第九十一話「ハッキングトゥザゲート」
先生は指を一本立てた。マサキが怪訝そうに見やる。
「何本ですか?」
その質問にマサキは困惑気味に答える。
「一本やけれど……」
イブキへと視線を配る。頷くと、先生は今度、空いていた手でもう一本、指を立てる。
「何本ですか?」
その質問がこちらを嘗めているのだと感じたのだろう。マサキは憤慨気味に、「二本やろ。なぁ、馬鹿にしとるんか!」と声にする。
「まさか。分かりやすく物事を説明するための準備です」
先生は二本の指を並行して立てた。ちょうどもう一本の指に後ろの指が隠れるようになっている。
「何本ですか?」
三度の質問にマサキはうんざりしたように答える。
「二本……」
「これが、そもそもの世界の状態でした」
その言葉にマサキが疑問符を浮かべる。先生は指を立てたまま、「もう一方の指」と口にした。
「この指を世界と見立てましょう。本来、世界とはこのように二本、いいえ、もっと言えば複数、並んで存在しているものでした」
先生の言葉に反応したのはマサキだ。
「パラレルワールドか」
「そうとも言えます」
パラレルワールドならばイブキでも分かる。ここではない並行世界のことだろう。どちらかが表か裏かと言う議論はさておき、そういう風に世界が分岐しているという意味ならば理解出来た。
「本来、交わるはずのない世界と世界。しかし、ある瞬間」
先生が二本の指をぶつける。ちょうど交差した二本の指が意味するところがようやく理解出来た。
「交わったのね」
イブキの声に先生は頷く。「せやかて」とマサキは抗弁を発する。
「どうなった言うんや? それがヘキサツールという石版がこの次元に来た言う説明にはならんで」
先生は落ち着き払って、「この次元は」と交わった一本の指を立てたままマサキを凝視する。
「本来、存在しなかった。いいえ、そもそも並行宇宙の根底が間違っていた。この世界には、ポケモンもおらず、世界は今のような地方ごとに分かれてもいない。人間が頂点に立つ、文明の極めた世界。私はこれを本来の宇宙と呼んでいます」
「本来の……?」
それではまるでもう一つが間違っているようではないか。イブキの疑念を感じ取ったのだろう。「本来の、と申しましたのは」と先生はすかさず補足した。
「この次元の人間は核エネルギーに依存し、ポケモンも存在せず、普通の動植物の中で生存し、文明を発達させていたからです」
「その本来の宇宙から、ヘキサツールは来た言うんが、おまいさんの論調か」
マサキが先んじて口にすると先生はゆっくりと頭を振った。
「いいえ。これから言う事をよく聞いてください」
先生は先ほど交えたもう一本の指を立て、そちらを前に出した。
「ヘキサツールが来たのは本来の宇宙から、ではありません。我々のいるポケモンのいる次元に移動させられたのではないのです」
マサキが、「ちょ、ちょっと待ちぃや!」と声を張り上げる。
「さっきから言うとる事がちぐはぐや。だって並行宇宙があって、ワイらがいるのはポケモンのいる次元で……」
「その前提が間違っているのです」
先生は立てていた指をそのまま流麗にヘキサツールへと向けた。
「この石版が来たのは、ポケモンのいる次元からです。その確たる証拠が、この石版の劣化しない理由」
先生はヘキサツールを指差したまま、その地形をなぞるように指を払う。
「この石版に吸着しているのは、ポケモンの強力なエネルギーです。それが、石版の劣化を防いでおり、なおかつ、常人では触れられない理由にもなっている」
やはり触れられないのか。先ほどから先生は触れようとしては躊躇っている様子が見受けられる。
「じゃあ、私達の次元を行き来しただけ?」
イブキの疑問に先生は、「それも違う」と否定した。マサキが堪りかねて、「何やねん!」と怒りをぶつけた。
「さっきから聞いていればこれも違う、あれも違う、って。じゃあ真実はどこにあるねん!」
必死の言葉に、「真実は」と先生は取り澄まして答える。
「全てあなた方に教えます。私としても、この話をするのには慣れていない。私の前任者もこの話には苦労していました。一回聞いただけではとてもではないが理解は出来ない」
「でも、このヘキサツールは次元を行き来したのよね?」
確認の声に先生は頷いた。
「じゃあ、決まっとるやろ! 本来の宇宙からこっちの宇宙に来た! はい、終わり!」
「逆です」
マサキの早計な結論を先生はたった一言で否定した。マサキは呆気に取られている。
「え?」
「ポケモンのいる次元から、本来の次元に来た、が正しい」
「せやから、ここがポケモンのいる次元やん! 分からん奴やな、あんたも……」
「違う」
イブキも無意識のうちに口にしていた。マサキが、「姐さん?」とうろたえる。
「何言うとりますのん。ここがポケモンのいる次元。やとしたら、もう一つの次元が本来の宇宙のはずでしょう?」
「違う。多分、前提条件が間違っている」
イブキは額を押さえる。自分の頭では理解出来ないのかもしれない。それでも、イブキは考えを巡らせた。頭ごなしに否定しては駄目だ。もっと、柔軟に。物事を俯瞰しなければ。マサキは眉間に皺を寄せて、「何が間違うとるねん……」とぼやいていた。
「ここにポケモンがおるから、こっちがポケモンのいる次元やろ。それ以外、考えられん言うのに……」
「それが逆なんだわ」
イブキは直感的に呟いていた。マサキと先生が同時に顔を向ける。
「逆、って。姐さんまで何言うてますのん? こっちがポケモンのいる世界でしょ。本来の宇宙は向こう側で――」
「違う。ヘキサツールがあったのはポケモンのいる次元だった」
先生の言葉の繰り返しをイブキが言った事でマサキは混乱したようだ。後頭部を掻いて、「だから……」と言葉を出そうとする。イブキは、「待って」と額に手をやる。これが正解なのか。これがもし正答だとしたら、この世界は――。そこまで考えてイブキは慎重に口にしていた。
「……こっちの宇宙が、本来の宇宙なのよ。ポケモンのいる次元はもう一つのほう、別の次元だった」
イブキの声に先生は訂正を挟もうとしない。深く息を吸い込んで次の言葉を放つ。
「こっちこそが、人間が繁栄を極めた世界。そちらに持ち込まれた異物がヘキサツール。どうしてそれが今より古代にあったのか、それまでは分からないけれど、何かの仕組みで、それこそ次元がどうこうするような理由で、こっちにポケモンが発生するようになった。だから、今私達が生きている次元がポケモンの存在する宇宙になっている。ひょっとして、ヘキサツールのあった次元はもうないんじゃない?」
そこまで仮説を並べ立てると乾いた拍手が起こった。先生が手を打ちながら、「そこまで理解されるとは」と感心した声を出す。
「あなたの想像通り、ヘキサツールのあった次元は、もう存在しないのだと考えられます」
「どうしてや? 意味分からんぞ」
マサキが首をひねっている。イブキは、「想像してみて」と一呼吸を置いた。
「ポケモンのいる世界は、さっきの彼女の言葉から、そういくつも存在しない事が窺えるわ。仮定として、ポケモンのいる世界を一つだけだとすると、もう一方の世界にはポケモンがいないのだと考えられる」
「そりゃ、そうやろけど……」
マサキはまだ得心の行っていない様子だ。イブキは自分の頭が正常である事を確認するため、四桁までの掛け算を暗算で行う。問題なく頭が動作したのを確かめてから、本題に移った。
「いい? こっちが本来の宇宙だと仮定した理由は彼女がさっき言った四十年後の未来のもの、っていう言葉が起因しているの」
「その四十年? って言うのがワイには全く分からんのやな。だったら何で古代に飛ばされたんか、言う」
マサキがヘキサツールを見やる。イブキは、「もし、現行世界が文明の発達した世界だとすれば」と仮説を用いた。
「その文明にいきなり、ポケモンの世界のものが持ち込まれるのは不自然よ」
「だから、文明の興る前の、古代に自分から跳んだとでも言うの? それはちょっと暴論やで」
「ヘキサツールが自分から跳んだ、というよりかは、その場所と時間にしか、跳ぶ事が出来なかった、と言うべきでしょう。それはさっきの話にあった、ポケモンの技の形跡がある、という事が証拠になるんじゃないかしら」
先生に顔を向ける。問い質す必要があった。
「使用された技は?」
「まだ未発見な技の一つです。ですが属性ならば特定出来ました。炎・水・草タイプ。その三つの複合体」
先生の言葉に、「そんなアホな!」とマサキが遮った。
「何でよ?」
「姐さんかてポケモントレーナーなら分かるやろ? 複合タイプの技はあり得へんねん」
「でも、未発見なだけでもしかしたらそのルーツはあるのかもしれない」
イブキには否定する要素がなかった。むしろそれくらいは想定内だ。
「でも、まだ安心出来たわ。聞いた事のないタイプだったらどうしようかと」
「エスパーも僅かに残滓がありましたが、これはほとんどないに等しいですね。やはり炎と水と草が主な攻撃属性かと」
「三元素の攻撃。仮に名付けるのならば三位一体、とでも言うべきかしら」
イブキの発言に先生はいさめるような声を出さなかった。ある意味では当たっているからだろう。
「……その三位一体、つう攻撃がどないしたって言うんや? ポケモンの技が何か意味があるとでも」
「マサキ。もし、次元の壁を突き破るのに必要な要素があるとして」
これは仮説だ。だが、トレーナーとしての自分も告げている。あり得ない話ではない、と。
「それが三位一体だとすれば? つまり、三位一体という攻撃によってこのヘキサツールは作られた」
カントーの陸地にしか見えない石版を眺めて発した言葉に、「……そんな、ウソやろ……」とマサキは呆然とした。
「そして送られたのよ。こちら側の、本来の宇宙へ」
「でも、ちょっと待ってください、姐さん。さっきからそれが分からんのです。こっちが本来の宇宙なら、どうしてその痕跡がないんです? 人間が栄華を極めた、その痕跡がちょっとでも残っていて然るべきでしょう? それがないのは気になりませんの?」
「それは……」とイブキも口ごもるしかない。その部分だけは仮説で補えなかった。
「ポケモンがどうやって存在するのか、その生息地を延ばし、人々の目に触れるのか、考えた事はありますか?」
先生の出し抜けな質問にマサキは、「そんなもん……」と切り捨てようとして押し黙った。
「何かあるの?」
イブキの質問に顎に手を添えたマサキは、「いや、まさか」と早口に呟く。
「姐さん、ちょっと待ってください。これは、あれです。オカルトなんです」
「オカルトでもいいから答えなさいよ」
マサキはわざとらしく咳払いしてから、「じゃあ言いますけれど」とイブキへと向き直る。
「前にも言いましたよね? 認識の差でポケモンは存在するのだと。数億年空を飛んでいるレックウザがいるのに、ポケモンの発見はここ数十年。おかしい、って言いましたよね?」
「ええ、言ったわね」
マサキを捕らえた時に話されたものだ。マサキはあの時は自分の保身のために口にしたせいか、あまり信用していなかったようだ。だが、今はその説をまともに話の上に持ってきている。
「認識の差。人間が、在る、と感じた瞬間にポケモンは生まれた。その生息域を延ばす要因はただ一つ、人間に今以上に、在る、と認識させる事」
「だから、どうしたって……」
反論の余地を考え出そうとしてイブキは思い至った。まさか、と取り消そうとするが予感は消えてくれない。
「そのまさかですよ、姐さん」
マサキはそれを読み取ったかのように口元を緩めた。しかし、その目は笑っていない。
「たった一体でも、在れば、ええんです。在る、事を人間が認識すれば、ポケモンは生きていける。ヘキサツールがこの次元に出現したのは、いいえ、そもそもワイらが考えている事が全て逆やとしたら? ヘキサツール出現はポケモン出現に連鎖して起きた事象。つまり、ポケモンがこの次元に出現したがために、前後の歴史が捩じ曲げられた……」
口にしていてマサキは信じられないのだろう。その眼差しはいつになく真剣でありながらも、この言葉に確証が持てない、という震えが宿っていた。
「じゃあ、あんたはこう言いたいわけ? ポケモンが存在したから、古代にヘキサツールが跳んできた。ポケモンの出現とヘキサツールの出現は全くの無関係ではない、と」
「そう考えるのが自然なんです。……もっとも、これは両方の存在がこの次元になかった事を前提とした考え方ですけれど」
もしそうだとしたら怖気が走る。たった一体のポケモンがこの宇宙を改変したと言うのか。いや、一体ではなかったのかもしれない。だが、一体でも確認されれば充分なのだ。人間に、在る、と認識さえさせればいい。
「つくづく、あなた方には驚かされますね」
先生が話に割って入った。気のせいか、紅を引いた唇が僅かに緩められているのを感じる。
「その仮説は我らネメシスが長年守ってきた秘密の一端。ポケモンの研究者、でしたっけ、そちらは」
マサキへと顎をしゃくる。マサキは首筋をさすりながら、「まぁ、元研究者、やけれどな」と答えた。
「このまま裏舞台に消えるかもしれんし、研究者としては名が残らんかもな」
「いえ、あなたの発想と探究心は素晴らしい。我々が威信をかけて、あなたの名前を残しましょう」
「ほんまか?」とマサキが食いつく。ロケット団に入ったのもヘキサに入っていたのも全て自分の名を残すための行動だ。それが歴史を裏から矯正してきたネメシスの言葉だとしたらこれほど魅力的なものはないのだろう。
「……あんた、節操ってもんはないの?」
「そんなもん、持っている暇があったら売りに行きますわ」
どうやら早速売りに出されたらしい節操を気にも留めず、マサキは問い質す。
「なぁ、ほんまにワイの名前を残してくれるんか?」
「ええ。その程度でよろしければ」
ネメシスの組織力をもってすれば歴史に名を残すかどうかすら「その程度」なのだろう。イブキは改めて恐ろしさを感じると共に、自分の仮説が実証された確信を持っていた。
「私の仮説は」
「半分ほどは正解です。ですが、今の我々ですらその仮説を実証するには至っていない。そもそも四十年という年代測定に誤りがあったのでは、とする派閥もあるくらいです」
「それは」
そうなのだろう。未来から来た物質、と捉えるよりかは計器の異常を疑ったほうが現実的だ。
「せやかて、その四十年、ってのが引っかかるなぁ」
マサキは腕を組んで再び疑問を口にしていた。
「今から四十年後にどんなパラダイムシフトが起こる言うんや?」
「何って? パラダイム……」
「シフト。社会的や文化的な劇的変化やね」
イブキが怪訝そうに眉根を寄せているのを見てマサキは、「姐さんには縁のない話かも知れんけれど」と前置きしてから話し出す。
「ワイら発明家、研究者にとってしてみれば起こるととんでもない事になる。ポケモンの発見かて一種のパラダイムシフトや。今まで見えなかった観点から物事が見えるようになる」
イブキは先生へと視線をやって、「四十年後に何が起こるのかは?」と聞いた。先生は首を横に振る。
「それはまだ。しかし革新的な事が起こるのは確実です」
その事柄がヘキサツールとどう結びつくのかは不明、か。イブキは自分の中で納得してから、「結論として」と纏めた。
「私達のいるこの世界は元々、人類文明の発展した世界だった。その世界がポケモンによって歪められ、さらに言えば、古代人にこの地を創らせる要因になった。カントーの地を模したこの石版が、そうそそのかした」
「ある意味では禁断の果実だったのかもしれませんね」
ヘキサツールが古代人に与えたのはカントーという土地を興す事だけだったのだろうか。イブキはもしや、と考える。
ポケモンの存在すら、示唆していたのではないのか。各地に散らばるポケモンの存在の歴史。それはカントーを形作った古代人がわざとその地に縁のある伝承を置いたのではないのか。
全ての現象の発端はカントーの、このヘキサツールではないのか。そこまで考えて、飛躍し過ぎだ、と自分をいさめた。いくらなんでもそんな事はあり得ない。いや、あってはならない。