第九十二話「義憤の女神」
額に浮いた動揺の汗の粒を拭い、イブキは口を開いた。
「で、ずっと気になっていたのだけれど、あの窪みは何?」
八ヶ所ある窪み。掌サイズもないであろう小ささだが自然についた傷跡にしては位置関係が意味深だった。
「あの場所、街がある場所と一致するわ。それもジムの設立された街と」
マサキがポケギアの地図機能を呼び出し、「ほんまや……」と呟いた。どうやらカントーの陸地と同じであることには気づけてもジムバッジには気づかなかったらしい。
「答えて。これがジムバッジと無関係なわけがないわよね?」
先生へと詰め寄ると、「あなた方は」とその唇が動いた。
「ジムバッジに力がある事をご存知ですか?」
力、というのはバッジごとの能力だろう。イブキは頷いた。
「一応は、ロケット団の資料に目を通したけれど。でも、あれは実証されたわけじゃないんでしょう? 錯覚かもしれないし」
「錯覚ではないのです」
はっきりと告げられた声音にイブキが息を呑む。まさか、とヘキサツールへと目をやった。
「このヘキサツールが、根源だって言うの?」
先生は、「それぞれのバッジには」と教鞭を振るうように身振り手振りをつけ始める。
「それぞれ呼応する能力が。その根源はヘキサツールの能力にある。ヘキサツールの一部を八つに分割したのがジムバッジ。常人には、ただのバッジにしか見えないでしょう。それも小汚いもので、本物か疑わしい」
だが紛れもなく力はある。だからこそ、八つに配置された。イブキは問い詰める。
「ジムバッジの配置には、意味が?」
「ええ、これも古代文字にあるのですが、八つの土地に八人の実力者を配置し、それぞれを守護させよ、と。そして、それらを一手に担う実力者を次代の王に選定せよ。それが予言の言葉です」
先生はそれに従って先王を殺したと言うのか。予言などという不確かなもので。イブキの目線で心境が伝わったのだろう。「我々とて迷いの中にありました」という声は懺悔の響きを帯びていた。
「ですが、我らはネメシス。義憤の女神の名を冠するもの。それぞれの持つ正義のために、実行されねばならなかったのです。予言は、予言通りに事が進めばいい。今はそれで」
先生はそれで自分を納得させようとでも言うのか。だが心の奥底では苦しんでいるのがありありと伝わった。先王を殺した事も、本意ではなかったのではないか。だが、先王も先生も、納得せざるを得なかった。納得のうちに全てが行われるのならば、何も恐れる事はなかったのだろう。だが、だとすれば……。
「私達の事も、予言に?」
先生はそこで首を横に振った。
「いいえ。あなた達とロケット団については予言には一行も割かれていませんでした」
自分達と、ロケット団。それこそがこの状況を掻き乱しているというのか。
「……納得出来ん」
マサキが出し抜けに口にする。目線を向けるとマサキは強い眼差しで、「納得出来るかい」と再び言い放つ。
「そんな、予言とやらを当てにして、このポケモンリーグは執り行われたって言うんか? それを知っとるんはおまいさんらだけやろ」
先生は、「そうです」と首肯した。
「ネメシスだけが知るはずでした。ですが、どこから情報が漏れたのかは全くもって不明ですが、今は三つの勢力が同じだけの情報を有している事になる」
「ロケット団……」
「それにヘキサか。難儀なもんやのう」
マサキは後頭部で手を組んで、「ええか、先生とやら」と口を開く。
「どこで情報が漏れたんかは知らんし、これからもそれを明らかにするつもりはない。ただ、ワイは納得が欲しい。おまいさんらが行ってるんは、正しい事なんかどうか」
今までマサキは善悪に頓着している様子ではなかった。しかし、ここに来て変わったのはこの次元、ひいては存在そのものが捻じ曲げられたものかも知れないという危惧だろう。イブキとて平常心でいろというのが無理な話だった。
「善悪など。そのような些事の彼岸にこそ、我らはいるのです」
ある意味では予想通りの答えにマサキは、「せやと思うた」とため息を漏らす。
「ええで。一応は納得する。ただし、一応は、やぞ」
どうやらマサキなりの決着はついたようだ。今度はイブキの番だった。
「聞かなきゃいけない事があるわ」
イブキの言葉に先生は、「何でも」と応ずる。
「ジムバッジを全部集めると、何が起こるの?」
王の資格、というからには、常人とは一線を画する変化が起きるはずだ。その質問に先生は逡巡の間を浮かべてから、「何も」と答えた。
「何も?」
「ええ、常人と変わるところはありません」
イブキは仮面を見据える。そんなはずはない。ジムバッジ一つ一つに個別の能力があるのだ。それを全て揃えた人間に何も起こらないなど。
「じゃあどうして。誰が一箇所に集めるって言うのよ」
「それが先ほど、子供達を見せた真意です」
子供達。その顔を思い出すだけで怖気が走る。あれは悪魔の研究だ。吐き気を堪えながら発した言葉は震えていた。
「まさか、あの子を利用して……」
「あなたも会っているんでしたね。キクコには」
「キクコちゃんってのは、オーキド・ユキナリと一緒におった子か?」
マサキも誘拐される直前に出会っている。だからこそ、先ほどの子供達の異様さが理解出来たのだ。
「キクコの適正はA判定。あの子達の中で最もポケモンとの結びつきが強い。今はまだ覚醒を渋っているようですが、いずれ使命に目覚めるでしょう」
その時に、誰かを傷つけるかもしれない。それを理解していないはずがなかった。あるいは先生にとってはそれすら些事なのか。
「だからポケモンリーグに参加させた」
「ええ。オーキド・ユキナリと行動を共にしているのは予想外でしたが、彼女はいずれ来るべき時に覚醒のトリガーとなる。それを避ける事は誰にも出来ない」
先生は全ての現象を掌握しようとでも言うのだろう。イブキには傲慢にも映ったが、バッジを全て集めるためならば手段は問わないのだろう。
「どうやってバッジを集めるつもりなの? だって、オーキド・ユキナリが全部持っているわけじゃない」
「バッジの所有者同士はいずれ戦う運命。その時に総取りを行えばいい。最も純粋なプランはバッジが渡る前に確保する事でしたが」
「ジムリーダー殺し」
イブキの言葉に先生は無言を貫いた。それが答えだった。
「キクコちゃんに、それをさせているのはあなたね」
「あの子もそれを承知の上で自由の身になったのです」
自由が聞いて呆れる。結局のところ、キクコは先生の言いなりになっているだけだ。だが、とイブキはその一方で思う。ユキナリならばそのしがらみから解放出来るのではないのか。思い至って自嘲する。何を期待しているのだ。あれはただの子供だぞ。
だが、そうとも割り切れなかった。ロケット団で得た情報。それによればユキナリはただの子供ではないのだから。
「誰がバッジを得ているのかは分かるの?」
先生は、「発信機がつけられています」とポケギアに視線を落とす。
「一つはオーキド・ユキナリが。一つはナツキとかいう同行者が。二つをカンザキ・ヤナギが所持しています」
「今のところ四つか」
勢力図的には五分五分だろう。ヘキサ側に属しているヤナギが二つもバッジを持っている事は脅威だが、今はさほど問題ではない。むしろ、問題なのはこれから先もユキナリ達はバッジを取得するための旅を続けるだろうという事だ。自分達の都合などお構いなしに。
それが一番危険だった。
「バッジを一箇所に集めて、それで何が起こるにしろ起こらないにしろ、必要な事だというわけね」
「理解が早くて助かります」
マサキが鼻を鳴らし、「理解、って言うても」と口を開いた。
「そちらが何を要求しているのか、ワイらにはほとんど明かされてへんわけやけれどな」
「我らはただ、ヘキサツールの予言通りに物事が進めばいいだけの事」
本当にそれだけだろうか、と勘繰ってしまう。ヘキサツール、古代の石版の予言など錆び付いた代物だろう。そんなものに未来を任せていいのだろうか。
「私達は、何をすればいいわけ?」
もしバッジの収集、と命じられればユキナリ達とまた戦わねばならないのか。そうなった時、自分は冷静な判断が出来るだろうかと疑ってしまう。しかし、先生が口にしたのは意外な言葉だった。
「バッジに関しては、彼らが集めるのを待ちましょう」
「意外ね。悠長な事を言わず、私達に集めろとでも命じるかと思ったわ」
「ジムリーダーは実力者です。こちらの戦力はあなた方だけ。それでは心許ない。それに、汚い手を使ってバッジを集めたところで意味がないのです。それならば最初から、ポケモンリーグなど開催しなければいいだけの話ですから」
それはそうだが、とイブキはマサキへと視線を配る。マサキは肩を竦めた。
「で、ワイらの任務は何や?」
「これです」と先生は懐から一枚の写真を取り出した。空中から撮影したものだろう。海に浮かぶ二つの島が窺えた。
「ふたご島ね」
セキチクシティから沖に出たところにある島の事だ。先生は、「この場所に赴いて欲しいのです」と告げた。
「ふたご島に? どうして?」
「伝説の三体の鳥ポケモン、をご存知ですよね?」
それもロケット団のデータベースにあった。イブキは首肯し、「サンダー、ファイヤー、フリーザー」と言った。
「この三体が、どうかしたの?」
「本来ならば必要のない力なのですが、ロケット団とヘキサはこの三体を使って何かを企んでいる。あなた達には、その企みを阻止してもらいたい」
「阻止って、でもワイら所詮戦力としちゃ、一人レベルやで?」
マサキは自分を入れていない。端からイブキ頼みだ。イブキはため息をついて、「そうね」と先生を見据えた。
「マサキじゃ当てにならないし、私一人でこの二勢力をどうこうしろってのはね。無理な話だわ」
「私の言い方が悪かったですね。阻止しろ、と言っても、企みを根底から引っくり返せ、とは言いません。ただ、計画に必要な駒である三体の鳥ポケモンのうち、一体を確保していただきたいのです」
「そのうち一体が、このふたご島にいるってわけね」
イブキが納得すると先生は、「ふたご島にいるのはフリーザーです」とその名を口にする。
「フリーザー。確か氷を統べるポケモン」
「電気、炎、氷。多少の差異はあれど、この三属性もまた、三元素と呼ばれる属性に直結しています」
「この三体で何をするつもりなのかしら? ヘキサとロケット団は」
「不明です」と先生は断言する。その言葉の調子が気になった。どうしてそうも言い切れるのか。尻尾を掴んでいない限りは、動く事さえも躊躇わないのは何故か。
「ただ、この三体を先んじて捕まえられると困る。既にファイヤーとサンダーはそれぞれヘキサとロケット団に捕獲されたのだと聞きます。あとはフリーザーだけ」
先生の言葉にマサキが突っかかる。
「ワイらに、フリーザーを捕まえに行け言うんか」
先生は首肯し、「それしか方法がないのです」と続けた。マサキはイブキへと目を向ける。
「どうする? 姐さん」
「どうするも何も、決まっているわ」
イブキは写真を手に取り、「サポートは任せていいのよね?」と確認する。先生は、「ボールも、特別なものを用意いたしましょう」と言葉を継いだ。
「姐さん、まさか」
「そのまさかよ」
イブキはふたご島の位置をポケギアに記録させて顔を上げる。
「フリーザーを捕獲する」