NEMESIS














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覚醒の章
第百二十五話「ガール・イズ・マイン」

 サファリゾーンへはいくつかのゲートを要して入館出来た。

 放し飼いにされているポケモンの暴走を予期してか、柵が何重にも張り巡らされている。入ってみると檻の中に放り込まれた気分だった。サファリゾーンを立ち上げたのはバオパという青年実業家を始めとする一団で設立されてまだ日が浅いが今次のポケモンリーグでの逐次開放により民衆には広く知れ渡って欲しいとの事である。

「メカポッポを一人一羽つけてください。ガイド機能とポケモンへの対シールド機能がついております」

 手渡されたのは機械で造られたポッポだった。表層がまだコーティングされておらず、剥き出しの機械部品が覗いている。

「何なんです?」

「お客様によりよくサファリゾーンをご活用いただくために、安全を第一としたサファリゾーンのガイドです」

 係員の説明にもピンと来なかったがどうやらこのメカポッポがいれば野生が飛び出してきても大丈夫なのだという。サファリゾーン内では手持ちは預かられるためにこれしか命の頼みはない。

『皆さん、サファリゾーンへようこそ』

 メカポッポから滑らかな音声が聞こえてくる。ユキナリは瞠目した。

「喋るんだ……」

『はい。指向性音声を使用しており、お客様によりよいサービスを提供出来るようになっております。サファリゾーンの説明に入らせてもらってもよろしいでしょうか』

 ユキナリは、「ああ、はい」と応じる。メカポッポは目の奥の発光ダイオードを光らせて、『まず石と餌があるはずです』とメカポッポの言葉に入館する時に与えられた石と餌の袋を思い返す。

「これですか」

『石をポケモンにぶつけるとポケモンは怒りますが、当然、近いほうが観察のし甲斐があるというもの。餌で近寄らせる方法もありますが、警戒心の強いポケモンは縄張りから出ようとはしません』

「本来なら、サファリボールで近づいたところを捕獲、でしたっけ?」

 事前説明をおぼろげながら口にするとメカポッポの口から、『ポケモンリーグ参加者の新たなポケモンの捕獲は禁じられております』と声が発せられた。

『ですからお客様方には実際とは違いますが、体験入館という形になっております』

「捕まえられない代わりに、いつまでいてもいいんでしたよね」

『とはいっても閉館する十七時までですが』

 メカポッポの説明にユキナリは頷いた。珍しいポケモンを観察し放題。しかも無料となればユキナリは喜んで歩み入る。

「あんまり離れちゃ駄目よ」

 ナツキの声に、「大丈夫だって」と応じる。

「メカポッポのガイドさえあればはぐれないんだから」

『はい。ありがとうございます』とメカポッポが応じる。その声は指向性のために聞こえていないのかナツキは、「あっそ」とそっぽを向いた。

「……うるさいわね、このメカ。人がどう行動しようが勝手でしょ」

 ナツキにしか聞こえない音声でメカポッポが何やら言っているらしい。ユキナリは広大なサファリゾーンへと歩み出した。

「アデクさんはどうします?」

「オレか? オレは、そうじゃな。ゆっくりと巡るとするよ。お前さんはスケッチに?」

「ええ」とユキナリはスケッチブックを掲げる。新たなポケモンの生態をスケッチ出来る千載一遇のチャンスだ。

「僕はその辺を歩いてきます」

 ユキナリの背中へとナツキが声をかけようとする。「放っておけ」とアデクがいさめた。

「でも……」

「ユキナリも子供じゃなかろう」

「子供ですよ」

 アデクとナツキの言い合いを他所にユキナリは早速、近場の岩陰に入ってポケモン達を観察する。四足のポケモンで群れを作っていた。茶色い毛並みで三本の尻尾を揺らしている。ユキナリは素早くそのうち一匹の行動スケッチを施した。まず当たりをつけ、次々に肉付けしていく。

「あれは、なんていうポケモンなんだろう?」

『ケンタロスです』

 メカポッポが応じた。メカポッポのカメラから本部に繋がっているのだろう。生態データを滑らかな口調でメカポッポがガイドする。

『獲物に狙いをつけると尻尾で身体を叩きつけながら真っ直ぐに突っ込んできます』

「でも、メカポッポがいれば安全なんでしょう?」

 ユキナリの声に、『もちろん』とメカポッポが応じる。

『シールド機能を有していますから、人一人分くらいならば保護できます』

「仕組みはよく分からないけれど頼れるってのはいい事だよ」

 ケンタロス一匹分のスケッチが完了し、ユキナリは次の目標へと向かう事にした。その途中、ユキナリを見つけたのかケンタロスが重厚な鳴き声を発する。

「気づかれた?」

 だがケンタロスが見ているのはユキナリではない。きょろきょろと辺りを見渡しているキクコであった。

「キクコ? 何で?」

「あ、ユキナリ君」

 キクコが手を振る。ケンタロスが興奮した様子で遠吠えをして尻尾で身体を叩いた。突進の合図だ。ユキナリは、「逃げろ!」と叫んでいたがその時にはケンタロスがキクコに向けて駆け出していた。しかも一匹ではない。群れが津波のように押し寄せている。思わずユキナリは袋に詰めてあった石を手にした。

「この!」

 投げつけられた石は先頭のケンタロスを打ち据える。するとケンタロスはユキナリのほうへと向き直った。ユキナリは後ずさって息を呑む。

「大丈夫なはずだ。シールド機能とか言うのがあるんだろう」

 しかし、ケンタロスの怒りの形相は凄まじかった。足から力が抜けていく。先頭のケンタロスを嚆矢として群れが一挙に突っ込んできた。ユキナリは青ざめる。シールド機能といえども群れに突っ込まれれば終わりではないのか。逃げ出そうとするが足が竦んで動かない。このままでは、と最悪の想定が脳裏に浮かぶ。

 その時、ずずん、と腹腔に響く足音が聞こえた。ケンタロスが振り向く。ユキナリもその方向を見やっていた。銀色の表皮を持つ四足のポケモンが三体ほど列を組んで突っ込んでくる。ケンタロスが咆哮して張り詰めた呼吸を吐き出した。

「あれは……」

『サイホーンです。ケンタロスとの縄張り争いでしょう。頭は悪いですが身体がとても丈夫です。血の気の多い個体がサファリゾーンには数体いまして、その群れのボス、と言ったところでしょうか』

 サイホーンというポケモンのうち一体が前に出てケンタロスに向けて唾を吐く。ケンタロスは負けじと吼える。サイホーンは角を突き出して威嚇する。

「これ、どっちが勝っているの?」

 メカポッポに尋ねると、『今はお互いに牽制し合っているようですね』と答えた。

『それよりもお連れさんを助けなくっては』

「そうだった」

 ユキナリはキクコの名を呼んだ。キクコは回り道をしてユキナリへと合流する。

「これ……」

「どうやら縄張り争いみたいだ」

 サイホーンが角を掲げて咆哮するとケンタロスは三本の尻尾を別々の方向に揺らした。

「あの行動の意味は?」

『出来れば戦闘を避けたいのでしょう。尻尾を打ち付けて戦闘意識を高めるのですから、バラバラに揺らす好意は逆の意味と捉えられます』

「なるほど……」

 覚えず鉛筆を握る手に力が篭る。

 サイホーンは業を煮やしたようにケンタロスへと向けて姿勢を沈める。突進の構えだ、とユキナリが感じるとケンタロスが尻尾で身体をびしびしと叩いた。どうやら徹底抗戦のつもりらしい。

 サイホーンが飛びかかる。ケンタロスが真正面からぶつかり合い、激しく地面が揺すぶられた。

『お互いに技を出しています。地震ですね』

 双方の身体から土色の波が溢れ出て地面を打ちつける。サイホーンの一個体とケンタロスの一個体が代表してぶつかり合っている。

『どうやら縄張りのボス同士がお互いの権利をかけて戦っているようです』

 サイホーンの鋭く尖った角がケンタロスの喉元へと突き刺さる。ケンタロスは後ずさった。サイホーンが全身で突進する。ケンタロスが呻き声を上げた。

『サイホーンの骨密度は人間の一〇〇〇倍。大型トレーラすら粉砕する体当たりです』

「一〇〇〇倍……」

 途方もない数字にユキナリは唖然とするがそれ以上に驚くべき事だったのはまだ健在のケンタロスだ。

「すごい。まだ立っている」

 サイホーンの満身による突進を受け止めてケンタロスが尻尾で自分の身体を叩きつける。最早その闘争心は誰にも止められなかった。ケンタロスが足でサイホーンを踏みつける。サイホーンが僅かに後ずさった隙をついてケンタロスは即座に攻撃姿勢に移り、突進をかました。

「サイホーンも、まだだ」

 サイホーンは腹部を打ち据えた突進に耐え、前足で地面を踏み締める。

『骨密度一〇〇〇倍は伊達ではありません。それにサイホーンは後先を考えられないのです。一度戦うと決めれば身体が粉々になるまで戦います』

「これが、野生……」

 自分達の今まで遭遇した野生ポケモンが可愛く思えるほどの剥き出しの野生にユキナリは鉛筆を手に取っていた。

「ユキナリ君、何を……」

 狼狽するキクコを他所にユキナリは鉛筆を走らせる。

「描かなきゃ。こんなの何度もお目にかかれない」

 サイホーンの当たりをつけ、次いでケンタロスの当たりをつける。即座に先ほどの突進の動きを頭の中で組み上げてユキナリはスケッチブックに落とし込んだ。スケッチブックの上で先ほどの戦闘の再現が行われる。

「逃げよ、ねぇ」

 キクコが袖を引っ張るがユキナリは、「もうちょっと」と描き上げるまでその場を動く気はない。するとスケッチブックの上にぽつりと水が滴った。

 空を仰ぐと一つ、二つと雨の雫が頬を濡らす。

「雨だ」

 ユキナリの声にすぐさま本降りになった雨の中、サイホーンとケンタロスが激しくぶつかり合う。

「これでも戦うってのか」

 再び行動スケッチを取ろうとするとキクコが、「濡れちゃうよ」とユキナリを引っ張る。サイホーンとケンタロスの戦闘に夢中になっているユキナリには聞こえていないも同義だったが、その時、不意に肩にあった重量が消えた。

 目を向けるとメカポッポが固まって落ちている。

「あれ、どうした?」

『耐水性は、ないので……』

 その言葉を潮にメカポッポは沈黙する。ユキナリはその段になって嫌な汗が首筋を伝った。メカポッポがいなければ自分達はどうやってこのサファリゾーンで身を守るというのだ。

 ユキナリはキクコの肩に留まっているメカポッポを引っ手繰って身体で守った。

「とりあえず、どこか雨をしのげる場所へ!」

 ユキナリの声にキクコも頷いて草原を駆け抜けていく。目の端ではまだサイホーンとケンタロスの決闘の行方が気になったが今はこちらが優先だ。五十メートルほど先に木陰があった。ユキナリはキクコの手を引いて木陰へと入る。鞄からタオルを取り出しメカポッポを拭いた。

「まだ、機能しているのかな」

 メカポッポに耐水性がないのあらばこのメカポッポも危うかったが、『調整中です』という機会音声が流れた。

「ちょっと待てば復活しそうだ」

 ひとまず息をついてユキナリは雨脚を眺める。キクコも中空に視線をやって、「雨、止まないね」と呟いた。ユキナリはキクコを見やる。張り付いた服が身体のラインを浮き彫りにしていた。昨夜裸体を見た事もあり、ユキナリは耳まで真っ赤になった。

「どうしたの?」

 キクコが怪訝そうに尋ねてくる。ユキナリはタオルを突き出し、「これ。拭かないと風邪引いちゃう」と見ないように告げた。

「あ、ありがとう」

 キクコが髪を拭く。ユキナリはそれを横目に呟いた。

「キクコの髪って、そういえば珍しい色だよね」

 灰色の髪は老練したような印象を受けるがキクコの人格のお陰で幼いイメージがついて回った。

「そうかな。みんなもこの色だったから不思議には思わなかったけれど」

 キクコの言葉は時折分からないが、何かを必死に伝えようとしている事だけは確かだった。キクコの頬を伝い、雫が顎から落ちる。その一連の動作だけなのに、ユキナリは見とれてしまった。

「何?」

 訊いてくるキクコに、「いや」とユキナリは誤魔化そうとする。

「雨ってのは、嫌だな、って思ってさ」

「そうだよね。ユキナリ君、スケッチブックは大丈夫だった?」

 身体で守っていたためにスケッチブックはほとんど濡れていなかったが先ほどの行動スケッチが途中だった。ユキナリは鉛筆を取り出して行動スケッチの続きを描きつける。

「見ていてもいい?」

 キクコの言葉は思いも寄らなかった。ユキナリは、「いいよ」と応じて鉛筆を走らせる。そういえば今まで、他人に見られながら作品を仕上げた事はあまりないのではないだろうか。キクコに見られているからと言って心が乱される事はない。むしろ落ち着いている。キクコの存在が温かなものとなって自分を見つめているのが分かった。

「上手だね」

「まだまださ。もっと早く、行動スケッチぐらいは出来るようにならないと。それに、結局のところ僕はデッサンをしているだけで、これに色をつけるとまた違った趣になる。色をつけて初めて、絵は完成するんだ。僕のはその初期段階を真似ているだけだよ」

 ユキナリは鉛筆を止めた。キクコが顔を覗き込んでいたからである。その赤い瞳に吸い込まれそうになりながらユキナリは口を開いた。

「キクコは何か、夢とかはないの?」

「夢、か。よく分からない」

「分からないって、でもキクコだって目的があるからポケモンリーグに参加したんだろう」

「それも、ちょっと分からなくなっちゃった」

 キクコは両膝を抱え込んで呟く。目的が喪失したような言い草だった。かつてナツキに軟弱者と謗られ、夢を追う事を諦めかけた自身の姿に似ていた。

「夢を追う資格のない人間なんていないよ。みんな、ここじゃないどこかへと行こうとしている。その権利があるんだ」

 ユキナリの言葉にキクコは呆けたようにこちらを見つめている。ユキナリは目を逸らし、「ってある人が言っていた。受け売りだけれどね」と笑い話にする。

「そうなんだ。でも、ユキナリ君はそれで立ち直ったんでしょ? それってすごい事だと思う」

「すごい、かな。僕なんて、流動的で、誰かの言葉にすぐに流されちゃう。自分のない人間だと思われても仕方がないよ」

「でも、ただ目標も何もなく旅してきた人じゃないよ。そんな人はここまで来れない」

 ようやく終盤に差し掛かろうとしている。だがこの旅が終わった時、ユキナリはどうするべきなのだろうか。王になれたのならば、王として振る舞うべきなのか。昨夜のナタネの言葉が思い出される。王になったところでつまらない、と。

「僕も、目的って言うのはちょっと分からない。こうして、絵を描いている時が一番楽しいって事くらいかな。僕に見えているのは」

「それだけで充分だよ」

 キクコの言葉の後押しを受けるが、そうなのだろうかと自問する。中途半端な気持ちで王を目指す事は本気で玉座を求めている人間を冒涜する行為ではないのか。

「どっちつかずなんだよ。僕だって誰かに尊敬されたい気持ちはあるし、誰かの憧れになりたい気持ちもある。でも、その最終形態が絵を描く事なのか、それともポケモンの玉座なのかって言うのは随分と話が違ってくる」

 オノノクスはどちらを望んでいるのだろう。もしポケモンの声が聞けるのならば、その望みを叶えてやりたい。

「そういうユキナリ君の事を、オノノクスは好きなんだと思うよ」

 キクコの思いがけない言葉にユキナリは呆然とする。キクコは降りしきる雨を眺めながら告げた。

「オノノクスは、ようやく信じられる相手としてユキナリ君を主人として認めている。だから、最大限の力を振るってくれている」

 そういえば、とユキナリは思い出す。キクコにはポケモンの気持ちが分かる力が備わっているのだったか。

「オノノクスは、本当にそう思っているのかな。僕みたいなのが主人で、本当の力を発揮出来ているのかな」

 分からぬ問いにキクコは、「そのはずだよ」と答える。キクコの言葉だけが絶対ではない。だが信じるに値する言葉だった。

「ありがとう、キクコ」

 何のてらいもない礼を述べるとキクコは微笑もうとして、さぁっと顔から血の気が引いた。何かを見つけたような視線にユキナリが振り返ると、ピンク色の身体のポケモンが佇んでいた。舌をだらりと出しており、丸みを帯びた身体だ。キクコは悲鳴を上げようとしたのだろう。ユキナリはそれを制して、「大丈夫」とキクコの肩に手を置いた。

「大丈夫、って」

「攻撃するのなら、もうしているよ。このポケモンに害意はないんだろう。それにメカポッポの守りもあるだろうし」

 メカポッポへと視線を振り向けるがデータが提供される様子はない。ユキナリはスケッチブックを構えた。

「ユキナリ君?」

「こんな距離で見られるなんて珍しいよ。スケッチに移る」

 歩み寄ろうとするユキナリに、「危ないよ」とキクコが声をかけた。

「大丈夫さ。餌も石もあるし、この餌で、っと」

 ユキナリが餌を投げる。舌の長いポケモンは一度舌を仕舞い込んでからすんすんと匂いを嗅ぎ、もう一度舌を出して餌を絡め取った。警戒心は薄いらしい。ユキナリはスケッチブックのページを捲り、大きめに当たりをつける。

「このポケモン、見た事がないな。舌が武器でもあるのか? 手足はあまり長くないし、すばしっこそうでもない。どちらかと言えば鈍重そうだし、つぶらな目だ。凶悪そうでもない」

 ユキナリは観察しながらスケッチブックへと鉛筆を走らせてすぐさま目の前のポケモンを描いていく。キクコの手の中にあるメカポッポから声が漏れた。

『ベロリンガです』

 その言葉を振り返らずに聞き返す。

「ベロリンガ?」

『このサファリゾーンでも珍しい部類に入るポケモンですね。個体数が少なく、その生態も謎に包まれているのですが舌が身長の二倍もあるとか。舌を伸ばす瞬間をよく見てください』

 メカポッポの声にユキナリとキクコはベロリンガを観察する。餌を舌で絡め取ると尻尾が震えた。

『仮説としてですが、ベロリンガは舌まで神経が発達しておりそれと連動して尻尾が動く事から行動の予兆を見るのに舌の動きよりも尻尾を見るというデータがあります』

「へぇ。そうなんだ」

 ユキナリは素直に感心する。ベロリンガは舌を口腔に押し込めた。それをじっと見ていると舌がまるで弾丸のように打ち出される。ユキナリは反応が遅れたがメカポッポの口から青い光が放射され、ベロリンガの舌による攻撃を防御した。

『餌を狙おうとしたのでしょう。ベロリンガの舌は武器でもあります』

「ユキナリ君。ベロリンガは攻撃しようという感じじゃないけれど、餌を狙っているみたい。今度は当ててくるよ」

 キクコの予想は当たる。ユキナリは後ずさりながらもベロリンガのスケッチをやめない。ベロリンガが舌をだらりと垂らして身体を舐め回す。

『ベロリンガの舌には麻痺毒が仕込まれていると言います。舐められるだけでも脅威です』

 メカポッポの説明を聞きながら、「なら、何でベロリンガ自身は平気なんだろう?」とユキナリは首をひねった。

「表皮に秘密があるのか。あるいはアーボみたいに自分の毒は効かない体質なのか」

 考察を巡らせているとベロリンガが再び口腔内へと舌を仕舞い込む。またしても舌による攻撃が来ると予感したユキナリは慌てて逃げ回った。ベロリンガの舌が器用にユキナリを追って曲がる。肩越しに見やりながら、「何て自在に」と呟いた。

『ベロリンガは舌が手の代わりになるのです。その代わり、発達した舌には神経が相当数通っていると思われます』

「だったら」

 ユキナリは袋の中にある石を取り出し、ベロリンガの舌へと投げつける。舌の先端に命中した石に対してベロリンガは舌を引っ込めた。

「鋭敏な感覚があるのなら少しの痛みでも警戒するはず」

 ユキナリが覗き込むとベロリンガは身体を跳ね回らせて逃げ出した。ユキナリとキクコが息をつく。

「た、助かった」

 木に身体を預けているとキクコが笑った。

「怖かったけれど、ユキナリ君、スケッチブック絶対に離さないんだもん。ちょっと可笑しい」

「可笑しいって、そりゃおかしいのかもしれないけれど」

 ユキナリが頬を掻きながら呟く。キクコは踊るように身を翻した。雨が止みかけ、雲間から覗いた陽光が雫を照らし出す。ユキナリの目には幾重の光が乱反射し、まるで祝福するようにキクコへと差し込んできたのを感じ取った。キクコは光の中を行き交う旅人だ。

 ユキナリはその姿に暫時、見とれていた。キクコが、「どうしたの?」と尋ねてくる。ユキナリはぎゅっとスケッチブックを握り締め、一つを提案した。

「キクコ、お願いがあるんだ」

 先ほどの姿を見た時から、いや、それよりも前かもしれない。キクコと会った時からいつか言おうと思っていた。

「君の姿を、絵に描かせて欲しい」


オンドゥル大使 ( 2015/07/03(金) 21:49 )