第百二十八話「涙」
緊張に手を強張らせていた。
誰にも言わないで欲しい、とは頼んだが相手がそれを呑んでくれるかどうかは分からない。ユキナリは何度目かのため息を漏らし、キクコが来るのを待っていた。ポケモンセンターの前で、とキクコと待ち合わせしておいたのだ。片手にはスケッチブックがある。ユキナリは気分を落ち着かせようとスケッチブックを捲っていた。ポケモンのスケッチが度重なっている。だが、ここに今日新たな一ページが追加されるのだ。その予感に胸が高鳴る。
「ゴメンね、シャワーで手間取っちゃって」
キクコが駆け寄ってくる。ユキナリは、「いや、大丈夫」と応じた。ユキナリはキクコを連れて宿に向かった。とは言っても、自分達がとっている宿の部屋ではなく、別棟の部屋だった。ナツキ達に気取られればどのように思われるか分からない。ユキナリは緊張していたがキクコは、というといつもとさほど変わった様子はなかった。部屋に入り、ユキナリは窓の向きと光が入る場所とを加減した。椅子をど真ん中に引き寄せ、「よし」と頷く。
「キクコ、座ってみてくれないか?」
キクコは言われた通り、椅子に腰掛ける。それだけでも魅力的だった。ユキナリは同時に一抹の罪悪感を覚えていた。ナツキ達には何も言っていない。先に戻るとだけ言い置いてサファリゾーンに置いて来てしまった。その後悔が胸に去来する中、キクコは、「こうかな?」と座る位置を調節した。
「背筋を伸ばして。もうちょっと西側を向いてくれる?」
キクコが言われた通りに応じる。ユキナリはスケッチを始めた。何か話しながらスケッチをするべきではないのかと感じたが、ユキナリの中には驚くほど言葉が少なかった。それはどうしてだか調和を生み出し、二人の間に降り立った。
「何でだろう」
ユキナリは鉛筆を走らせながら呟く。
「何が?」
「首を動かさないで」
注意してユキナリは続ける。
「落ち着くんだ。キクコといると。僕にも何でだか分からない」
「私も、ユキナリ君達といると、ぽかぽかするの」
「それは、胸の中が温かくなるって事?」
キクコは、「分からないけれど」と返す。
「先生達と一緒にいた時には、そういうの感じなかったから」
キクコがたまに漏らす先生、というものが何なのか、未だに明確な答えは得ていない。だが、ユキナリはそれでもいいと感じていた。
「僕は、君が何者だっていいと思っている」
綿密にスケッチを重ねる。キクコの眼は吸い込まれそうな赤だ。だがスケッチ段階ではそれを表現しようがない。しかし、その瞳にある憂いの感情は読み取ろうと考えていた。どこか物事を達観している。そうでなくとも、何かを諦めたような色を浮かべていた。
「キクコはさ、先生達に言われたから、旅をしているの?」
その質問にキクコは、「分からない」と顔を翳らせた。
「どこに行けばいいのか分からなくなってしまった……」
まるでもう二度と掴めない位置に来てしまったかのような物言いにユキナリは、「何かをするのに手遅れなんてないよ」と口にしていた。
「諦めたら、それが手遅れになるだけの話で。僕は、ナツキにトレーナーとして一緒に戦ってもらって、この旅にも参加出来て、とてもよかったと思っているんだ。ナツキは、僕に二度とない胸が高鳴る経験をさせてくれた」
「私も、ナツキさんは大好き」
キクコが微笑む。ユキナリはその一瞬を描き止めようとした。キクコの微笑み。その向こう側にあるものを。
「ナツキさんだけじゃない。ナタネさんも、アデクさんも大好き」
キクコはこちらへと振り返る。「まだ動かないで」と言おうとしたユキナリはその次の言葉に口を噤んだ。
「ユキナリ君も、そうだよ」
ユキナリはぽかんと口を開けたままその言葉を聞いていた。誰かに、好きだといってもらった事なんてなかった。ユキナリは、「僕は、変われたのかな」と呟く。
「変わりたくって旅を始めたわけじゃないけれど、僕は夢を諦めたくなかったんだ。どんな事だって、掴む資格はある。さなぎの時を経て、蝶になるのは誰だって出来るんだって、ある人に言われた」
あの人はどこにいるのだろう。もう一度会いたい。ユキナリは切にそう感じた。
「素敵な人だね」
キクコの飾らぬ物言いに、ユキナリは言おうとしてずっと先延ばしにしていた事を切り出した。
「あのさ、キクコ」
「なに?」
ユキナリは言うのが怖かった。もしかしたら嫌われてしまうかもしれない。それでも、キクコを見た時からいつかは言おうと感じていた言葉だ。ユキナリは思い切って口にした。
「モデルになって欲しい」
「なっているよ?」
「じゃなくって、その、裸のモデルに」
キクコは目を丸くしていた。ああ、嫌われたな、とユキナリは感じたがキクコは柔らかく頷く。
「……その、自信ないけれど」
その言葉に、「いや、その魅力的だと思う」とユキナリは早口に告げていた。キクコが再びぱちくりとしている。ユキナリは後頭部を掻いて、「いや、そうじゃなく……」と言い直そうとするとキクコはユキナリの唇へと指を当てた。
「絵に言葉はいらない」
キクコの言葉に自分が言っていた言葉だと思い出し、ユキナリは頭が冷えていくのを感じた。そうだ、絵に言葉はいらない。
「君の姿を、描かせて欲しい」
キクコは黙って服を脱ぎ始めた。窓から差し込む日差しがキクコの白磁のような肌を照らし出す。ユキナリは思わず見とれていたが、「座ればいいの?」と尋ねられた事で我に帰る。
「ああ、うん。さっきと同じポーズで、お願い出来るかな?」
キクコは頷き、西のほうを向いたポーズで腰かける。ユキナリはキクコの身体をスケッチする。服飾を身に纏っている時と違い、ラインが浮き彫りになっていく。今まで描いたどのスケッチよりも素直に描写されていく線。柔らかな女性美の溢れたキクコの身体を鉛筆でなぞっていく。少しだけ痩せているが、それも魅力の一つだ。決して彼女の美観を損なうわけではない。
ユキナリは無言でキクコをスケッチブックに描いた。初めて人間をスケッチしたはずなのに初めての気がしない。キクコのスケッチは収まるべき場所を見つけたかのようにスケッチブックへと馴染んでいた。最初はあまり長く裸でいさせるわけにはいかないと急く気持ちもあったが、それらの邪念は薙いでいった。
今はただ、美しいものを美しく描きたい。ただそれだけの衝動がユキナリを衝き動かす。これは生まれ持った感覚だ。これを研ぎ澄ませ、維持させろ。キクコという存在を描く事に全身全霊を費やせ。
ユキナリはキクコの姿を描き終えると一つ息をついた。
「出来たよ。もう動いていい」
キクコが一糸纏わぬまま歩み寄ってきてユキナリは改めて頬を赤らめた。キクコが恥じらいも何もなく、スケッチブックを覗き込んでくる。ユキナリは、「あの、さ」と口にする。
「もう着ていいから」
ユキナリの言葉にキクコは、「うん」と下着を身に纏い始めた。その姿だけでも目に毒だ。どうして平常心で描けたのか自分でも不思議である。
キクコはようやく服飾を纏ってスケッチブックを手にする。ユキナリは罵声が来る事も覚悟で顔を伏せていた。キクコがどのような言動に出るのかだけで息が詰まった。
「これが、私……?」
キクコの声に、やはり幻滅されてしまったか、とユキナリは覚悟した。頷くと、「すごいよ」とキクコが声を弾ませる。
「私、こんな綺麗じゃないのに」
キクコの評にユキナリは顔を上げる。キクコが、「すごい」と目を輝かせていた。
「こんなに綺麗に描けるの、ユキナリ君しか私、知らない。ユキナリ君、初めて人間を描くんだよね?」
確認の声にユキナリは頷く。キクコは、「すごいなぁ……」と感嘆している様子だった。ユキナリは、「変じゃない?」と聞いていた。
「変じゃないよ。それに、こんな事言うのもどうかと思うけれど、私、こんなに綺麗な人間じゃないよ」
謙遜気味なキクコへとユキナリは声をかける。
「キクコは、綺麗だよ」
初めて出会った時からずっとそうだった。ユキナリの中にあった思い。それを打ち明けるとキクコは少しだけ頬を紅潮させた。
「……そんな事ないよ。ユキナリ君が思っているような、綺麗な私じゃない」
「そういう、見た目じゃないんだ。キクコは、内面がすごく綺麗なんだ。湖畔の月みたいな」
ユキナリの表現にキクコは微笑んだ。
「褒め過ぎだよ」
「でも、僕にはそう見える」
キクコとちょうど目が合ってユキナリは息を呑んだ。赤い瞳が僅かに潤む。戸惑っているとたちまちキクコの目に涙が滲んだ。
「……泣いているの?」
ユキナリの言葉に初めて気がついたとでも言うようにキクコは目元を拭った。「これは……?」と不思議そうに首を傾げる。
「僕、何か傷つけるような事、言ったかな」
ユキナリの戸惑いを他所にキクコ自身もその現象に戸惑っている様子だった。
「私の目から出ているこれは、何?」
キクコの言葉にユキナリは、「えっ」と声を詰まらせる。
「涙、だと思う」
「涙……」
零れ落ちる涙をキクコは手ですくい、「涙」と繰り返した。
「泣いているのは、私……?」
何を不思議がっているのだろう。まるで今までの人生で泣いた事が一度もないかのような言い草だ。
「感情で涙を流すのは、人間だけだってどこかの本で読んだ事がある」
ユキナリの言葉にキクコは止め処なく溢れてくる涙を指ですくい、「私は、人、なんだよね」と声を漏らした。人間、でなくてなんであるというのだろう。
「キクコは、人間だよ。僕にとってかけがえのない人の一人だ」
キクコは何が不安なのだろう。何が怖いのだろう。それらを拭い去ってあげたい。キクコの心に差す曇り空を晴らしてあげたい。ユキナリは強くそう感じた。
「怖いのは仕舞っちゃいなさい、って先生に教えられてきた」
キクコはスケッチブックをぎゅっと握り締める。
「でも、今は怖くない。怖いのとは正反対の気持ちが溢れ出してくる。これは、何?」
「嬉しい、だと思う」
たどたどしいキクコの言葉を読み取りユキナリが口にする。キクコは胸に手を当て、「嬉しい、これが」とようやく得たかのような感触を味わっている。
「私、嬉しいって事は全然分からなかった。先生も、ヤナギ君も結局嬉しい事は教えてくれなかったから。だから私、ユキナリ君に嬉しいを教えてもらって、とても嬉しいの」
キクコの言葉にユキナリは、「そんな大層な事はしてないよ」と謙遜する。
「キクコの中にある優しさとか、そういうのが反応したんだ。僕だけのお陰じゃない。ナツキやアデクさん、ナタネさんの力があって初めて、伝えられたんだと思う」
ユキナリ自身うまく言い表せなかったがキクコはようやく心の平穏を得たという事なのだろう。その安らぎは何ものにも代えられない。
「キクコが嬉しいって言うんなら、僕も嬉しい」
ユキナリの言葉にキクコは、「嬉しい時って、どんな顔をするのかな」と不思議そうに唇を指で押し上げた。ユキナリはそれこそ野暮だろうとキクコを指差す。
「さっきみたいに、笑えばいいんだよ。キクコは、笑顔もとても素敵なんだから」
ユキナリの言葉にキクコは再び微笑んだ。ユキナリも笑う。お互いがこの場所にいる事がとても大事な事に思えた。
「出会えてよかった」
心の底から思う事を口にするとキクコも頷く。
「うん。私も、ユキナリ君に会えてよかった」
「何だか今生の別れみたいな台詞になっちゃったけれど」
笑い話にしようとする。キクコは、「本当だね」と目元を拭った。まだ涙で赤い瞳が揺れている。嬉し涙だと信じたいがもし悲しませている存在があるのならば、それを消し去りたいと感じた。それはヤナギなのか、それとも自分なのか。ユキナリはシルフビルで対峙したヤナギについてキクコに話すべきか悩んだ。あの時、ヤナギはサンダーに助けられた。まだ生きているはずだ。ユキナリは確信する。
自分とヤナギ、どちらかが生きている限り、お互いに憎しみ合う。
どちらかが決着をつけねばならないのだ。その因縁に目つきが鋭くなっていたのだろう。キクコが、「どうかしたの?」と尋ねてきた。
「いや、何でもないよ」
ユキナリはすぐに応じたがキクコにはばれているかもしれない。だとしても、最後の最後までキクコには自分とヤナギが敵対している事を知って欲しくなかった。