第九十六話「スペックV」
『そういや、そのボール、現行のボールじゃないよね。データ通信速度もいやに速かった。シルフカンパニーが進めていた新型かい?』
「博士、新型の事をご存知で?」
『うん? ああ、そっか。普通は知らないんだったね。我々研究者の間では次世代型のモンスターボールとして検討案が挙がっていたんだ。そういえば、どうして君らが新型の事を?』
ユキナリはガンテツの事を説明した。すると博士は得心が行ったように頷く。
『なるほど、ボール職人の一門、ガンテツといえば有名だよ。その十代目と出会ったのか。十代目はまだ若いと聞くけれど、君らと同じくらい?』
「ええ、ちょうど同い年くらいです」
『そうか。これもまた巡り合わせかな。でもそのボール、データ上は新型のボールとも違うね。何だい? それ』
「ああ、これはガンちゃ、ガンテツさんが」
一応言い直し、ユキナリは続けた。
「特別に作ってくれたボールなんです。GSボールとか言って――」
『GSボール?』
遮って画面の向こうの博士が立ち上がる。ナツキが肩をびくりと震わせた。
「ど、どうしたんです? 博士」
『あ、ああ、すまない。取り乱してしまった。でも、GSボールか。実用化出来たとは……』
もしかして博士はGSボールにまつわる話を聞き及んでいるのだろうか。研究者という立場上、ゼロではあるまい。
「博士、GSボールについて、知っている事があるんですか?」
『ああ、ガンテツ一門とは何度か顔を合わせた仲でね。今のガンテツの師匠、九代目に当たるのか、その人に聞かされた話だ。時を捕らえるモンスターボールだと』
やはりガンテツの話の通りだ。しかし、とユキナリは手にあるGSボールを一瞥する。
「これ、完成していないらしいですよ」
『なに?』と博士はまじまじとGSボールを凝視する。ユキナリは、「な、何か?」とうろたえた。
『いや、すまない。だが、完成していない、と言ったね、ユキナリ君』
博士は佇まいを正し、手を組んで神妙な顔つきになった。
「ええ、言いましたけれど」
『十代目ガンテツは、完成させる気がないのではないのかな』
その言葉に今度はユキナリが仰天する番だった。
「どういう意味なんです……」
『いや、あまり大きな声では言えないんだが、時を捕らえるボール、禁忌のボールだと聞いた。それを完成させたものは時空さえも操ると。だから、ガンテツ一門に伝わっている秘伝書、つまり設計図には、あえて完成しないように書かれているのだと』
初耳だった。ユキナリは改めてGSボールを見やる。ボールとしての機能はきちんと果たせている。このボールに不手際もないと思える。
「でも、だとしたら……」
『GSボールには先がある。完成し、時を捕らえる究極のボールとしての役目が』
だが、と博士は顔を翳らせる。その理由を問い質そうと思った。
「何です?」
『十代目がそれで完成、いや、あるいはもう完成させる気がないのだとしたら、それでいいのだろう。GSボールの技術は秘匿され、永遠に白日に晒される事はない』
それほどのものが手にあるのは半ば信じられなかった。ナツキも同じ気持ちなのか、「それほどにすごいんですか?」と尋ねた。
『新型モンスターボールは量産体制を整え、さらに言えば現行のモンスターボールとの互換性、あるいは交換をも視野に入れた大プロジェクトだった。だが問題があったとすれば、それをシルフに一任していた事だろう』
ユキナリはそこで思い至る。シルフカンパニーが崩壊した今、誰が新型モンスターボールを受け継ぐのだろう。
「じゃあ、新型はどうなるんです?」
『プロジェクトとしては動いている。子会社が技術を独占しようとするかもしれないが、資金の後押しがなければ難しいだろう。恐らくはデボンが買収する』
デボンコーポレーション。ホウエンの大企業であり、このポケモンリーグの資金源でもある。
「新型はそこで?」とナツキが訊いた。『恐らくは、ね』と博士は応じる。
『ただこの新型、実は先があってね』
「先、ですか」
ユキナリが呆然としていると博士はキーを叩いてある情報を呼び出した。そこには赤と白のツートンカラーで分かれた新型モンスターボールから枝分かれして新たなボールが二種類派生している。
「これは……」
『新型は上位互換も見越した設計だった。この水色のボールと黒いボール』
画像が拡大される。ワイヤーフレームではあるが、上部が水色と黒に塗られた二種類のボールがあった。黒には黄色い文字で「H」とある。
『開発段階の名称では新型モンスターボール、スペック2、とスペック3。スペック2でも新型の捕獲補正率が上昇し、スペック3に至っては新型の二倍の性能が約束されている』
「二倍……!」
それがどれほどまでに驚嘆に値する事なのかはモンスターボールを扱っているトレーナーならば分かる。新型モンスターボールの性能でさえ脅威だ。だと言うのに、さらに二倍の能力だとは。
『ただこれらはアマチュア、プロ仕様として一般流通するレベルだ。問題なのはこれだよ』
博士がキーを叩くとさらに新型から一本の線が引かれ、もう一つのボールを画面上に呼び出した。だがそれは今までとは形状が異なっている。上部が紫色に塗られており、一対の突起と「M」の文字が中央にあった。
「これは、何です?」
『ガンテツ一門がGSボールに次いで秘匿してきた、完璧な性能のボールだ』
「完璧な性能、って言うのは」
博士はちらとこちらを覗き込んでから、『今、周囲に人は?』と尋ねた。ユキナリは見回し、「いませんけれど」と答える。人の耳目を気にするほどの事なのだろうか。博士は思い切って口にする。
『このボール、スペックVと呼ばれるボールはどんなポケモンでも完璧に捕まえて制御下に置く事が出来る』
博士の言葉に一同が戦慄する。完璧な制御下。その言葉にユキナリは背筋が凍った。
「それってつまり、どんな強力なポケモンでも捕まえられるし、言う事を聞くってことですか?」
『ああ、恐ろしい事にね』
博士自身、震えを抑えるために白衣を握り締めている。それがどれほどのものなのか、ユキナリでも分かる。
パワーバランスを崩しかねない。今でもポケモンの捕獲反対派がいるのだ。だと言うのに、そのような事はお構いなしに、完全に捕まえる道具など……。
「そんなの、ポケモンとトレーナーの関係じゃありませんよ!」
声を張り上げたのはナツキだった。思わず博士が、『ナツキ君、抑えて』と小声で言った。ナツキは慌てて口元を押さえ、周囲を見渡す。幸い、誰も気に留めていなかった。
『今の常識では、だろうね』
博士がため息混じりに発したのは、ナツキの言葉も今の常識では狂っていても今後変わりかねないという意味を含んでいた。
『新型でさえ、ワイルド状態を抑制する働きを持つ催眠電波が出ると言う。それを超過する、言ってしまえば完璧な隷属。それを人は許してもいいのか。ポケモンも許してもいいのか……』
博士の胸中は迷いの中にあるに違いなかった。研究者としては理想的なボールだが、それは同時に生態系やポケモン本来の姿を崩しかねない。何よりもそれが出回った時の事を考えると慄然とする。人によってポケモンは完全に支配される。
「そんなものが、量産体制に?」
『あ、すまない、大げさだったね。実はこのスペックVに関しては量産が不可能なんだ。コスト面と製造維持だけで採算が合わないってなってね。これ一個作るのに、五年分は技術を注ぎ込まなければならないらしいよ』
「五年……」
驚愕すると共に安堵感も胸の中にはあった。ならば大丈夫ではないか。そんなユキナリの思想を打ち崩すように博士は言葉を継いだ。
『だが、既に完成しているものを除けば、の話だ』
再び恐怖が鎌首をもたげる。まさか、と全員が息を呑んだ。
「完成、しているんですか……」
『新型、スペック1は一般に出回るレベルに。スペック2は少し割高だがまぁ、まだ手が届く。スペック3はプロ仕様かな。値段も高いし生産ラインも整っていない。スペックVだが、この世に三個だけ存在する』
「三個……」
『そのうち二個の所在は掴めている。シルフカンパニーだ。だが、知っての通り、シルフは壊滅した。その下部組織も恐らく解散だろうが、もし生き残っていた場合』
「スペックVのボールが使われる」
最悪の想定だったが博士は首を横に振る。
『だが、相当に入念な計画を練らないとこんな大それたボール、すぐ足がつく。ポケモンセンターなんかに持っていくわけにもいくまい。自力でメンテナンス、修繕、維持、とてもではないが気の遠くなる金と時間が必要になるよ』
つまり個人での使用は限りなく不可能に近い、という事だ。だが組織立ったものならば。ユキナリは脳裏にロケット団を思い描く。もし、連中が何らかの思想を持ってこれを使用するのならば、それはどのような時か。
「どちらにせよ、いいようには転がりませんね」
ナツキの声に現実に引き戻される。いいはずがないのだ。それはポケモンとトレーナー、ひいては人間の関係が問われる。
『まぁね』と答えた博士の顔は翳っていた。ユキナリは気になる質問をぶつけてみる。
「博士、三個、と言いましたよね? 残り一個はどこに?」
シルフビルと共に焼失したのならば、二個はないと思える事が出来る。だが残り一個は? その疑問が突き立った。博士は、『これもあまり大声では言えないが』と前置きする。
『奪取された』
「誰にです?」
『分からない。不明なんだ。関係者かもしれないし、もしかしたら外の人間かもしれない』
「それすら分からないって、どういう状況だったんですか?」
ユキナリの質問に博士は遠くに視線を投げた。まるで思い出そうとするかのように。
『私も現場にいたんだ。だが、相手は音もなく潜入してきた。どこの誰なのか皆目見当がつかない。だが、間違いないのは確実に、その連中は伝説クラスを捕まえようとしている、という事だ』
ポケモンを完全に支配下に置くボール、というのが真実ならば伝説クラスを捕獲するという考えに至るのは当然だろう。だが、一方でそのようなボールに捕まえてしまったが最後、各種機関ではそのポケモンを回復させる事すら困難になってくる。やはり博士の言った修繕、維持の段階で無理が生じてくるのだ。
「それを押してでも捕まえたいのか。あるいはもう捕まえているのか」
カミツレが谷間の発電所で捕獲したサンダーはどのようなボールに入っていただろうか。それはもしかすると、このスペックVのボールではないのか。
『今は何とも言えないよ。ただ、君達の話を聞く限り、このポケモンリーグ、ただの競技大会と言うにはきな臭い』
ロケット団の存在とまだ教えていないが組織の存在。その二つがこのポケモンリーグを影で支配している。ユキナリは歯噛みした。それに至る材料がもうなくなってしまった。ロケット団をある意味では壊滅させるべきではなかったのかもしれない。そのような逡巡を読み取ったのか、『ユキナリ君』と博士は強い語調で口を開く。
『ロケット団を潰した事を後悔しているのだとしたら、それは違う。君は成すべきと思った事を成した。それでいいじゃないか。ただ私としては独断先行が激しかった事だけは言っておくよ』
それだけは反省せねばならない。ユキナリは目を伏せ、「ごめんなさい」と謝った。博士は、『素直に謝れるのはいい事だ』と頷く。
『本当に危ういのは、謝る事すら出来ない深みにはまってしまう事なのだから。そうなってしまった時、本当に頼れるべき人がいれば、幸運なのだけれどね』
暗にそれは自分ではないのだと博士は言っていた。頼れるべき人、大切な人を見つける事は自分自身にしか出来ない。他人任せにしていい事でもない。
「分かっています。それじゃ、博士。僕らはこの辺で」
『ああ、次はタマムシシティかい?』
順当に行けばそうであろう。シルフカンパニーという資金源の頭目を失った事でこのポケモンリーグそのものの存続が危ぶまれているが中止の勧告はない。
「ええ。あたし達はバッジを集めて、ポケモンリーグ制覇を」
『頼もしい事だ。君達の誰かが王になれば、と私も思っているよ』
既に自分が一つ、ナツキが一つずつ持っている。次のバッジの如何で順位が変わる事は間違いない。
「タマムシジムのバッジ、必ず取ってみせます」
ユキナリの宣言に、「ちょっと、あたしだってポイントはきちんと稼いでいるんだからね」とナツキが口を挟んだ。博士は笑いながら、『大丈夫だよ』と口にする。
『君達の誰かならばきちんと役目を果たせるだろう』
博士は通話を切った。ユキナリはポケモンセンターから出ようとする。するとキクコが顔を伏せているのを発見した。
「キクコ? 具合でも悪いの?」
窺っていると、「ううん」とキクコは首を横に振る。何か、先ほどの会話に感化された事でもあるのだろうか。ナツキは、「それよりも」と口を開く。
「あたし達、このヤマブキを後にしてもいいのかしら」
それは、確かにその通りだ。自分とガンテツはシルフビル倒壊の当事者である。警察に余計な事は喋っていないし、セルジも喋る気はないらしいが、もしかしたら張られているのかもしれない。
「動きにくくなるかも、って事?」
「それどころか拘束される危険性も視野に入れるべきよ」
ナツキの言葉は大げさに思えたが、目は真剣そのものだった。
「大丈夫。僕やガンちゃんがぼろを出さない限り、シルフビル倒壊に関してはしらを切れる」
「いや、それだけじゃなくって……」
ナツキが言い難そうに言葉を濁す。そういえば、ナツキがヤマブキシティを訪れた際の状況を全く聞いていなかった。何かあったのだろうか。そう思いながらポケモンセンターを出ると、「よう」とガンテツが片手を上げた。どうやら博士との通話が思ったよりも長くなってしまったようで、ガンテツは近くで買ったおいしい水を飲んでベンチに座っていた。
「ゴメン。待たせちゃった?」
「いや、大丈夫。それよか、これからどうする気なんや?」
進路の事を言っているのだろう。ユキナリは一呼吸置いてから、「進むよ」と口にした。
「そうか。次はクチバ?」
「いや、もうクチバは取られている可能性が高い。タマムシに向かう」
ユキナリの言葉にガンテツは、「なるほどな。納得や」と松葉杖をついて立ち上がる。
「ガンちゃんも、これからどうする?」
「ああ、俺? 俺は、もうオーキド達とはいられへんな」
ガンテツが視線を逸らす。その意味がユキナリには分からなかった。
「いられないって、どういう事? だってまだ旅を」
「旅はするつもりや。でも、この怪我じゃあ、どうせ足手纏いになるやろ」
「そんな事……」
アデクの時と同じだった。自分のせいで、誰かが旅を諦める。目標が潰えてしまう。それだけは避けたい。ユキナリはぎゅっと拳を握り締める。それを感じ取ったのか、ガンテツは後頭部を掻いた。
「まぁ、そう責任感じる事もないで、オーキド。お前はようやっとるし、別に怪我のせいだけやあらへん。シルフビルで会った奴との因縁があるからな」
ガンテツの言う人間とは八代目ガンテツを襲名したという疾風のシリュウを名乗った男だろう。まだ生きていたのか。ガンテツは遠くを睨み据えて、「絶対に奴を追い詰める」と宣言する。
「そのためには、俺はまだまだ力不足や。修行も兼ねて、ヤドンを強化する。そのためには、お前らと同じペースでいると、ついつい甘えてしまいかねん。俺は俺のために戦う」
ガンテツの目的はバッジ集めと玉座ではない。彼の手腕ならばそれも必要ないだろう。それよりも自分に必要なのは力なのだとガンテツは感じているに違いない。
「……そうか。でも、ガンちゃん、無茶は」
「せんよ。オーキド、お前も無茶すなや。そのポケモン」
ガンテツがGSボールを見やる。ユキナリは、「名前は決まったんだ」と言った。
「オノノクス。それがこのポケモンの名前」
「オノノクス、か。いい名前やな」
ガンテツへとすっと手を差し出す。その意味をガンテツは解していないようだった。
「何や?」
「握手を、と思って。ガンちゃんには本当に世話になった。もし出会わなかったら、オノンドも僕も成長出来ていなかっただろう。ワイルド状態からも脱しきれていなかったかもしれない。僕らに再び戦う機会を与えてくれたのは、ガンちゃんだ」
その言葉にガンテツは頬を掻きながら、「そない、大層な事はした覚えはないぞ」と口にする。
「俺はちょっとした手伝いをしただけや。乗り越えたのもお前の実力。誇り持て、オーキド」
「うん。でも、だからこそ、お礼を言いたい。ありがとう。そしてまた」
また出会う日まで。ガンテツの目にかなう使い手になっている事を夢見て。ガンテツはフッと口元に笑みを浮かばせ、「おうよ」とユキナリの手を取った。
「俺もその時には、オーキドくらい強くなってな格好がつかへんな」
「僕は負けないよ」
強気な発言にお互い微笑み合ってハイタッチする。ナツキ達も何かあるのかと思っていたが、ガンテツには何も言わなかった。
「何や、お嬢ちゃんらは何もないんか」
「何で世話にもなっていないあんたに何かあると思っているのよ」
ナツキの失礼とも取れる発言にガンテツは笑った。
「それもそうやな。でも、次に会った時には特製ボールを一つくらいはサービスしたってもええで」
「それくらいの作り手になっているならね」
売り言葉に買い言葉の体だがぴりぴりとしたものは感じない。むしろお互いを信用していた。
「あの、ガンテツさん、お大事に」
キクコが声をかける。ガンテツは、「キクコちゃんは正直やな」と頷く。
「涙が出るわ」
「悪かったわね、あたしが正直者じゃなくって」
「お嬢ちゃんが正直やったら、それはそれで気味が悪いけれどな」
ガンテツの小言にもナツキは怒る事はない。これから別行動を取るのだ。それなりに思うところはあったのかもしれない。
「じゃあな、オーキド、お嬢ちゃんら。俺は俺の強さを目指す」
その言葉を潮にガンテツはユキナリ達とは反対側へと歩いていった。ユキナリは真っ二つに両断されたシルフビルを見やってから、西へと抜けるゲートを目指す。
次の街へと行かねばならなかった。