第百三十話「氷雨」
ユキナリはナツキを探して雨空の中外に出ていた。アデクも探すと言ってくれたのでユキナリは南側を、アデク達は北側を探していた。ただでさえ広いセキチクシティの中、闇雲に探しても見つかるとは思えない。ナツキはどこへ行ったのだろう。自分はもしかしたら取り返しのつかない事をしてしまったのではないか。その予感にユキナリは急いた。
「……ナツキ、どこ行ったんだよ」
その時、セキチクジムのほうで救急車のサイレンが鳴り響いた。まさか、とユキナリは駆け寄る。すると救命隊員の声が耳朶を打った。
「酷い……、顔に毒を受けている」、「心肺は?」、「バイタル、血圧共に危険域!」
続け様の声にユキナリは何が起こっているのか分からなかった。野次馬の一人が、「ジムの挑戦者だとよ」と声を出した。
「このジムにはいい噂聞かないよな」
「ああ、何でも挑戦者の心を蝕む戦い方を得意とするんだと」
「嫌だよなぁ。街のイメージが下がっちまう」
人々の声にユキナリは人垣を掻き分けて歩み寄る。担架に乗せられた姿には見覚えがあった。
「ナツキ……」
ナツキが顔の半分を包帯で巻かれていた。しかしその包帯もすぐに血で滲んで使い物にならなくなり、救命隊員が取り替える。
「駄目だ、毒がきつすぎて。これ以上は救命措置では不可能だ」
ナツキは救急車へと運ばれていく。ユキナリは一連の事柄を黙って見つめるしか出来なかった。ナツキに何が起こったのか。それを整理するには時間が足りなかった。
ユキナリの停止した思考を嘲笑うかのようにサイレンが遠く鳴り響いた。
「重傷です」という報をまず医者から受けた。執刀医は、「毒の進行は抑えられましたが」と濁す。ユキナリは何が起こっているのかまるで分からなかったが、自分の身体とは思えない重い身を引きずって病院へと向かった。アデクとナタネも一緒だったが、二人に対してユキナリだけが虚脱したような顔立ちをしていた。
「顔に傷痕が残るでしょう。右目も効かないかも知れません。恐らく一生かと」
絶望的な宣告にユキナリは顔を伏せていた。自分のせいで、とは言えない。アデクが、「何とかならんのですか」と詰め寄る。執刀医は、「ベストを尽くしました」と答える。
「ですが、ポケモンの毒に関しては不明な点が多いのです。我々が思っている以上にナツキさんは重篤でした。命が助かっただけまだマシだと思っていただくしかなさそうです」
執刀医に掴みかかったのはアデクだ。アデクは平時とは比べ物にならないほどの怒りを携え、「それでも医者か! 貴様!」と怒声を飛ばす。
「何ともならんじゃと? ナツキがこれから先、どういう思いで生きていかなきゃならんのか、勘定に入れとらんのだろう!」
ナタネがアデクを制したがアデクの怒りは収まらなかった。結果的にナタネがアデクを連れ出し、ユキナリだけが説明を受け続ける事になった。
「投薬治療と、あとは毒を食らわせたポケモンの血清があれば、完全とはいかなくとも毒を排除出来ます。ですが、ここ二十四時間が峠でしょう」
ユキナリは膝の上でぎゅっと拳を握り締めた。執刀医は、「旅は続けられます」と僅かな希望を語る。
「命さえ繋ぎ止められれば」
旅は続けられる。だが、それは今までのナツキとは違うのだろう。ユキナリは、「先生」と言っていた。
「ナツキは、ナツキの顔の毒を、完全に治療する事は……」
「オーキド・ユキナリさん」
その言葉を先回りするように執刀医が口にする。ユキナリは口を噤んだ。執刀医は首を横に振る。
「命があるだけでも、充分なほどなんです」
その言葉に全てが集約されていた。命さえもなかったかもしれない。だから、生きているだけでもいいのだと。だが、納得が出来るか。ナツキはもう二度と、笑ってくれないかもしれない。自分に軽口を叩いてくれたナツキはもう二度といないのかもしれない。
「僕は……」
「誰のせいでもありません」
執刀医に言い聞かされ、ユキナリは部屋を出た。その背中へと声がかかる。
「ユキナリ」
アデクだった。壁に背中を預けたまま、アデクは顎をしゃくる。
「ちょっと来い」
アデクが指定したのはセキチクシティの端にある公園だった。アデクは険しい表情のまま、ユキナリへと言い放つ。
「後悔しているのか。最後の最後に、ナツキに何も言えなかった事を」
アデクの言葉にユキナリは頷く。胸のうちには後悔の念と自責の念が渦巻いていた。アデクは慰めようとしてくれるのだろうか。いつものように強い言葉を放ってくれるのだろうか。だが、アデクの口から出たのは期待していたものとは正反対の言葉だった。
「オレはな、ユキナリ。お前さんが許せん」
アデクは歯噛みしてユキナリを睨み据える。ユキナリは戸惑うしかなかった。アデクは殺気をぶつけてくる。
「お前さんはナツキへの気持ちを保留にしたばかりか、結果的にナツキを傷つけた。オレは、ユキナリ、ナツキが好きなんじゃ」
初耳だった。ユキナリが言葉をなくしているとアデクはモンスターボールを手にする。
「だからこそ、あれだけナツキに想われておきながらあいつを裏切ったお前さんを許すわけにはいかん。このまま旅を続けさせるわけにも。オレが引導を渡す」
アデクがモンスターボールを投擲する。中から出てきたのは三対の翅を震わせる巨大な虫ポケモンだった。白い体毛から火の粉が噴き出している。
「ウルガモス。オレはお前さんを真正面から下し、全てのポイントを奪って再起不能にする。それがナツキに出来る事じゃと、オレは信じている」
本気の眼差しだった。アデクは本気で自分を倒そうとしている。それは身も心をボロボロにしてもう戦う気など二度と起こさないためだろう。ユキナリは何よりもアデクがナツキを好きだった事が衝撃だった。いつからだ、と思考を巡らせるがそれを邪魔するようにウルガモスが炎を発生させる。
「オノノクスを出せ。戦うんじゃ、ユキナリ」
アデクには他の言葉は通用しないだろう。もうこの期に及んでは戦い以外は無力だった。
「ああ、そうかよ」
ユキナリはGSボールをホルスターから引き抜き前に投げる。
「オノノクス」
顎の斧を掲げ、オノノクスがウルガモスと対峙する。ウルガモスが全身から炎を噴き出させオノノクスへと刃の形状を成してぶつけようとした。しかし、オノノクスは黒い瘴気を巻き起こしたかと思うとそれを瞬時に刃へと変形させる事によって弾いた。アデクが舌打ちする。
「それが、オノノクスの攻撃か」
ユキナリはアデクへと呼びかけようとした。無駄だと分かっていても、アデクとは戦いたくない。
「アデクさん、こんなのやめましょうよ。誰も、こんな結末は望んでいないはずです。僕だって、きちんとした舞台であなたと戦いたかった」
「じゃが、それを裏切ったのもまたお前さんだと、理解しているのか?」
アデクにはユキナリが疑うまでもなく敵なのだろう。ナツキの気持ちを裏切った時点で、許しがたい罪悪だ。自分でも分かっている。ナツキに自分は何だ、と問われて答えられなかった。それに全ては端を発しているのだ。何もかもが手遅れになっていた。ユキナリは、「僕にはそんなつもりはなかった」と言い訳する。
「お前さんがそんなつもりがなくってもな。ナツキは泣いておったんやぞ!」
アデクの怒りが炎となってユキナリとオノノクスを包囲する。ユキナリは顔を上げ、「だからって……」と拳を握り締めた。
「僕に全部おっ被せられたって、そんなもの知らない。僕が悪いわけじゃない」
「貴様……! 言い逃れを!」
アデクの怒りを引き移したウルガモスが炎の包囲陣からオノノクスとユキナリを焼き尽くそうとする。しかし、ユキナリはただ一つだけを命じた。
「オノノクス、相手を倒せ」
オノノクスが咆哮し、全身から荒ぶる黒い瘴気を噴出させる。牙の間を行き来し、赤い磁場を巻き込んで黒い「ドラゴンクロー」が一射された。ウルガモスへと突き刺さるかに思われたそれは対象を貫通した瞬間、掻き消えた事によって無効化される。
「既に蝶の舞を使っている! ドラゴンクローは当たらん!」
それは分かっている。だからこそ「ドラゴンクロー」を放ったのだ。
「オノノクス、偏向、出来るな?」
その言葉にオノノクスは発射した「ドラゴンクロー」を鞭のようにしならせて背後へと放った。回り込んでいたウルガモスへと突き刺さりその身体が傾ぐ。
「攻撃を、途中から偏向させた? そんな事が」
「僕とオノノクスには出来る。アデクさん、僕らに勝とうなんて思う事、それそのものが間違っているんですよ」
オノノクスは「ドラゴンクロー」を続け様にウルガモスへとぶつけようとする。ウルガモスの姿が蜃気楼になって瞬時に消えた。しかしユキナリとオノノクスは動じない。中天を仰ぎ、「ドラゴンクロー、拡散」と命じる。
黒い「ドラゴンクロー」が一瞬にして短剣へと変異し、一斉にウルガモスへと狙いを定めた。その攻撃をアデクは知らなかったのだろう。目を瞠っているアデクへとユキナリは攻撃を加えた。
「やれ」
ユキナリの声に短剣がウルガモスを突き刺す。ウルガモスは攻撃の勢いを削がれ、地面に転がり落ちた。
「オレのウルガモスが、いとも容易く……」
「分かってでしょう。やめてくださいよ。アデクさんが僕に敵うわけがない」
オノノクスをGSボールに戻す。アデクは、「くそっ!」と拳で地面を叩きつけた。
「何でじゃ! 何でオレに力はない?」
「それが限界なんですよ。そして僕もそうだ。もう、戦う意味なんてない」
ユキナリが身を翻す。アデクはその背中へと声を発した。
「どこへ行く?」
「……もう僕は戦いたくありません」
「逃げるのか?」
沈黙を是としていると、「オレのやり方が間違っているんなら、そう言えばいい」とアデクは口にする。
「だって言うのに、ここで逃げれば、お前さんは二度とナツキにも、誰にも顔向け出来んぞ」
「僕はもう、何が正しいのか分かりません」
ユキナリは歩き出した。アデクが、「畜生が!」と悪態をつくのが聞こえた。
「どこへ行くのさ」
セキチクシティの東ゲートへと歩いていこうとすると声がかけられた。振り返らずに、「ナタネさんですか」と応じる。ナタネは、「ポケモンも持たずに」と続けた。ユキナリはホルスターを捨て、ポケギアもつけていなかった。
「トレーナーをやめるの?」
「僕はアデクさんに酷い事をしたんです。ナツキにも一生傷を負わせた原因は僕にある。だから、もう二度と旅を続ける事は出来ません」
「ナツキちゃんがどう思っているかとか、関係ないんだ?」
「ナツキは僕を恨んでいますよ。もう僕に、構わないでください」
ユキナリがゲートへと踏み出そうとする。ナタネが肩に手をやり、振り返らせ様に張り手をかました。ユキナリは頬にそれを受け止める。乾いた音が響き、「それでも男なの?」とナタネが責め立てる。
「確かにさ、今回の事、非があるかもしれない。でも、だからって逃げ出したらそこまでだよ。どうしてさ? 今まで旅が出来たんじゃない。これからも――」
「もう無理なんだよ!」
遮って叫んだ声にナタネは口を噤んだ。ユキナリは、「無理なんだ……」と呻く。
「今までみたいに、何も考えずに旅を続けるなんて無理なんですよ。もう、僕は……」
ナタネが、「ユキナリ君……」と口を開く。その手が自分の手に触れようとしてユキナリは手を払った。
「やめてください。優しくしないでください」
突き放す物言いにナタネは声を詰まらせる。ユキナリは背中を向けた。
「色んな要因が重なったんだ。不幸な事故だったんだよ」
「それでも、僕はもう誰とも笑えません」
その言葉が決定的な断絶だった。ユキナリは東ゲートへと踏み込む。それを止める言葉をナタネは持っていないようだった。
部屋に訪れると黒いボールが転がっていた。中はブランクで、オノノクスはいない。スケッチブックとポケギアが打ち捨てられている。キクコは踏み入り、それらを見やる。スケッチブックを捲ると自分の姿が描かれていた。だがその次のページには短く「さよなら」と書かれていた。キクコはスケッチブックを抱いて瞑目する。
「ユキナリ君……」