……、戻ってきたんだ」
今にも閉じそうな意識を髪の毛一本で留めている様子だった。見ればところどころに怪我もしている。
「ナタネさん、しっかり! あのポケモンは何です?」
「あれは、キクコちゃんのゲンガーが、あたしのキーストーンに反応してメガシンカした姿だよ。どうしてだかキクコちゃん本人がゲンガーのメガストーンを持っていたみたい。メガハッサムの力を根こそぎ吸い取ってあんな力を得てしまった……」
メガシンカ、という言葉の意味は分からなかったが、ゲンガーの強化された姿という認識に間違いはなかった。ヤナギが声を飛ばす
「じゃあ、あれはキクコだというのか?」
「キクコちゃんは、メガゲンガーに取り込まれた。どうなっているのか、全く分からない」
ヤナギが歯噛みする。キュレムが攻撃に移ろうとして、「やめろ!」と制した。
「キクコがいるとすれば、迂闊に攻撃も出来ない」
先ほどの一撃による悲鳴がキクコのものであるという最悪の仮定をしたのだろう。ヤナギは慎重だった。ナタネへとユキナリは口にする。
「ナタネさん、ポケモンセンターは無事ですか?」
「……う、ん? 多分、無事だと思うけれど、どうするつもり。あんな距離に近づいたら、死んじゃうよ」
竜巻が勢いを取り戻して轟と空気を震わせる。ユキナリは拳を握り締める。
「博士に預けたオノノクスを取ってきます。ヤナギ、ナタネさんを頼めるか?」
その言葉にナタネが、「駄目、だ」と声を搾り出した。
「爆心地に赴くようなものだよ。本当に、死んじゃう、って」
「僕にはやらなければならない事があるんです」
ユキナリへとナタネが止めにかかろうとするがヤナギが手で制した。
「……君、誰さ?」
「こいつの敵だが、今はこいつに任せればいい」
ヤナギの不遜な声にナタネは鼻を鳴らす。
「心の底では、死ねばいいと思っているんでしょう」
「かもな」とヤナギは素直に認めた。それがあまりにも意外だったのだろう。ナタネは目を見開いている。
「……本当、何者なの。君とユキナリ君は」
「敵同士です」
ユキナリの放った声にさらに分からなくなったのだろう。ナタネは追及の言葉を仕舞った。
「……まぁ、いいや。あたし、ちょっと寝るから。疲れちゃった」
ナタネはその言葉を潮にその場に倒れ伏した。ユキナリが肩を揺らす。
「ナタネさん? ナタネさん!」
「大丈夫だ」
ヤナギの声にユキナリはナタネが寝息を立てているのを確かめめる。
「酷く疲労していたらしい。それ以外の何者でもないようだな。こんな状態で眠れるとは、ある意味太い奴だが」
「よかった……」
ユキナリは立ち上がり竜巻のほうを睨みつける。「行くのか?」とヤナギが問いかけた。
「ああ。みんなが頑張っているんだ。僕だけが何もしないわけにはいかない」
「だが死ぬかもしれないぞ」
ヤナギへと肩越しの視線を振り向ける。
「意外だな。お前は本当に僕が死んでも何とも思わないのだと感じていたけれど」
「何とも思わないし、むしろ死んでくれれば助かる。だが、それは俺の手で、という意味だ。俺以外に殺させはしない」
屈折したヤナギの言葉にユキナリは息をつく。
「じゃあ、僕達は依然、敵同士か」
「お前に俺が理解出来ないように、俺にもお前は理解出来ないだろう」
「多分、平行線のままだろうね」
それは無言の了承として降り立っている。ユキナリはヤナギを信じるわけではなかったが、ヤナギが眠っているナタネに手をかけるほどの外道ではない事は分かっていた。
「ナタネさんを頼む」
「俺もこの距離から攻撃を続けよう。お前は俺が殺す。それまで死ぬ事は許さない」
憮然としたヤナギの口調にユキナリは、「分かっているさ」と応じて走り出した。竜巻の巻き起こす突風が煽り、今にも分解しそうなジムが視界に大写しになる。その隣にあるポケモンセンターは半壊していた。ユキナリは入るなりパソコンの有無を確かめる。パソコンは横倒しになっていた。駆け寄って電源をつける。辛うじて電気は生きているらしい。電源を入れるなりユキナリは博士へと繋いだ。
「……頼む。繋がってくれ」
ユキナリの願いが通じたように博士へと直通回線が開く。博士はつい数時間前にユキナリからもう旅を続けられないと言われたばかりだった。そのためかユキナリを見るなり、「どうして」という顔をする。
「博士! 僕に、オノノクスを返してください!」
ユキナリは窪みにGSボールを入れる。博士は狼狽していた。
『だが、君はもう旅を続けられないと言った。それに今、とても磁場が不安定なんだ。セキチクで何か――』
「説明している時間はないんです!」
遮って放った声に博士は眉根を寄せる。
「僕にはオノノクスが必要なんです」
ユキナリの懇願に博士は、『だが、トレーナーの勝手でポケモンは手離されるものじゃない』と応じる。
『ユキナリ君。君はどうして、オノノクスが必要なんだい?』
その問いにユキナリは息を詰めてから、答えを口にした。
「僕は……、僕はオノノクスのトレーナー、オーキド・ユキナリです!」