第百二十四話「遠い匂い」
スケッチブックを取り出し、今まで遭遇したポケモンの行動スケッチを取る。
このようなゆったりとした時間が流れるのは久しぶりだった。ワイルド状態になってからその先、ずっと張り詰めていた。その間にも様々な出会いがあった。強敵、ゲンジとの戦い。ガンテツとの邂逅と別れ。シルフビルでのヤナギとの死闘。ユキナリが鉛筆を進めながら微笑んでいると、「なーに描いてるの?」と背後から抱きつかれた。びくっと肩を震わせてユキナリが飛び上がる。ナタネがいつの間にか気配を消して覗き込んでいたらしい。ユキナリは息をついて、「ノックくらいしてくださいよ」と扉を目にする。
「あー、ゴメンね。驚かそうって魂胆はなかったんだ」
「ないんなら何でこんな事するんです?」
スケッチブックを握り締めユキナリは唇を尖らせる。ナタネはひらひらと手を振りながら、「いいじゃん。あたしの裸見たんだし」と口にする。
「見たくて見たわけじゃ……」
「照れるな照れるな、少年」
ナタネが面白がって指で突こうとしてくる。ユキナリはスケッチブックでガードしながら、「何の用です?」と突っぱねた。
「つれないなぁ。ユキナリ君の体調が心配だから見に来てあげたのに。ナツキちゃんやキクコちゃんも心配していたよ?」
それは、悪い事をしたかもしれない。とユキナリがスケッチブックを下げると、「えい」とナタネが指でユキナリへと突っ込みをかける。ユキナリはたじろぎながら、本当にこの人は読めないと考えを新たにした。
「ナタネさんは、何のつもりなんですか?」
「何のって?」
小首を傾げるナタネへとユキナリは改まった態度で告げる。
「僕達の旅に同行するなんて」
「そりゃ、マスターが決めた事だからだよ。あたしはマスターに言われた事に従っているだけ」
あっけらかんと言い放つナタネへとユキナリは、「そんな理由だけじゃないでしょう」と言っていた。
「と、いうと?」
「ナタネさん自身も玉座に憧れているんじゃないですか? だから最有力候補である僕達へと接触した」
ユキナリの推理にナタネは、「うーん」と呻った。
「面白い推理だけれど大きな欠陥が一つあるね」
「何です?」
「あたしは玉座に全く興味がないってところかな」
ユキナリが目を見開く。そのような人間がいるのか。訝しげな視線を向けていると、「そんな奴いない、って顔だね」とナタネは口にした。
「まぁ、いないって考えるのが筋だろう。だってこの戦いの最終目的だし。でもシンオウから呼ばれたあたしはいわば留学生。マスターの下で、もしかしたら最後の最後まで居残っていたかもしれない。あたしの目的は強くなる事で、玉座じゃない。だってつまらないじゃん」
ナタネの評にユキナリは面食らう。
「つまらない?」
「オウサマになっちゃったらさ、それまで出来た事が出来なくなるかもしれないんだよ? あたしはタマムシシティで過ごしたのがとてもいい経験になった。あの街が大好きだし、マスターも大好き。だから、オウサマになるのはもったいないよ。あたしはオウサマよりもっと強くなって、シンオウを、故郷を盛り上げたいと思っているんだから」
ナタネの志にユキナリは素直に感服した。玉座で普通は思考が停止するものだ。だというのに、ナタネの考えはその先まで見据えている。それこそ何十年かの未来までも考えたきちんとした人生設計だ。
自分はどうだ? と胸中に尋ねる。スケッチブック片手に戦闘を行うのか、それとも戦闘の片手間に絵を描くのか。意外に保留にし続けていた事項に戸惑っていると、「ねぇ、見せてよ」とナタネが手を伸ばした。
「スケッチブック。描いているんでしょ?」
ユキナリは少しの逡巡の後、スケッチブックを手渡した。ナタネはページを繰りながら、「へぇ」と感嘆の息を漏らす。
「すごいね。これ、今まで会ったポケモン達?」
「その半分程度ですよ。描き出せているのは」
「じゃあどうするの? その時に描けなかったら」
「記憶しているんで、思い出して描いています」
「記憶力いいんだね。あっ、あたしのロズレイドもいる」
ナタネは自分の手持ちを発見して喜ぶ。裏表のない性格なのか、と考えていると今度は、「マスターのモジャンボも」とナタネは笑顔になった。
「……そんなに、嬉しいですか?」
「うん? 嬉しいよ。だってユキナリ君、絵上手いじゃん」
「僕なんてまだまだ。旅に出る前はポッポとコラッタくらいしか描いた事はなかったし」
「いやいや、謙遜する事はないよ。ユキナリ君には物事を鋭く見つめる洞察力みたいなものがあると思うな」
「洞察力、ですか」
自分にはそのようなものはないのだと思い込んでいた。あるのは絵を正確に描くだけのスキルだと。
「うん。ユキナリ君、オノノクスだっけ? その子とよく意思疎通が出来ている。洞察力がないと新種のポケモンなんてどう扱えばいいのか分からないもんだよ」
「今だって分かっていませんよ」
オノノクスの実力を引き出せているのかは甚だ疑問ではある。ナタネは、「そう悲観的になる事もないんじゃない?」とスケッチブックを閉じた。
「あたしは可能性に満ちていて好きだけれどなぁ。そういやこのスケッチ、人間はないね」
その指摘にユキナリは肩を縮こまらせた。
「誰かを描くなんておこがましいかなって思って描いてないんです。賞の応募に必要になったら描いてきましたけれど、自分から誰かを描きたいとは思った事はないです」
そうでなくとも人間のスケッチには抵抗がある。ナタネは、「あたしでもいいよ」と提案した。その言葉の意味が分からずに目を丸くする。
「どういう……」
「あたしをスケッチしてもいいよ、って事。何なら脱ぐけれど」
ケープへと手をかけたナタネにユキナリは慌ててストップをかける。熱しかけた頭を振って、「せっかくで悪いですけれど」と謝った。
「ナタネさんは会ったばかりで、まだ掴み切れていないんです。モデルにはやっぱり、掴んでいる人間がいいので」
「じゃあナツキちゃんは? 幼馴染なんでしょ」
「ナツキは描かせてくれませんよ。僕のこれだって馬鹿にしているし」
「そんな事はないと思うけどなー」
ナタネはユキナリが先ほどまで横になっていた布団に寝転がる。自由奔放なナタネの態度にユキナリは唖然とした。
「いつもそんな感じなんですか?」
「マスターの前とか? うーん、マスターの前だと緊張してあんまり記憶がないんだよねー」
ナタネが唇を指で押し上げて呟く。意外だった。ナタネのような性格でも緊張はするのか。
「っていうか、いつまでいるんです?」
「うん? 君が寝るまで」
「僕の布団の上にいちゃ寝られないでしょう」
ユキナリの指摘にナタネは、「あっ、そっか」と今さら思い至ったらしい。
「どうする?」
「どうする、って出て行ってもらうしか」
「何なら朝まで添い寝するよ? 少年」
からかう響きを伴ったナタネの声にユキナリは耳まで真っ赤になりながらナタネを追い出した。
「出て行ってください!」
「つれないなぁ。まぁ、いいよ。明日のサファリゾーン、楽しみにしているねー」
飄々とした様子でナタネが廊下を歩いていく。鼻歌混じりの声で本当に楽しみにしているようだ。
ユキナリは部屋に戻って布団へと寝転がった。
「女の人のにおいだ……」
呟いてから浮かんだ考えを掻き消すように頭を振った。