第百二十二話「温泉珍騒動U」
「で、その有様か」
浴槽に浸かりながらアデクは快活に笑う。ユキナリは青あざの出来た額をさすりつつ、「笑い事じゃないですって」と口にした。
「しかし、いいもんが見れたじゃろうが」
「いいもんって……。アデクさんは他人事かもしれないですけれど僕は被害を受けたんですよ?」
アデクは幸いにも女性陣と鉢合わせはしなかったらしい。混浴といっても女性側と男性側では巨岩で隔てられており、それを超えてこなければ見えない仕組みになっている。
「ちょうど浴室に入ってきたのが同時だったわけか。いやはや、その幸運、見習いたいもんじゃ」
「幸運って! こっちとしてはとんだ不幸ですよ」
「オレならば対応が違っただろうがのう!」
それはその通りかもしれない。アデクならば逃げ出す事もせず、悠々と挨拶を済ませるのがありありと思い描けた。
「お陰で僕は身体を洗いたいって言うのに、ナツキ達が上がってからじゃないと洗えないんですから」
そのせいでユキナリは先ほどから足湯状態である。アデクはさっさと身体を洗ってしまったらしく岩壁に背中を預けてくつろいでいた。
「いい温泉じゃな。ここのところ疲労が溜まっておったからちょうどいい」
その言葉にユキナリは返事に窮した。その疲労の一端は自分にもあるからだ。アデクはその沈黙をどう受け取ったのか、「何を黙っとる」と声にした。
「お前さんの事を言っておるんだぞ」
思わぬ言葉にユキナリは目をぱちくりとさせる。アデクは頭の上に置いたタオルで額を拭い、「あのなぁ」と口を開いた。
「シオンタウンから先、休む間もなかったんじゃろう? お前さん、無理だけは人一倍するからな。手持ちも酷使したに違いない」
アデクは湯船にモンスターボールを浮かべていた。炎・虫タイプであるメラルバに温泉といえども水はまずい。そのためモンスターボール越しではあるが、メラルバは湯船に浸かっている。
ユキナリは、「無理なんて」と謙遜しようとしたが、実際、自分はどれだけ手持ちに無理をさせただろう、と鑑みる。シオンタウンにつくなりゲンジと戦い、休む暇も与えずシルフビル強襲、ヤナギとの戦いに連続してタマムシジムへの挑戦。これを無理といわずして何と言おう。ユキナリは、「そうですね」とGSボールを見やった。
「オノノクスにも、随分と無茶させた」
「出してみるといい。ここの温泉、疲労回復にはいいらしいぞ」
ユキナリはオノノクスを繰り出した。オノノクスは自分の身体が湯船に浸かっていると見るや少しだけ狼狽する。その様子を二人して笑った。
「オノノクス、温泉だよ。そうびっくりする事はない」
「もしかしたらオノノクスの故郷には温泉がなかったのかもしれんな」
博士がイッシュでの新種だと言っていたのを思い出すと共にアデクは進化前のキバゴをイッシュで見かけたと言っていたのを思い返す。
「キバゴ、ならイッシュでも見かけるんですよね?」
「ああ、でも洞窟の中に棲んでいてほとんど外には出てこんから、生態に関しては全然分からん。それに、キバゴは見るがオノノクスに関しては見んのう」
見紛う事なき新種なのだ。その発見に一役買った事はユキナリからしてみても誇りだった。アデクは、「ちょっと近づいてみい」とオノノクスを手招いた。オノノクスは警戒していたが、「アデクさんなら大丈夫だよ」とユキナリが言った事で少しだけ警戒を解いて歩み寄る。
「触ってもいいか?」とアデクが聞くのでユキナリはオノノクスへと目で問いかける。オノノクスは頭を垂れて是とした。
「硬い表皮じゃのう。まるで装甲板じゃ」
積層構造になっている表皮はまさしく鎧だ。ユキナリもオノンドから最も外見的に進化したのは皮膚と牙であると思っている。
「皮膚は随分と硬そうになりましたね。それに牙も」
「扇状の牙、か。まさしく斧の名に恥じない牙になったもんじゃの」
アデクは指を伸ばすが、「危ないですよ」とユキナリが制した。
「ビルを叩き切るほどですから」
「そんなにか?」
「ええ、まぁ僕の見た限りですけれど」
この牙から発せられる「ドラゴンクロー」は鉄骨レベルならば間違いなく斬れる。ただし、シルフビルを割ったあの技に関しては謎の部分が多かった。エリカとの戦いの時にもその片鱗が現れたが、あれは一体何なのか。
「オノノクスは満足しとるな。これが最終進化系か」
アデクには分かるのだろう。ユキナリもこれ以上の進化はないだろうと感じていた。
「博士曰く、攻撃にとても特化しているそうです。僕はその辺まで詳しくはないんですけれど」
「なに、これを扱うトレーナーじゃろ? だったら、謙遜なんていらん」
「そう、でしょうかね」
引っかかりのある物言いになってしまったのだろう。アデクは目ざとく察知した。
「……何か、心配事でもあるんか?」
アデクの声に、「いえ」とユキナリは首を振る。アデクはオノノクスの顎の下を撫でてやりながら、「トレーナーの不安はポケモンに伝播する」と口にした。
「あまり手持ちに不安を抱えさせるような真似をするな。ポケモンって言うのは人間が思うとる以上にデリケートなんじゃから」
アデクの言葉は正しいのだろう。ワイルド状態から立ち直った事も、自分の精神面に影響していた。ポケモンはトレーナーの精神を映す鏡のようなものだ。
「トレーナーが健康なら、ポケモンも健康! それでいい」
アデクの言葉にユキナリは笑みをこぼす。振り返ったアデクは、「ウルガモスもそうじゃ」と視線を振り向けた。ウルガモスの入ったボールはぷかりぷかりとオノノクスが立てる波に浮き沈みしている。
「進化したんですよね。一体いつ?」
ハナダシティを発ってからさほど時間は経っていないはずだ。アデクは顎に手を添えて、「元々、進化レベルではあった」と答える。
「ただ、ウルガモスとメラルバでは戦い方が百八十度違うのでな。使い慣れたメラルバでの戦闘を主体に置いていたんじゃが、ハナダで負け越した事で半端な覚悟は逆に邪魔だと感じた。結局、優勝候補だとおだてられていたって事に気づいたわけじゃ」
「おだてられていたなんて、そんな……。アデクさんは立派ですよ」
「オレがか? そんな事はあるまい。まだまだ強いトレーナーがわんさかいる。ここまで来たのは、ひとえにお前さんらの実力じゃ。もっと誇りを持てい!」
アデクが背中を叩いてくる。ユキナリは覚えずむせた。アデクが、「悪い悪い」と笑う。ユキナリも自然と微笑んでいた。
「……ところでの、ユキナリ」
アデクが声を潜める。何だろう、とユキナリが耳を傾けるとアデクがぼそりと呟いた。
「ナツキ達の裸、見たんじゃろ?」
その言葉にユキナリは耳まで真っ赤になる。アデクは、「隠すな、隠すな」と笑った。
「お前さんの顔を見れば、充分理解出来るわい」
「な、ちょっと、僕にはそんな気は」
「分かっとる。ところで、ユキナリ。ここから女湯の場所まで、何歩分じゃ?」
アデクの声にユキナリは、「まさか」と息を呑む。
「おお。覗くぞ」
「だ、駄目ですって!」
いくらアデクが男らしく潔い言い方をしても駄目なものは駄目である。アデクは唇を尖らせた。
「お前さんは見たんじゃろ? オレだけ見れんのは、何というか損した気分になるじゃろうが。同じ風呂に入っているというのに」
「駄目ですって! 僕が見ただけでもかんかんに怒ったんですよ? アデクさんが覗きになんて行ったらナツキの怒りのボルテージが超えちゃいます」
「なんか、お前さんならある程度許されたみたいな言い分じゃな。じゃあ、こうしよう。オレが見て、全く怒らんかったらオレのほうが分のいいって事に」
「なりません! 何を根拠に言っているんですか!」
「根拠って言うと……」
そこで初めてアデクは言葉を濁した。その言い分にどこか不審なものを感じつつもユキナリは、それだけはとアデクを制する。
「ナツキだけならまだしもナタネさんとキクコもいるんですし!」
「でもあの二人の声は全然聞こえんかったぞ? お前さんとナツキだけで」
「だからって見ていい権利にはならないでしょう!」
ユキナリは巨岩の前で必死に防衛線を張る。自分だけが彼女達の楽園を守れる騎士の心積もりだった。
「ユキナリよ。お前さん、下心からか必死になっとるな?」
「アデクさんこそ、らしくないですよ。下心から必死になっているんじゃないですか?」
アデクは湯船から身体を起き上がらせる。アデクの身体は鍛え上げられており自分のような貧弱体型とはわけが違った。
「オレも見せる。向こうも見せる。これで等価交換じゃ」
「なるわけないでしょう!」
意味不明な理論を持ち出すアデクにユキナリは巨岩の前で立ちはだかった。
「ここから先は、僕が通さない!」
「押し通る!」
アデクが前に出ようとする。ユキナリはじり、と足に力を込めた。アデクを行かせるわけにはいかない。
アデクはさながら相撲のしこを踏むかのように片足を持ち上げ、ずんと響かせる一歩を踏み締めた。ユキナリは唾を飲み下す。この相手を自分は止められるのか。姿勢を沈めたアデクは飛びかかる前準備をした。
「お前さんがどう避けようと、いやぶつかろうとも、オレを止める事は出来ん」
「何でそういう無駄にカッコイイ台詞をこんな場所で使うんですか? 風呂場ですよ?」
ユキナリが頭を振っていると、「どうしても通さんと言うか」とアデクが距離を詰める。
「通しません」
「健全な肉体は健全な精神に宿るという。健全な精神のための礎となろうぞ」
「何を言っているのか意味不明です! 言葉を弄したところで、どうせ覗きたいっていう下心じゃないですか」
「下心で何が悪い。オレは男じゃぞ?」
どうやらアデクは次の一撃に向けて足に力を込めているらしかった。必殺の一撃、確実にユキナリを退かせられる一撃を。ユキナリも全身の力を丹田に込め、アデクの突進攻撃を受け止めようとしていた。
「お前さんは見たんじゃろう。オレが見て何が悪い?」
「女性陣の許可を得てません!」
「お前さんだって得んと見たんじゃろ? ならばオレも欲望に忠実になるまで」
「くそう。カッコイイな、くそう」
アデクの精悍な顔つきにユキナリはこちらも必死に真剣な顔つきを作ろうとする。アデクはここで交渉を持ちかけた。
「まぁ、待て。ちょっと待て。ユキナリ。オレとお前さん、どっちが見たか見ないかはこの際置いておこう。無益な争いはやめんか?」
思わぬ言葉にユキナリの力が抜けた。アデクは手を突き出したまま、「こうするのはどうじゃ」と提案する。
「何です?」
「二人で見るというのは」
「なおさら駄目です!」
ユキナリは切り捨てた。アデクは神妙な顔つきになり、「交渉は、決裂か」と呟く。ユキナリは再び防御の姿勢を取った。その時、巨岩の向こうから囁き声が聞こえてくる。
「キクコちゃん、肌すべすべだねー。羨ましいー」
ナタネの声だ。先ほどまじまじと凝視した裸体が脳裏に思い描かれる。キクコは、「や、やめてください。くすぐったいです」と恥じらいを持った声を出した。
「ええではないか、ええではないかー」
「ナタネさんも、キクコちゃん嫌がっているでしょう」
「えー、ナツキちゃんだってー」
湯船の揺れる音。波が起こり、ナツキの身体へとナタネの身体がぶつかる想像をする。
「ちょ、ちょっと! やめてください!」
「ほう、ナツキちゃん、意外と……」
「意外と、なんですか」
その声に気を取られていたせいだろう。真正面から組み付いてくるアデクの気配への反応が一瞬遅れた。
「しまった!」
ユキナリが声を弾かせた時には既に遅い。アデクは不敵に笑った。
「勝負、もらったり!」
ユキナリの身体が持ち上げられる。迂闊であった。姿勢を沈めていたのはユキナリの身体を難なく持ち上げるための前準備であったのだ。その策にまんまとはまってしまった。
「くそっ! 僕が、この楽園を守らなければ、誰が守るって言うんだ!」
「楽園への片道切符はオレの手に!」
アデクがユキナリを退かそうとする。ユキナリは渾身の力でアデクの身体を引っ張った。狙うのは股間を隠しているタオルだ。
「もらったー!」
タオルの先端を引っ張るとアデクの身体から急に力が抜け、二人でもつれ合いながら湯船へと落下する。盛大な水飛沫を上げ、ユキナリとアデクは湯船へと突っ込んだ。先に顔を上げたのはユキナリだったがアデクの執念は凄まじい。ユキナリの手を掴み、「一人だけ楽園へと舞い戻ろうとは!」と声にした。
「太い奴め!」
「僕が、守らなきゃいけないんだー!」
「ええい! お前さんが守るのはせいぜいその貧相なものだけにしておれ!」
「僕のを、馬鹿にするなー!」
お互いの声が相乗し飛沫が舞い散る。アデクは態勢を立て直し、「今度こそ」と拳をぎゅっと握り締めた。
「僕だって、負けない!」
ユキナリも戦闘態勢に入る。両者、お互いに譲らず、前髪から雫を垂らしながら男の戦いが始まろうとしていた。
「……何やってんの、あんた達」
巨岩の隅から顔を出したナツキがユキナリ達の奇行を眺めて眉根を寄せた。
「もうあたし達上がるから。ユキナリも身体を洗えば、って言おうと思ったのに、何やってるの?」
ナツキからしてみれば奇妙を極めたような様相だろう。男同士がお互いに呼吸を荒くさせて組み合おうとしているのだから。
「……そういうシュミがあったとは。あたしは、ほら、幼馴染だから理解があるけれどさ。ナタネさんとかキクコちゃんにはどう映るか分からないわー」
ナツキが首を横に振る。ユキナリは慌ててタオルを拾い上げ、股間を隠しながら、「誤解だ、ナツキ」と歩み寄ろうとした。ナツキは当然の如く後ずさる。
「誤解って何? この状況で誤解とかないでしょう。あたし達はもう上がったから、じゃ」
ナツキは簡素な挨拶を述べて脱衣所へと駆け抜けていく。ユキナリはぽかんと口を開いたままタオルを取り落とした。アデクが肩を揺らして笑う。
「このような事になるくらいならば覗いたほうが少しばかり得じゃったろう? そうまでして守りたいものはなんじゃ」
アデクの言葉にユキナリは振り返り、「僕だって……」と口を開いた。
「僕だって、覗きたかったんだ!」
アデクへと直進する。アデクはユキナリの身体を受け止め、「それでこそ、男の本望!」と叫んで上手投げを決めた。