第百二十七話「氷の極点」
クチバの港に積乱雲が暗く垂れ込める。小雨を降らせたが、運行に支障はなかった。途中まで全翼型の戦闘機に輸送を任せていたそうだが、それではカントー政府を刺激してしまうとして、途中で貨物船に乗り換えたのだ。
ヤナギは停泊している貨物船へとタラップを上る。巨大なコンテナを有する在来型貨物船は問題なくイッシュからの長旅を終えたらしい。眼前を行くハンサムの手には黒いモンスターボールがあった。
「それは何だ?」
ヤナギが問いかけるとハンサムは足を止め、「ああ、これか」とモンスターボールを見やる。
「スペック3と呼ばれる新型モンスターボールの一つだ。新型だけでも相当な捕獲補正が入るが、これはその倍だ」
新型モンスターボールはロケット団が開発を進めていた分野のはずだ。ヤナギは鋭く切り込んだ。
「ロケット団と通じていたのか?」
「逆だよ。我々がロケット団へと、いやシルフか、シルフカンパニーへとこの技術を民間転用するように働きかけたんだ。八代目ガンテツを知っているかな」
ヤナギが首を横に振ると、「彼からの技術支援でね」とハンサムは応じた。
「八代目ガンテツは最初、シルフカンパニーに売り込もうとしていたんだが、我々のほうが後の世に爪痕を残すと考えたのか、私達にもこの技術を売ってきた」
「そんな鞍替えする奴を信用したのか?」
ヤナギの言葉に、「君ほど信頼を得ていないんだよ」とハンサムは微笑む。彼の視線の先には自分を護衛する黒い着物の女性の姿があった。
「まさかヤマブキのジムリーダーを味方につけているとはね」
「私はこのヤナギのほうがまだ信頼に足ると考えている。貴公らよりかはな」
チアキが鋭い眼差しでハンサムを睨む。チアキからしてみれば知り合ったばかりの間柄には違いなかったが、シロナの命を奪ったかもしれない輩を相手にしているとヤナギ以上の憎悪があった。ハンサムはそのような殺気を風と受け流す。
「恐るべき相手だね。ヤナギ君、彼女だけじゃないのだろう」
カミツレの存在もハンサムの耳には入っているはずだ。ヤナギはカミツレに空中展開を任せていた。もしもの時には貨物船ごとハンサムを亡き者にしろ、と。カミツレはサンダーで上空を飛んでいるはずだ。
「答える義務、あるのか」
ヤナギの声にハンサムは肩を竦める。
「つくづく、恐ろしい子供だよ、君は。シロナが君を単体戦力としては恐るべき、と評価したのも分かる」
自分の前でシロナの話題を出すとは、この男、分かってやっているのか。ヤナギはにわかに殺気立ったが怒りは目の前の事柄を忘れさせてしまう。今は、ハンサムの言う通りに、自分の牙を研ぐ時だ。
「……それで、その戦力とやらはどこにある?」
怒りを制したヤナギへとハンサムは興味深そうな目を向ける。貨物船の乗務員が、「対象は沈黙しています」と状況を報告する。敬礼をしている事からヘキサの構成員なのだろうと察しがついた。
「目覚めさせると、リスクが伴いますが」
「構わない。彼は実力者だ。そのような事は杞憂だよ」
ヤナギへと乗務員は一瞥を寄越してから、「しかし、対象は凶暴です」と言葉を重ねた。
「一流のトレーナーと構成員達が封印措置を何重にも施してやっとです。少しでも束縛を剥がすと、暴走の恐れが――」
「聞こえなかったのか? 彼ならば心配はいらないと言っている」
遮ったハンサムの声に乗務員は息を詰まらせた。「知りませんよ」と捨て台詞を漏らし、乗務員は降りていく。
「すまないね。教育が行き届いていなくって」
貨物船内へと乗り込みハンサムが声にする。
「構わない。俺だっていきなり子供が連れてこられればまず疑うだろう」
「君は理解があるのだね」
ヤナギはキッと睨む。今すぐにでも瞬間凍結で殺してしまいたい相手だが今は我慢だ。自分に、これ以上の力を授けるというのだから。
「コンテナに入る大きさで助かった。これ以上大きければどうしようかと思っていたんだ」
コンテナへと続く通路でハンサムは微笑んだ。虚飾に塗れた微笑みにヤナギは鉄面皮を返す。
「この向こうか?」
扉の向こうに何かがいる。それは視覚的にも伝わった。扉が凍結しているのだ。相当な冷気が放たれなければ目の前の状態にはならない。ヤナギの言葉にハンサムは、「さすがだね」と形だけの言葉を述べた。
「凍結領域がここまで広がっているとは予想外だった。一応、封印措置が取られているはずなんだが」
「御託はいい。この向こうにいるんだな?」
ヤナギの確認の声に、「そうとも」とハンサムは応じた。
「出来れば入りたくないがね。君のたっての望みならば」
「俺が先に入ればいいのだろう」
ハンサムの取ってつけたような遠回しな言い草にヤナギは扉のノブへと手をかけた。その瞬間、掌に凍結が至る。どうやらこの凍結領域は今でも成長中らしい。
「半端じゃないな。この向こうにいるポケモンは」
「開けてみるといい」
ハンサムに言われるまでもない。ヤナギは扉を開けて中に入った。その瞬間、投光機の光がコンテナの中を満たす。コンテナの中央に鎮座しているのは灰色の体色をしたポケモンだった。端的に言えば灰色の龍だ。氷付けにされた龍が黄色く濁った眼でヤナギを見据えている。翼は左右非対称で飛べるような形状ではなかった。歪さを想起させる龍は全身から冷気を発生させている。その体表に赤い十字架が突き刺さっていた。恐らく封印措置とはそれの事だろう。龍のポケモンは今、沈黙しているのが不思議なほどだった。ヤナギは龍のポケモンを観察する。冷気が充満し、まるでコンテナそのものが冷凍庫のようだ。
「この、ポケモンは……」
息を呑んだのはチアキだった。今までとは比べ物にならない冷気と威圧感。それが押し包んでいるせいだろう。ハンサムが声にする。
「このポケモンはイッシュの伝説に名を残すポケモン。名はキュレム、と言います」
「キュレム……」
ヤナギはキュレムと呼ばれたポケモンを眺める。静かな吐息を漏らしており、昏睡の只中にあるのだと分かった。
「眠っている?」
「擬似封印」
ハンサムが赤い十字架を指差す。
「キュレムの体表には、数十本の封印措置が施され、今は指の筋一本すら自由に動かせないはず」
「だが、それも机上の空論のようだな。このキュレムとやら、きちんと俺達を把握している」
氷タイプを専門とするヤナギにはそれが理解出来た。キュレムはこちらの出方を窺っている。場合によってはこの場で自分達も殺すつもりだろう。ハンサムは、「それほどに凶暴だとは」と口を開く。
「報告はされていませんが」
「こいつはやる。今は封印措置とやらが効いていて麻痺しているのかもしれないが、一度、それを解いてみろ。このクチバの港が根こそぎ凍り付くぞ」
それほどの実力を秘めたポケモンである事は明白だ。このコンテナだけ冷凍状態になっているのがそれを如実に表している。
「キュレムのデータはほとんどありません。ゼクロムやレシラムと同じく、イッシュ建国時に存在したとされるポケモンですが表の文献からは存在が消し去られています」
「お前ら自慢のヘキサツールとやらに書かれていたのか?」
ヤナギの質問にハンサムは、「ヘキサツールでは」とキュレムに向き直る。
「このポケモンが発見されるのはさらに時代が下って四十年後。滅びの少し前です。それまでいた事すら分かっていなかった」
「歴史に秘匿されたポケモンか」
ヤナギは鼻を鳴らしてキュレムを見やった。キュレムの黄色く濁った眼がヤナギを見据える。主に足る人物かどうか、見定めているかのようだった。
「こいつを俺が制すればいいのだろう」
「簡単には行きますまい。だから、これを用意したのです」
ハンサムが黒いモンスターボールを手渡す。それに入れろという事なのだろう。黄色い「H」の文字が彫り込まれたモンスターボールを手にヤナギはキュレムへと一歩踏み込んだ。
「チアキ、もしもの時にはバシャーモで援護を頼む」
チアキは首肯し、「バシャーモ」とモンスターボールから繰り出す。赤い鳥人が飛び出したがキュレムを前にして気圧されているのが分かった。
「この、プレッシャーの波は……」
チアキですら恐れを成すほどのポケモン。伝説の名は伊達ではないかと確かめてから、ヤナギはキュレムへの距離を縮めた。キュレムは動こうとしない。ヤナギの一挙手一投足すら観察しているかのようだ。
「俺がどう動くのか、こいつは見ている。俺の動きによっては、このコンテナを冷凍地獄にする事くらいは容易いだろう」
チアキはバシャーモへと注意を走らせる。炎・格闘のバシャーモは氷タイプのキュレムに対するカウンターになるはずであったが、今の状況では蛇に睨まれた蛙だ。キュレムの動きに対応出来るのか怪しい。
「バシャーモでどう動いても、このポケモンはその上を行くイメージしかない」
チアキが弱音を吐くほどにキュレムとの戦力差は歴然としている。ヤナギは、「イメージするのは」と声を張った。
「勝つイメージだけだ。それ以外は必要ないと心得ろ」
「だが、ヤナギ。どう動いたところで」
「弱音は判断を鈍らせる。よく見ていろ」
ヤナギはホルスターからモンスターボールを抜き放ち、ボタンを緩めて放り投げた。
「いけ、マンムー」
光に包まれてマンムーの巨体が飛び出した。だがキュレムに比すればマンムーの大きさなど大したものではない。角を突き出して威嚇するがキュレムの存在感はそれを超越していた。
「キュレム。俺がマンムーを出した意味は分かるか?」
当然、キュレムは答えない。代わりにハンサムが口を挟む。
「弱点を突かれないからではないのかな」
「弱点、か。そのような些事に構っているほど、このポケモンは生易しくなさそうだが、まぁいい。キュレム、唯一つだ」
ヤナギが指を立てる。キュレムはそれを見つめながら黙している。
「瞬間凍結、という技を俺はこいつと極めた。それにどれだけお前が近づけるのか、それを確かめる」
「どういう――」とハンサムが疑問を挟む前にヤナギは言い放つ。
「瞬間凍結、レベル1」
一瞬にして空気が凍て付いた。キュレムを凍り付かせようとする。キュレムの身体に張り付いた氷が針の形状を伴い、表皮へと突き刺さる。だがキュレムは瞬時に氷柱針を無効化した。表皮に入った氷の針を自らかさぶたのように氷へと再結晶化させ出血を防いだのだ。その行動は目で追えないほどであったが、ヤナギには感覚的に理解出来た。
「氷タイプに、氷タイプの技は」
ハンサムの言葉に、「言われなくっても分かっている」と答える。
「意味がない。だが、こいつは俺を試している。それに、俺がマンムーを外してこいつを手持ちにすると決めるのは、こいつが今の俺達よりも強いと証明されてからだ。それ以外に、長年連れ添った相棒を手離す理由がない」
何よりもプライドが許さない。マンムーよりも強くなければ、自分はあのユキナリにすら勝てないのだ。さらなる高みを目指し、ヤナギは手を振り翳す。
「瞬間凍結、レベル2」
一段階上げただけでは先ほどの再現だ。凍結範囲も含めてキュレムは同威力の攻撃で相殺してくる。ヤナギは一つ息をつき、「行くぞ」と緊張に拳を握り締める。
「瞬間凍結、レベル4」
一気に二段階上げた瞬間凍結だが、キュレムはほぼ狂いもなしに威力が同じ瞬間凍結をぶつけてくる。マンムーとキュレムの間の空間が歪み、氷の根が張った。瞬く間に広がっていく根が樹木の形を成していく。
「これは、何が起こって……」
「黙っていろ。俺とキュレムは真剣勝負をしている」
どちらが音を上げるか。その勝負だ。ヤナギはキュレムの頭上を仰ぎマンムーに指示を飛ばす。
「氷柱落とし」
キュレムの頭部へと氷柱が回転しながら落下するがキュレムはそれを空間に凝結させるという離れ業で回避した。瞬時に氷柱を縫い止める氷が張られ、氷柱の回転が弱まる。次の瞬間、氷柱は内側から弾け飛んだ。
「首を落とす。氷柱落とし、右方向に三つ、左方向にも三つ」
冷気が渦巻き、氷柱が三つずつ左右に展開される。ちょうど牙の形状を成した氷柱の群れがキュレムの首を狙う。ハンサムが声を上げた。
「キュレムを殺すつもりか」
「安心しろ。この程度で死ぬのならば、俺の手持ちには必要ない」
ヤナギが拳を握り締め掲げる。
「貫け、氷の牙」
三対の氷柱が氷の牙となってキュレム首を切り落とそうとするがキュレムは全身から冷気を放った。その冷気にコンテナの内壁が凍り付き、瞬く間に入り口が塞がれていく。ハンサムは慌てて扉を開けようとするが完全に凝結してしまっていた。
「何だ……」
「俺の瞬間凍結をコピーした。いや、元々はお前の技か。全身から冷気を放ち、この空間を凍結領域に巻き込む」
空間そのものを利用した凍結術だ。自分達の瞬間凍結に近いが、それよりも有効範囲が広いように思える。
「さしずめ、名付けるとしたら凍える世界、か」
キュレムは身体を揺らす。初めてキュレムのほうから動きがあった。非対称の翼から冷気の光がオーロラのように纏いつきキュレムを保護する。赤い十字架が弾け飛んでコンテナの内壁へとぶつかった。
「封印措置が外れる……」
ハンサムが頭を抱えて口にする。キュレムは僅かに浮かび上がった。どうやら翼は飾りではないらしく、きちんと飛ぶ機能を有していたらしい。キュレムはさらに凍結範囲を広げてヤナギを押し潰そうと迫る。
「それがお前の全力か」
ヤナギの言葉にキュレムは地鳴りのような鳴き声を上げた。ヤナギは指を振り下ろす。
「行くぞ、俺達の本気を見せる」
マンムーが踏み出すと足元から氷が浮かび上がった。
「瞬間凍結、レベル5」
凍結の波がほぼ形状を伴ってキュレムへと襲いかかる。だがキュレムはほとんど微動だにしなかった。その必要がないとでも言うように、キュレムは僅かに首を振るう。それだけでヤナギの身体が吹き飛ばされた。冷気が圧力を伴ってぶつかってきた。そうとしか思えない現象にチアキとハンサムが色めき立つ。
「ヤナギ! 大丈夫か?」
チアキが瞬時にバシャーモへと命令を飛ばし、加速を得たバシャーモがヤナギの身体が内壁にぶつかる前に守った。ヤナギは顔を拭い、「これが、全力、いや」と首を振る。
「これは、お前の小手先だな。この程度の瞬間凍結ならば無力化するまでもない。首を振るだけで同程度の威力でぶつける事が出来る。なるほど、俺も初めて食らったよ。自分が発生させている瞬間凍結を」
ヤナギは唾を吐いた。僅かに血が混じっている。この低温では口を切るだけでも致命傷になりかねない。だが、ヤナギは平然としていた。
「ヤナギ。貴公、大丈夫なのか?」
チアキが心配して声を振りかける。ヤナギは、「掠り傷だ」と気にしていない様子を見せた。だが、瞬間凍結を最大レベルに設定してもなお、このポケモンはマンムーを軽く超えてくるのだ。それだけの素質をヤナギはキュレムに見た。
「俺の攻撃全てをさばき、それ以上の攻撃で迎え撃つというのならば」
ヤナギが手を繰ってマンムーに指示を出す。マンムーは呼応したように吼えた。
「俺がまだ試していないもので倒すしかないな」
ヤナギは、「瞬間凍結……」と呟く。
「レベル∞」
マンムーが全身から冷気を噴き出す。その冷気が渦を成し、数十個の氷柱を瞬時に形成する。それだけではない、さらに数百個の氷柱針がキュレムを包囲し、キュレムから逃げ場をなくした。キュレムが首を振るって冷気を出し、氷柱針を何個か破壊するがそれでも勢いは削がれない。マンムーが咆哮し、その身体を跳ね上がらせた。マンムーに紫色の光が纏いつき、身体を浮上させる。その攻撃にチアキとハンサムが目を見開く。
「これは……」
「マンムーほどの巨体が、浮いている?」
にわかには信じられないのだろう。ヤナギも初めて試す技だ。
「原始の力をマンムーそのものにかけた。マンムーは原始本能の赴くままに戦い、最大限の冷気を発生させる。これが瞬間凍結の極点。だが、これを密閉空間でやればどちらかが倒れるしかない。俺か、お前か」
ヤナギの覚悟にハンサムは慌ててポケギアを掲げる。
「このコンテナを爆破しろ!」
張り上げられた声にもポケギアは応答しない。既にポケギアの機能する温度を下回っている。
「……やはり、爆破程度は考えていたか。俺とキュレム、両方をなかった事にするいい手だろう。だが、この空間では意味を成さない。俺が倒れるか、キュレムが倒れるか」
「馬鹿な! それでは我々人間が死んでしまう!」
ハンサムの声に、「構うものか」とヤナギは鼻を鳴らす。
「キュレムを扱うには生半可な気持ちでは無理なはず。トレーナーも死ぬ気で扱わねばな。俺も、呼吸が辛くなってきたな。チアキ、もしもの時には、頼んでおく」
チアキに予め頼んでおいたのは自分が死んでも情報だけは生き残らせろ、という選択だった。チアキは、「バシャーモ」と呼ぶ。
「最悪の場合にはフレアドライブでコンテナを破壊して外へと逃げる。私が、貴公の覚悟を無駄にしないために」
「た、助け……」とハンサムが手を伸ばすがチアキは雪に塗れながらも侮蔑の目で見下ろした。
「この期に及んで、まだ保身を頼みとするか、外道が。この戦いは最早、その域を超えているのだ。ヤナギは死ぬ覚悟で来た。トレーナーが手持ちを変えるという事がどれほどのものなのか、貴公には分かっていなかったようだな」
ハンサムが凍傷になって腫れ上がった手を晒す。ヤナギもこれ以上の凍結は自分の身体を害しかねない。だが、キュレムは凍結範囲を凝縮させて放った攻撃にも全く怯んだ様子はない。
「これほどの攻撃でもびくともしないか。さすがは伝説のポケモンだな。だが、俺とマンムーはもってあと数十秒が限界。けりをつけさせてもらおう」
ヤナギはほとんど感覚の失せた手を広げて前に出す。マンムーが茶色の毛並みを震わせ、身体を丸めてキュレムへと突っ込んだ。
「岩タイプの技は効果抜群だろう? 原始の力、自らを岩の大砲として打ち込んだ」
ずん、とキュレムの氷の表皮へとマンムーの身体が打ち込まれる。キュレムがよろめき後ずさった。だが、それだけで攻撃は静止しない。
「これだけで、終わりだと思ったか? キュレム。もう一撃だ。もう一撃、マンムーそのものを触媒として放つ一撃」
マンムーが茶色の毛並みから冷気を噴き出させる。凝結した空気が位相を変え、冷気が一瞬にして巨大な楔と化した。キュレムの氷の表皮に初めて亀裂が走る。灰色の深層を破って血が噴き出した。
「キュレム、俺達を認めないのならばそれでも構わないが、お前自身がその命を縮める事になる」
マンムーそのものが巨大な氷柱針であった。マンムーが形成した氷柱がキュレムの首を貫き、キュレムはここに来て初めて口腔を開いた。
雷鳴のような咆哮が発せられ、コンテナが膨張する。何が起こったのか、一瞬分からなかった。だが、ハンサムの声で理解出来た。
「これは……、キュレムが変形、いや変身した……!」
ヤナギの眼にもそれが映っていた。キュレムの形状が変化し、身体の内側から白い身体が侵食していく。ヤナギには白い何かは羽毛のように豊かに見えた。無機質なキュレムとは正反対だ。何かがキュレムという殻を破ろうとしている。その予感にヤナギは、まずい、と感じていた。
「このキュレム、俺達を巻き込むつもりか」
キュレムの身体を白い何かが透過し、右側から白い身体が拡張された。キュレムは前足が短いはずだったが前足がまるで腕のように広がり、背部へとチューブが伸びる。
「何だ……」とハンサムでも不明な現象らしい。キュレムの背後に赤い塊が現れたかと思うとそれへとチューブが接続された。その瞬間、キュレムの体内で赤い光が爆発的に押し広げられていく。
「キュレムが、何かを発生させようとしているのか」
ヤナギは最早、ほとんど指先の感覚がなかった。手足の感覚もそうだが、全身が麻痺したかのようだ。やはり瞬間凍結を最大限まで使った代償だろう。キュレムが赤い光を打ち出そうとした瞬間、チアキが叫んだ。
「ヤナギ!」
バシャーモの身体が飛び、ヤナギを掴んで引き寄せる。その瞬間、炎が爆発的に拡散した。コンテナが内側から熱膨張で爆発し、キュレムの身体から炎の十字架が伸びた。断末魔が僅かに耳に届く。どうやらハンサムは今の爆発で蒸発したらしい。チアキはバシャーモと共に身体を守ったが、それでも精一杯だったようだ。バシャーモの背中が焼け焦げている。
「チアキ……」
「貴公は死ぬべきではない。私がそう判断した」
チアキの声にヤナギは爆風が収まってからキュレムの姿を捉える。キュレムは右半身が白く変化していた。二本の足で立ち上がった姿は別のポケモンに見えたが左半身に名残がある。全身から伸びたチューブが球状の尻尾へと繋がっていた。尻尾の中には火炎を内包しているかのように赤く発光現象が続いており、その発光はキュレムそのものにも宿っていた。
「……今のは、氷の技ではないな」
チアキの声にヤナギは、「ああ」と頷く。今の攻撃は間違いなく炎タイプの技だ。それも並大抵の威力ではない。キュレムは身体に突き刺さっている氷柱を腕で引き抜いた。それはマンムーが丸まって出来た氷柱だった。マンムーは瞬間凍結を限界まで使ったせいか、瞼を閉じて眠りについている。
「マンムーを全力で使った。それでも勝てなかった」
ヤナギはキュレムへと顎をしゃくる。
「もう封印措置とやらも解けただろう。どこへでも好きに行くがいい」
キュレムはしかし、ヤナギへと頭を垂れた。まるで忠誠を誓うかのように。
「……キュレムが、貴公を認めたのか」
マンムーはもう使用不可能だろう。少なくとも大会期限中はこれ以上酷使出来ない。ヤナギはキュレムを仰いだ。キュレムは右半身から白い身体を仕舞い込み、徐々に元の形状へと戻っていった。
「氷・ドラゴンタイプか。奴と同じドラゴンを使う事に因縁を感じずにはいられないが」
ヤナギは転がっていたモンスターボールを拾い上げる。新型モンスターボールのロックが段階的に外れ、キュレムの身体を射程に捉えると赤い粒子としてキュレムをボールの内部へと引き込んでいった。
「キュレムが、貴公のポケモンに?」
「どうやらそのようだ。こいつも物好きだな。俺のような人間に扱われるのをよしとするとは」
モンスターボールを掴んでいると不意に駆け寄ってきた人々が目に入った。私服だが恐らくはヘキサの構成員だろう。コンテナの周りを固めていたのだ。
「貴様、ハンサム警部をどこへ」
その声にヤナギはくいっと顎をしゃくる。彼らの視線の先にはキュレムの攻撃を回避出来ずに消し炭となったハンサムの影だけがこびりついていた。息を呑む人々へと、「聞け!」とヤナギは声を張り上げる。
「俺はあんたらの切り札、キュレムを手に入れた。俺に従うのならばついてこい。だが、まだもうこの世にはいない人間に従うというのならば、俺も束縛はしない。どこへなりとも行くがいい」
ヤナギの言葉にハンサムの死を実感出来た人々は何人いただろう。少なくともその場にいた人々はハンサムの死を受け入れた。
人々は跪き、頭を垂れる。
「――我らが盟主」
勝手なものだと胸中では感じていた。だが、ヘキサを先導する人間がいなければ滅亡の時代が訪れるのだろう。ヤナギはそれもよしとしていなかった。
「どうする気だ?」
チアキの声に、「上手くやるさ」とヤナギは応じてモンスターボールを掲げる。
「ここに! 境界のポケモンたるキュレムを手にした! 俺は境界を超える者として君臨する。ヘキサ存続を約束しよう。そして、我らが悲願」
カミツレが操るサンダーが甲高い鳴き声を発して舞い降りてくる。その様子に人々からどよめきの声が上がった。
「達成しよう。世界の存続を」
そのためならば手段は問うまい。ヤナギは深く決意する。
特異点――オーキド・ユキナリ抹殺を。