第百二十三話「ぬるま湯の関係」
「で? なんで二人ともボロボロなわけ? お風呂入っていたんだよね?」
ナタネが夕食の席に呼ばれたユキナリとアデクを交互に見やって不思議そうな顔をする。ナツキは、というと先ほどから目を合わせてくれない。キクコが呆然と眺めている。ナツキが時折肩を叩いて、「見ちゃ駄目よ」と告げ口する。
「おい! ナツキ!」
「飯の時くらい、静かにせんか」
隣では胡坐を掻いてアデクがお椀に盛った白米をかけ込んでいる。誰のせいで、という言葉を飲み込んでユキナリは本題に移った。
「……それでだけれど、明日はサファリゾーンに行こうかな、と思っているんだ」
サファリゾーンに向かうのはナツキからしてみれば余計な回り道かもしれない。だからこそ、一同が会する夕食時に切り出した。アデクは、「オレは別に構わんぞ」と魚の骨で歯茎を磨きながら答える。
「アデクさんはいいかもしれないけれど、あたしやキクコちゃんの同意を得たいってわけよね」
ナツキはアデクを見やるがハナダシティまでの嫌悪の眼差しではなかった。その眼の奥に宿るものが自分には窺い知れないような気がしてユキナリは、「無茶かもしれないけれど」と口を差し挟む。
「僕はこの機会にちょっとやってみたい事があるんだ」
「サファリゾーンではポケモンを出せないよ? だって言うのに、やりたい事?」
ナタネが心底不思議だとでも言うように首をひねる。ナツキが味噌汁を啜ってから、「趣味ですよ」と答えた。
「お絵かきの趣味。そういえばナタネさんは知らなかったですよね」
ナツキの言葉にナタネは「へぇ」と感嘆する。趣味、と片付けられたくはないが専業ではないのだから趣味だろう。
「ユキナリ君、絵描くんだ?」
「おお、上手いぞ、こいつは」
アデクが惣菜を食べながら言うものだから、「どっちがですか……」とナツキが呆れ声を出す。
「見せてみてよ。あたし、マスターに触れるのならば一流のものにしなさい、って言われているから結構見る眼には自信あるよ」
ナタネの言葉に、「いえ、お見せ出来るほどでは」と謙遜の声を漏らす。
「ええ? いいじゃん、見せてよ」
ナタネがユキナリの隣へと歩み寄って袖を掴む。ナタネの誘いを無体にも出来ず、ユキナリは、「じゃあスケッチブックを後で見せますから」と答えておいた。
「意気地なしね」とナツキが睨む目を寄越す。ナタネは席について、「楽しみだなー」と笑顔になった。
「あんまり期待しないほうがいいですよ。そんなに上手くないですから」
「いやいや、大したもんじゃぞ、これは」
飯をかけ込みながら言うアデクに、「だからどっちが……」とナツキが声を漏らした。
「まぁ、僕の絵の事は置いておいて」
ユキナリは咳払いして話題を変える。
「どうですか。真面目な話、サファリゾーンは後回しにして先にジムを回る手もあるんですけれど」
「オレは賛成じゃな。珍しいポケモンをただで見れるとなれば」
「あたしも、別に。急いだってバッジが取れるわけでもないしね」
その言葉にはユキナリは意外だった。ナツキの事だから一時でも無駄には出来ないと言うとでも思ったのだ。
「そう、キクコは?」
キクコへと視線を振り向けると伏し目がちに、「私も」と笑った。
「色んなポケモンを見てみたい、かな」
「じゃあ、決定じゃ」
アデクが立ち上がる。ナツキが、「行儀が悪いですよ」といさめるが気にする様子はない。
「明日はサファリゾーン。ジムを回るかどうかはその次に決めればいい」
「ジムは回りますよ。ジムバッジがあたし達の手にあると言っても三人が三人とも同じポイントってわけじゃないですし」
終盤の局面となればセキチクシティのジムバッジだけでも今までの分を挽回出来るほどのポイント数にはなる。所持ポイント数の高いアデクが抜きん出るか。それとも、ナツキが安定して取りにいくか。はたまたキクコが取得するか。自分は、とユキナリは所持しているグレーバッジと所持ポイントを確かめる。この中では一番低いかもしれない。何としてでもセキチクジムは制したい。その気持ちは同じだ。ユキナリは飯をかけ込んだ。
「いい食いっぷりじゃな」とアデクも続いた。ナツキは二人を見やり、ため息を漏らす。
「キクコちゃん、お肉食べないの?」
ナタネがキクコの顔を覗き込んで尋ねる。
「肉、嫌いなので」とキクコが答えるや否や、「じゃあもらうねー」とナタネは肉を頬張った。この人も読めない。もしかしたらナタネが取得する可能性もあるのか。ユキナリは緊張に息を詰まらせた。
「で、気分が悪い、と」
ユキナリは自室で布団に包まっている。どうやら様々な想定をした結果、気分が悪くなったらしい。それで明日をサファリゾーンに費やそうというのだから聞いて呆れる、とナツキはユキナリの部屋を離れていった。
自分の気持ちとしては一日でも早くジムバッジを取ってセキエイに向かいたい。だが、この街で決着をつけねばならぬ事もあった。
「ナツキ」と呼ばれて振り返る。アデクがモンスターボールを手に佇んでいた。
「何か?」
「そう冷ややかになるな。ユキナリの事が心配なら部屋にいてやればいいじゃろ」
「あたしは、別に……」
アデクの告白への返答。それを決めかねていた。アデクはいつだって志は真っ直ぐだ。その気持ちに答えなければならない。中途半端は絶対にいけない、と感じつつもナツキは答えを出せない自分を責め立てた。
「……あたしがユキナリの下に行ったらアデクさんは不安にならないんですか?」
「全然」
即答にナツキは肩透かしを食らった気分になる。
「そこは、気になる、っていうところでしょう?」
「何でじゃ? 好いた女がどこにいようと信頼するのが男の務めじゃろうが」
唐突な言葉にナツキは胸がぎゅっと締め付けられるのを感じる。
「……そういう、無遠慮な好意は、やめてもらえますか」
「好きな奴に好きと言うて何が悪い?」
「ユキナリが聞いているかもしれないんですよ」
「聞かせてやったらいい。お前さんも、どうして言わん? オレの事を好いてはくれんのか?」
「だから、そういう――」
ナツキはハッとする。アデクは酔狂で尋ねているのではない。本気の眼差しでナツキの顔を覗き込んでいた。
「……まぁ、いい。オレも、この街をジムだけで過ぎるのは味気ないと思っとったところじゃ。ユキナリが言うてくれて少しだけ安心している部分もある」
「アデクさんには珍しいですね。戦う事が本懐じゃ?」
「時間が取れてちょうどいい」
アデクはモンスターボールを腰につけてナツキへと向き直る。
「デートといかんか?」
「は、はぁ?」
ナツキは聞き返す。アデクは、「言い方が間違っとったか?」と首を傾げる。
「じゃあ、オレと逢瀬でも奏でんか?」
「……なおさら意味が分からないですし。それにデートってのは好き同士の間柄でするもので」
「好き同士やと、言ってはくれんのか」
遮って放たれた声は真剣そのものだった。ナツキはどうするべきか決めあぐねる。ここで断れば、アデクの気持ちを踏みにじるのではないのか。そのような予感と共に、この際はっきりと言うべきかと悩む。だが、アデクの事はもう嫌いではない。一人の男性として見ている部分はあった。その点で言えばユキナリを男性として見ているのかと問われると返事に窮する。ユキナリは、自分の中ではそのような立ち居地に囚われる存在ではない。
「……ずるいんですよ。アデクさん、そういう風に真っ直ぐな気持ちを向けられると」
何も言えなくなってしまう。アデクは強引だが自分のような優柔不断な人間の気持ちを引っ張ってくれる。それだけの気概のある人だった。
「ユキナリに、オレは明日言うつもりじゃ」
その言葉にナツキは、「何を……」と声を詰まらせる。言う事など決まっているではないか。アデクは自分への好意をユキナリに伝えるつもりなのである。
「そんな事をして……」
「だが、あいつとオレは結局のところ、同じ女を好いた男。どっちが白か黒か決めねばならん」
同じ女。果たしてそれはどうだろうか。ユキナリはキクコになびいている節もある。ナタネだってわからない。
「……そんなの、分からないじゃないですか」
「何がじゃ。ユキナリはお前さんの事が好きなんじゃから目的は同じであろう? 何か疑問を挟む余地があるか」
「困るんですよ」
ナツキは拳をぎゅっと握り締める。
「アデクさんのその真っ直ぐさが、ユキナリを傷つけてしまうかもしれない。あたしも、ユキナリも、傷つくのは嫌なんです」
気持ちを封じて今の状態が続くのならばそれでいいではないか。自分が我慢すればいい。そうしておけばユキナリも自分も、誰も傷つかず、このまま未来へ行く事ができる。アデクは、「それは違うぞ」と首を横に振った。
「……何が、違うって言うんです?」
「お前さんもユキナリも、自分の気持ちと向き合わなければどこにも進めん。どうしてお前さんらはそう怖がる? 怖がっていてはどこにも行けん事は旅を通して分かっておるだろうに」
「それは……」
口ごもるしかない。ナツキの気持ちは十四年間を通して育てた気持ちだ。それをそう軽々と扱っていいものではないと無意識的に構えている。アデクは、「ユキナリが、お前さんに対して、何も言わず、このまま時が過ぎるのを待つか?」と歩み寄った。ナツキは、「来ないでください」と後ずさる。
「あたしは、ユキナリに、何も言えていないんです。決定的な事は何も。でも、今の関係がいい。あたしとユキナリが旅出来るのなら、自分の気持ち一つを封殺したところで――」
「その先に、未来はあると思うか?」
遮って放たれた言葉にナツキは目を見開く。アデクは真剣な声音で告げた。
「ぬるま湯みたいな関係性を続けて、それでだらだらと昔語りするような人間に、お前さんはなりたいのか?」
アデクの声に怒りはない。ただ問い質している。それが本当に正しい事だと思っているのかと。それが正直に自分に向き合った結果なのか、と。
「オレは、一生ってもんは一度しかない。人生一度きり、じゃったら好きな事をやればいい。誰の迷惑になろうが、誰かを傷つけようが構わない。その先にこそ、光があるんじゃろ? 何でそう及び腰になるんじゃ。お前さんも本能的に気づいておるんじゃろ。ユキナリが少しずつ変わり始めている事に」
ナツキがハッとする。それは見て見ぬ振りを続けてきた部分だったからだ。
「……薄々は、感じています」
「幼馴染のお前さんからしてみれば、それは寂しい事かも知れん。昔馴染みの人間が変わろうとしている。だけれどな、それを優しく受け入れられるのが、本来の形じゃないのか?」
アデクの口調にナツキは狼狽する。歩み寄ったアデクがナツキの手首を握った。
「オレは一緒に来い、としか言わん。それ以上は、何も強制出来ん。ユキナリとの気持ちをどうこうしろとか、今の気持ちにけりつけろ、言うんはお前さんの責任じゃ。それに関しては、オレは意見を差し控える」
アデクの言葉にナツキは顔を伏せた。
「……ずるいですよ。強引なくせに大事な事はあたしに決めさせるなんて」
ユキナリとアデク、この気持ちに決着をつけるためにもサファリゾーンでの休息は必要なのかもしれない。
「明日、一日考えさせてもらっていいですか?」
「オレはいっこうに構わん。お前さんがいつかオレを選んでくれると信じているからな」
どこからその自信が来るのやら。しかし、ハナダシティで再起不能に陥りかけた恐怖から再びここまで上り詰めた男だ。それ相応の覚悟は持ち合わせているのだろう。
「あたしは、部屋に戻ります」
その背中にアデクは、「また明日な」と声をかけた。そういう風に言ってくれる男友達を何人知っているだろう。スクールではユキナリ以外の男友達なんて必要なかった。ユキナリさえ傍にいてくれれば。それは自分の束縛願望だったのか。ユキナリが羽ばたこうとしている今、ナツキは傍にいるべきではないのかもしれない。そう感じさせられた。