第九十八話「大都会」
「いやー! なんか申し訳ないな、って!」
少女はゲームコーナーの前の露店で焼きそばパンを買って頬張っていた。実に三個目である。相当空腹だったのだろうとユキナリはその食いっぷりを眺めて想像した。
「じゃあ、あの時お腹を押さえたのって……」
「うん。お腹がすいちゃうとどうしてもね! 元気が出なくって」
焼きそばパンを頬張る少女は口元の端についたソースを手の甲で拭いながら、「それにしたってすごいね」とキクコを見やった。キクコは突然視線を向けられたもので狼狽した様子だ。
「えっと、何がですか?」
「いや、だってあたしは毎日のようにインベーダーやっているから九面まで行けるんだけれど、君みたいな子を見た事ないし多分初心者でしょう? だっていうのに九面まで行けたのはすごいよ」
何のてらいもない賞賛の言葉にキクコは、「いえ、大した事は」と返していた。その大した事すら届かなかったナツキとユキナリは閉口するしかない。
「あたし以外にも九面クリアするとはねぇ。君、反射神経が鋭いのかな。まぁどっちにせよ、とてもいいライバルに出会えた気がするよ」
「ライバル、ですか」
キクコの言葉に、「うん。ライバル」と少女は気安い様子で手を差し出す。
「あたしの名前はナタネ。これでもポケモントレーナー」
ユキナリはその段になってナタネという少女のホルスターにボールが留めてある事を発見する。
「参加者ですか?」
「ああ、うん。みたいなものかな。これからどっか行く? タマムシが初めてなら案内するけれど」
ナタネの思わぬ厚意にどうするべきかとナツキと視線を交し合っていると、「まずは百貨店に行こう」とナタネは提案した。
「何でも揃うよ」
ユキナリが逡巡しているとナツキが小突いてきた。
「どうかした?」と囁き声で応じる。
「まずはタマムシシティの全容を知る事から始めたほうがいいかもね。ヤマブキはあの様だったけれど、タマムシにはそういう野望が渦巻いている感じはしないし」
ナタネは身を翻し、「行くよ」と声をかけた。どうやらナタネの中では既に自分達の行動は決定済みらしい。
「まぁ、毒にならないんだったら」とユキナリはその背中に続いた。ナツキはナタネと肩を並べながら、「ここには長いの?」と尋ねる。
「まぁ、シンオウから来た人間だからそう長いわけじゃないけれど、そろそろ独り暮らしにも慣れてきたかな」
ナタネによると百貨店の隣にあるマンションで間借りしていると言う。マンションは高級そうな外観をしていた。
「独り暮らしか。ちょっと考えられないかな」
ナツキが呟く。そういえばナツキは外泊でさえもあまり経験していないのだと思い出した。
「住めば都だよ。それにタマムシでは大体のものが揃う。苦労はしない街だと思うけれど」
ナタネは自分達とほぼ同い年なのにしっかりとした考え方を持っているようだった。ユキナリは、「よくインベーダーゲームをされるんで?」と質問していた。
「ああ、うん。常連。だからよく、マスターから怒られちゃうんだよね。約束すっぽかすとかざらだし」
「マスター?」
聞き慣れない言葉に尋ねると、「ああ、うん。マスター」と彼女は応じた。ユキナリは恐らくマンションの管理人か誰かだと感じ取る。
「……そうですか。大変ですね」
「そうでもないよ。タマムシ百貨店では大体買い物は済ませられるし、今付き合ってもらっているのもマスターに頼まれた買い物だからね」
エスカレーターを昇りながらユキナリはマスターとやらが所望しているものは何なのだろうと考えを巡らせた。
「あ、あった」とナタネが歩み寄る。そこに飾られていたのは香水の類だった。男の自分にはまるで縁のない代物だ。だが、ナツキが声を上げる。
「ゼロが一、十、百、千、万……、十三万円?」
その言葉にはさすがのユキナリも瞠目した。香水とはいえそこまで値の張るものなのだろうか。目線を向けると、「お金はあるから大丈夫だもん」とナタネは財布を取り出す。
「いや、でも十三万、って……。こんな言い方はよくないかもしれないけれど、騙されていない?」
まず思い至る事だがナタネは首を横に振って否定する。
「とんでもない。マスターが必要だって言ったんなら必要だし。それにこのお金はマスターのものだよ」
ナタネは香水を買い、ユキナリ達に視線を移す。
「他に欲しいものがあったら買い物に付き合うけれど」
ナツキは周囲を見渡す。恐らくはナツキの購買欲を刺激する代物が並んでいたのだろうがぐっと堪えた様子だった。
「……いえ、いいわ。それよりも聞きたい事がある」
「何? あっ、コイキング焼き!」
屋台に飛び込み、自分の分のコイキング焼きを確保するナタネの後姿を見て、大丈夫なのだろうか、と考えた。この少女に案内を任せて、逆に迷う事態にならないだろうか。ユキナリの懸念を他所にナタネはコイキング焼きを頬張る。ぱりぱりとした皮にあんこが包まれていた。
「うん、やっぱりコイキング焼きは絶妙な味付けだね。この濃厚なあんこが堪らないんだよねー」
ナタネはぱくぱくと一個を平らげてから、「君らもどう?」と勧めてきた。
「あたしは、甘いものは……」と遠慮しつつしっかり凝視しているのがナツキだ。対してキクコは最初から興味がないかのように見えた。するとナタネはキクコへと歩み寄る。
「ねぇ、食べてみなよ。おいしい、っての分かるからさ」
ナタネの強引とも言える勧誘にキクコは戸惑うような眼差しをユキナリに向けた。ユキナリはため息をついて、「食べたくないの?」と聞く。
「ううん。こういう、人からもらったものって食べていいのか分からなくって」
そういえばキクコの口から先生についてあれ以降聞いていないな、とユキナリは思い至った。だが自然進化でゲンガーとハッサムに進化したとは考えづらかった。キクコがストライクで戦ったという事なのだろう。ナツキもそれを証言しているし、釣り人セルジの言葉もある。だが、何と戦ったのかまでは明らかになっていなかった。ひょっとするとその辺の野生個体との戦闘で進化したのかもしれない。未だ進化に関する学説はこれが定説、というものはない。何が要因になるのかは誰にも分からないのだ。
「もらえばいいんじゃない? 食べたくないわけじゃないんでしょう」
ナツキの言葉にキクコはおっかなびっくりにコイキング焼きを手に取る。口に運ぶまでに二三度目線を向けられたがユキナリは頷いておいた。キクコが少しだけ齧る。すると、目を輝かせて頬に手をやった。
「おいしい……」
「でしょ? あたしもね、ここのコイキング焼きが一番好き」
ナタネの無邪気な笑みにコイキング焼きを作っている大将が、「照れるねぇ」とはにかんだ。
「ナタネちゃんはいつもここのを贔屓にしてくれているんだ。いやぁ、タマムシシティにいる人間としちゃ、嬉しい事だよ」
大将の言葉にユキナリは目を見開いて、「有名人なんですか?」と尋ねていた。ナタネは、「まぁね」とウインクする。改めて読めない人だなと感じる。
「コイキング焼き、かぁ……」
ナツキが名残惜しそうに口にする。「後で買えば?」と言っておいた。ナツキはポイントと財布の中身と相談する。
「……まぁ、余裕があればね」
「何か、余裕がないみたいな言い方だね、君達」
ナタネは自分達の前に回りこんでコイキング焼きを齧る。キクコは、というとナタネの食べ方を真似しているのだが、口が小さいのか頬張り切れていない。
「こう、だよ! 一気にパリッと食べるのがいいのさ」
ナタネがコイキング焼きをまるでシーエムのように華麗に食べてみせる。キクコは真似しようとするが間違えて何もない場所を噛んでしまった。強めに噛み締めたのだろう。頬を押さえて、「痛い……」と屈み込んだ。
「ああ、悪かったってぇ。まさかそこまで勢いよくやるとは……」
ナタネもたじたじの様子だった。ユキナリは少なくともこの人は悪い人ではないのだろうと思っていた。
「他に行きたい場所ある? あたし、案内出来るよ」
胸を反らしてナタネが引き受ける。ユキナリは、「お勧めの場所ってあります?」と尋ねていた。
「そうだねぇ。あたし的にはさっきのゲームコーナーで遊び倒すのもありだけれど、ここタマムシは観光名所としても有名なんだ。宿屋にチェックインは済ませた?」
「あ、まだですけれど」
ナツキが気づくと、「なら、ちょっと泊まってみなよ」とナタネは指を鳴らす。
「でもタマムシシティは多分通過する事になるから、あまり時間は取らないかと……」
ユキナリの言葉にナタネは、チッチッチッと指を立てる。
「違うんだなぁー。タマムシシティの楽しみ方じゃないよ。いい? こういう都会に来たからにはさ、ぱぁーっとやるのが一番なんだよ!」
ナタネが心底楽しそうに言うものだからユキナリもどうするべきかと視線を交わし合う。ナツキは、「まぁ、一泊くらいなら」とナタネの提案を呑んだ。
「そうでなくっちゃ」とナタネは踊るようにステップを踏む。その後姿を眺めながら、「不思議な人よね」とナツキは呟いた。
「うん。僕の目からしてみても不思議だ」
キクコは、というとまだコイキング焼きに悪戦苦闘している様子で、「普通に食べればいいと思うよ」とユキナリはアドバイスした。すると、「ううん」とキクコは首を振る。
「あの食べ方がおいしそうだったから、習得しなくっちゃ」
どうやらキクコもまたナタネに感化されたらしい。ライバルだと言っていたのはナタネの一方通行ではないという事か、とユキナリは納得した。