第百二十話「歪曲した未来」
泡沫が培養液の中を上へと流れていく。
それを目にしながら、ふと呟いた。
「ボクらは所詮、檻の中の生き物に過ぎないのかもしれないね」
その言葉に反応したのは帽子を被った男だった。
「どういう意味なのか、説明してもらえると興味深いね、フジ」
「カツラ。ボクはね、たまにこうして彼を見ていると自分達の存在ですら、こういう培養液で満たされた空間、つまるところ世界という檻に入れられた獣なのではないかと思わされる」
フジという青年はカプセルへと手を触れる。その中では一定の間隔で泡沫が発し、内部にいる存在が呼吸をしている事を伝えた。フジは時折忘れそうになってしまう。自分達がまるでこの世界の支配者のように感じられる時があるのだが、ポケモンという別種を見ているとその感覚はすぐに失せるのだ。
「我々研究者にとって、その認識は正しいのか正しくないのか、という話かな」
カツラは帽子を年中被っている。髪型がどのようなものなのかフジですら知らない。
「たとえば歴史がそうだ。歴史というものを紡がなければ、人類という種は容易に掻き消されかねないほどに脆弱な種である事が窺える。歴史認識を誤れば、人がここにいる、という事実さえも消えてしまう」
「フジ。我々はヘキサツールの真実を知っている。その上で言っているのか?」
ヘキサツール。その因縁の名前にフジは、「知っていても」と声を出す。
「ちょっとばかし逸脱してみたくはないのか?」
カツラは腕を組んで考え込み、「過去から未来へと繋がる歴史の証明、か」と口にした。
「俺はもう、ヘキサツールの存在を知ってから、時折生きている事が馬鹿馬鹿しく思える時がある。そりゃ、人類全員の歴史が描かれているわけじゃないんだろうけれど、その重要な歴史の中に自分の名前がないのだと思うとね。自分は大事を成す人間ではないと言われているようで」
「ヘキサツールに名を刻まれるなんてろくなもんじゃないよ。それは大罪人か、あるいは歴史に名を刻むほどの悪だ」
「善性を信じないお前らしいな」
カツラは微笑む。カツラは常にサングラスもかけているせいで目線があまり読めない。だが微笑むと人懐っこい笑みを浮かべるのが特徴的だった。
「だけれど、お前はヘキサツールに名を刻まれている人間の側だろう?」
羨ましい、という響きを伴った声に、「ボクはそんなものはいらなかったんだけれどね」と呟く。カツラは、「いや、立派なものさ」と返した。
「もう一つの次元でもお前は身を立てていた。研究者としてね。だというのに俺は名無しだ」
「いいじゃないか。こうしてポケモン研究所をグレンタウンに設けられたのはひとえに君のお陰でもあるんだから」
カツラの人徳が金を集め、民衆の支持を煽ってポケモン研究所擁立に役立った。それだけは自分では出来なかった事だ。
「いらぬ才能だよ。俺には研究面での才能はまるでお前には及ばない」
カツラは椅子に座り込む。フジはカプセルに手をついたまま、「発揮されるべき才能というものは常に決まっている」と告げた。
「それが発揮される対象へと。だから何人であろうとも、意味のない生なんてないんだ」
「前向きだな。それに」
「それに?」
カツラの含んだ声音にフジは振り返る。カツラは指を上げて、「キシベに似ている」と口にした。フジはぷっと吹き出す。
「ボクがキシベに、か。随分と毒されたのかもしれないね」
「だが、キシベは何のつもりなんだろうな。この研究所の資金援助も任せているのは、お前の判断だろう。正直、俺からしてみればあいつは怖いよ」
「怖い、か。弱気な発言じゃないか。グレンタウンのジムリーダーともあろう人間が」
その言葉にカツラは口元を吊り上げる。
「そんなのは恐怖心には関係ないさ。いくらグレンタウンで名声を上げようが、研究者として身を立てようが、それは結局、自身の強さに直結するわけじゃない」
フジは、「使ってやればいい」と顎をしゃくった。その先にはモンスターボールとそのホルスターがある。
「ファイヤーを」
「駄目だ。あれは挑戦者には使えない。フェアじゃないだろう」
「だが、キシベには、君があれでよからぬ事を企んでいると吹き込んでおいたけれど」
「それも、お前の本来の目的の拡散のためか」
カツラは振り返り、ファイヤーの入ったモンスターボールとホルスターを手に取る。
「上手い具合に俺を隠れ蓑にして、自分の研究と目的を達成しようとしている辺り、キシベと何ら変わらないよ」
「ボクとキシベは違うさ」
フジはカプセルに手をついたまま、「お前もそう思うだろう?」と問いかける。カツラは嘆息を吐き出して、「シンオウから仕入れたポケモン達はどうしている?」と尋ねた。
「万事順調さ。特別な三体だからね。キシベに気取られないようにするのは大変だったが、ちょうどシルフビル壊滅で揉み消せた部分だ。まさかボクを邪険にし続けてきたエンジニア達の一人、ヤマキがボクに寝返っているとはキシベでも思うまいよ」
ヤマキ、というのはシルフにてキシベの右腕のような活躍をしてみせるエンジニアの一人だ。通信では常にフジの事を快く思っていない態度を取り続けていたが、それは演技である。本来はキシベの目的からフジの目的を隠すために動いていた尖兵であった。
「思っていた通り、ヤマキはグレンタウンへと来た。そしてデータを改ざんし、三体のポケモンに繋がる物証を全て消した。キシベが今からではこの三体から作り出されたあれに気づく事はまずないよ」
フジは懐から煙草とジッポを取り出した。火を点けながら、「大変だったんだからな」と口にする。
「シンオウ神話からあの三体に辿り着くのは」
「それを必要としなければいらない情報だろう」
「ボクには必要だった」とフジは煙い息を吐き出す。
「あの三体から作り出されるもの、シンオウの神話の鍵となる赤い鎖の生成には」
「あの三体、エムリット、ユクシー、アグノムと言ったかな。それぞれ感情、知識、意思を司るポケモンだ。そのような大それたポケモンを使ってまで赤い鎖は必要なのか?」
「今の科学では作れないんだ」
フジは近場の端末へと歩み寄り赤い鎖のデータを呼び出した。六角形が連なったような形状をしており、血のように赤く輝いている。
「この三体に極度のストレスを与えた時のみ、生成される究極の道具。これがあればシンオウの神話ポケモンを御する事が出来ると言われている」
「だが、お前にはそのつもりはないのだろう?」
カツラの声にフジは、「まぁね」と応じた。権力や力を欲するのならば伝説、あるいは神話のポケモンを有するのも悪くはないのかもしれない。だが、フジの求めるものは違った。
「ボクには表層的な力の誇示や、権力へと追従する意味が見出せない。所詮、それらは一時のものだ。たとえばボクが権力者に取り入ったとしても、権力者が死ねば、あるいはボクが死ねば意味を持たない。全ては忘却の後に消える」
「お前は、そうでない生き方として、赤い鎖とそいつを使おうとしている」
カツラの心得たような声に、「分かっているじゃないか」と返す。さすが、自分と研究を共にしているだけはある。
そいつ、とカツラが顎をしゃくった先にはカプセルがあった。先ほどからフジの触れているカプセルだ。オレンジ色の培養液の中で白い身体が揺れている。
「だが、そいつは不完全だぞ、フジ。どう運用するつもりだ?」
フジは長考を挟み、カツラへと煙草を手渡す。しかしカツラは遠慮した。
「俺は吸わないよ」
「じゃあ、ガムはどうだ? 落ち着くよ」
ミントのガムを取り出しカツラへと手渡す。カツラはそれを受け取って口に放り込んだ。
「で? どう運用する?」
カツラの質問にフジは答える。
「外骨格があったはずだよ。強化外骨格。それにこいつを入れる」
「そんな運用が出来るのか?」
「データの上での試算では」
フジは片手で端末を操作し確率を弾き出す。
「可能だ。今までポケモンに鎧を着せる案なんてシンオウの記録にもある。その延長線上にある話だと思えばいい」
「それは完成したポケモンでの話だろう。こいつは不完全だ」
カツラの言葉にフジは、「そうだねぇ」と煙を吐き出す。
「現時点で完成度は六十パーセント。外気に触れても生きていてくれるかどうかちと怪しい。だからこそ強化外骨格は外せないんだ」
「お前の事だ。見通しは立っているんだろう」
「さすがにね。でも見通しが立っているとはいえ、こればかっりは試してみないと分からないよ」
フジの言葉が弱気に聞こえたのだろう。カツラは、「外骨格案だって無理な話だろう?」と視線を振り向ける。
「お前の六割の確率のために動かされる身にもなってくれよ」
カツラの声にフジは笑い声を返した。
「分かっているよ。感謝している」
「ヤマキはキシベからの目を逃れるために俺達とは別系統なんだ。あいつに外骨格の製造ルートは任せているんだろう?」
「まぁ、それもこいつ次第かな」
フジはカプセルに手をつきその名を口にする。
「――ミュウツー。君はボクに何を見せる?」
培養液の中のミュウツーは瞼を上げる事もしない。完全な沈黙。あるいは眠りについているのか。その時、忙しくデータマップ上を駆け回るプログラムが視界の隅に入った。
「ポリゴンを導入してからプログラムの進行が大幅に上がったな」
カツラはモニターを眺めつつそう呟く。ポリゴン。自分達が造り上げた第一号のポケモンである。
「ポリゴンの製造でさえ極秘なんだ。これが漏れればデボン辺りも狙ってくる。そうじゃなくっても研究分野でポリゴンの製造方法を発表すれば何かしらの賞はもらえるだろうね」
「あるいは罵声か? マッドサイエンティスト、と」
カツラの茶化した声に、「さもありなん、か」とフジは呟く。
「生命への冒涜行為、とかかな? だけれど科学の進歩はいつだって何かを冒涜しなければ進まないんだ。それは宗教だったり、人間の思考回路だったりする。そういう、古い考えから脱却した人間を異端としたい気持ちは分かるけれどね」
「お前に、人間らしい感情があるなんてな」
カツラが微笑む。フジも口元を綻ばせた。
「あるさ。ボクはこれでもまだ人間をやめる気はないんだ」
「一般人からしてみれば充分にやめているよ。俺もお前も」
カツラはそのような区分から自分を外さない辺り、きちんと客観視が出来ている。フジは、「だねぇ」と頷きながら、ポケギアを通話モードに繋いだ。
「ヤマキ? ボクだ。どうしている?」
『フジ博士。こちらは命じられた通り強化外骨格の作りに入っていますが、我々の動きを疑問視する人間も少なくはありません』
「カツラがファイヤーでよからぬ事を、って情報はあまり効果的じゃなかったか」
『そもそもカツラさんは信頼の厚い方でしょう。そのような人が裏切る、というのは突飛です。いくら伝説を手に入れたといっても』
「違いない。じゃあボクが裏切るって言ったら?」
『誰も疑わないでしょうね』
ヤマキの冗談にフジは笑いながら、「とても面白いよ」と応じる。
「まぁ、ボクを信奉するよりかはキシベを信じるほうがまだ安全、と見ているのだろう。理由の分からない外骨格作り、他の人々はやっぱり嫌な顔してる?」
『嫌な顔、というか、わけが分かっていないようです。どうしてキシベさんから離れてまでこんなものを作らなきゃならないのかってね』
「キシベはグレンタウン到着後はボクに従え、って教えていたはずだよね。それが行き届いていない?」
『いえ、表面上はみんな、文句も垂れずによくやってくれていますよ。ただ理由が分からないとなると、やっぱり反感が出るのも一つで』
違いないな、とフジは感じながら煙草を灰皿に擦りつけた。
「ボクの命令だと勘付かれないようにしてくれ。強化外骨格があくまでロケット団のポケモンを強化するために、っていう名目で」
『やっていますよ。ただ第一号となるこの外骨格があまりにもワンオフな作りというか、人間に着せるみたいな形状のせいでみんな戸惑っているんですよ』
フジはカプセルの中のミュウツーを見やる。胎児のように丸まっているが、すらりと伸びた手足は人間と非常に近い。
「まさか、今さらモラルの話を持ち出すわけじゃあるまい。上からの指示で造っていた。その一点張りでいい。実際に外骨格を製造するのにもロケット団の息がかかった企業に働きかけるのだし、問題はない。君達は最終的には知らぬ存ぜぬを通せばいい」
『そうさせてもらいますよ』とヤマキが笑いながら返す。キシベの前では正反対の態度を取っていたのに器用な部下だとフジは感じた。
「キシベは、気づいていないだろうね?」
『そのはずですが、キシベさんの事です、何かしら尻尾は掴んでいるかも』
「違いないね。キシベはこの計画を知ってもなお、自分の計画を通そうとするだろう。そういう人間だ、彼は」
『必要なら、俺が消しますが』
「おいおい、部下にそう易々と危ない橋を渡らせられないよ。キシベは何を考えているのか分からない人間だ。どこまで自分を制御下に置いているのかすら不明。今の回線だって聞かれていないとも限らない」
「だとすれば潰えているな」とカツラが呟いた。キシベがどれほど根回しをしているのかは予見するしかない。自分の考え以上にキシベが強かだった場合、打てる手段は減ってくる。
『そこまで読まれているとすれば、キシベさんは人間を超えていますよ』
ヤマキは笑い話にしようとするがフジはその実、キシベが人間を超えていたとしても何ら不思議はないと感じていた。キシベは、目的のためならば全てを犠牲にする覚悟がある。ただし、その目的、最終目標はフジとて一部を聞かされた程度だ。しかも信じがたい事実ばかりを並べてくるものだから、キシベが既に狂人だとしてもフジは驚かない。
「実際のところ、キシベにどこまでの権限があるのか分からないが、ロケット団はキシベを頭目に回っている組織だ。ボクらがいくらない知恵を搾ったところでキシベには遠く及ばないのかもしれない」
『でも、キシベさんも三人も四人もいるわけじゃないですし、たった一人の人間です。ポケモンも所持しているのか怪しい。だって言うのに、出し抜けるわけがないでしょう?』
「そうだと信じたいがね」
キシベの手持ちはまだ明らかになっていない。キシベ自身教えようとしてこない。何度か聞き出す機会はあったが、煙に巻かれたように毎回答えは保留される。フジは半ば諦めていた。
「またかけなおそう。外骨格を二日以内に仕上げて欲しい。出来るか?」
『出来るか、じゃなくってやれでいいですよ。こっちだって無茶な仕事だって分かっていて請け負っているんですから』
フジは少しだけ笑ってから、「じゃあ頼む」と通話を切った。
「どう思う?」
切り出された声にカツラは聞き返す。
「どう、とは?」
「強化外骨格。それにミュウツーと赤い鎖の運用。読まれていないかどうか」
「そこまで俺に聞くのか?」
「一研究者でありながらジムリーダーという客観視出来る立場の君だからこそ聞いているんだよ」
フジの言葉にカツラは頬杖をついて、「そうさなぁ」と言葉を彷徨わせる。
「キシベは統治者として優れていると思う」
「ああ、ロケット団を興したのもキシベだ。だがヘキサツールによればロケット団は本来三十年後の未来に作られるはずだった組織」
ヘキサツールの概要は耳に入っている。キシベと自分、そしてカツラ程度しか知らないはずの情報である。
「未来を歪めてまで、この時代にこだわったのは何故か?」
「キシベがその時代に生きていないから」
一つの仮説にカツラは首を横に振る。
「キシベが自分の死まで計算に入れてない人間だとは考え辛い」
「おいおい。そこまで来るとさすがに一個人を相手にしている気がしないな」
フジは軽口を叩くがキシベにはその気がある。自分の命さえ勘定に入れているかのような振る舞いが時折あった。
「だがキシベは相当な執念深さと念入りにこのロケット団という組織を回しているはずだ。でなければシルフを壊してまで存続させるか?」
シルフカンパニーの破棄。それはフジ達にとっても意外に映った。シルフカンパニーは最後の最後まで切り札に取っておくべきだと感じていた自分達にとってまさしく青天の霹靂だった。
「通常、パトロンを切り捨ててまで強行すべき計画なんてものは存在しないはずだけれどね。キシベにはシルフですら些事であった」
「そうは考えたくないが、キシベの立ち振る舞いを見ると末恐ろしくなる。組織というものを理解しているのではなく体感している。このロケット団という組織そのものがキシベの体内のようだ」
率直な不気味さを吐き出したフジにカツラは、「神をも恐れぬフジ博士らしからぬ発言だな」と微笑んだ。
「ボクはね、神を恐れた事はないよ。子供の頃から、ずっと。母さんや父さんに、嘘をついたら神様が見ているぞって言われた時も、色んな大人達からいい行いをすれば神様が見ていてくれるって教えてもらった時も、どっちも神様なんて信じてこなかった。だから恐れるという器官が麻痺しているのさ」
フジはこめかみを指差す。カツラは、「実際、お前はいかれていると思うけれどね」と返す。
「いかれてないよ。ボクは一度だっていかれた事はない。いかれちゃ、この仕事はお終いさ。狂気に触れる研究を傍で行いながら誰よりも正常であれ。それが科学者だろう?」
「違いない」とカツラはコーヒーカップを手に取る。口に含んで、「だが甘く考えない事だ」と呟いた。
「キシベは、間違いなく強かだよ。どこまで考えているのか誰にも分からない」
「最終目的を知っているボクでさえ、キシベは異常だ。その最終目的に至ろうとする動機もね。ぞっとするよ」
カツラは腕を組んで、「お伺いしたいものだ。最終目的とやらを」とコーヒーを啜る。しかしフジは自分の口から言おうとは思わなかった。キシベの最終目的。それを知ったところでどうしようもないし、自分達では介入出来ない領域なのだと。
「ボクからは何も」
フジは頭を振る。カツラは、「残念だ」と口にするがその胸中はそうも思っていないだろう。もしかしたら狂気の沙汰に巻き込まれずに安堵しているのかもしれない。
「だからこそ、ボクには彼が必要なんだ」
フジはカプセルを見やり、「ミュウツー。そして」と端末を操作する。表示されたのはあどけない少年だった。名前の欄を確認し呟く。
「またオーキドの名前か。変わらないな、君は。会える日を楽しみにしているよ。オーキド・ユキナリ君」