第八十九話「聖典」
「……それが、王の死の真相だって言うの?」
イブキは今しがた聞いた話を振り返っていた。マサキは物珍しそうに周囲を見渡している。自分とてそうだ。この場所に立ち入る事は本来、あり得ない。カントー政府の総本山、セキエイ高原。その場所は意外にも緑が多く、石英に苔むした植物が内部からの発光現象で幻想的に煌いている。
王の死。それがこのポケモンリーグの発端だ。だが、それは王が病死したからだと表向きには伝えられていた。もちろん、憶測は出回った。政府による王の死は陰謀であるという説や、何らかの目的のために歪められた死である事は誰もが思っていながらも口にしなかっただけだ。しかし、その真実がたった一人の女性によるものだとは誰も思うまい。
自分の事を先生と呼べと彼女は言った。それが呼ばれ慣れているから、と。先生は、語りながらセキエイ高原の奥へと歩んでいた。イブキ達は話を聞きつつその背中に続いている形だ。
「そりゃ、いきなりの王の崩御を誰だって不審には思うわ。でも、だからってあなた一人が殺しただなんて」
到底信じられない、という口調を混ぜると先生は仮面越しに片手を開き、「今でも覚えています」と口にした。
「カバルドンに殺害を命じた事を。自分の手で、あの人の命を奪ったのです」
あの人、と口にするからには何らかの因縁があったのだろうか。先ほどの話の中に湿っぽいものは感じられなかったが、イブキは最早王の死に関して疑いようはないと確信していた。
「……信じるとして、先生とやら、どうして殺さなあかんかったんや?」
マサキが口を差し挟む。それだけが謎だ。殺す必要性はなかったのではないか、と今でも感じる。
「他にも方法はあったんじゃない? 王をどこか別の場所に監禁するとか……」
「誰一人として王の所在地は掴んでいません。玉座にいる、と言っても王は自由でした。時折、下界の様子を見に行ったりもしていたのですよ」
初耳の事実に瞠目するよりも、マサキは別の可能性を思い至ったようだった。
「それ、セキエイでは周知の事実やったわけか」
先生が頷く。だとすれば、死んだ以外に方法はなかったのか。しかし、だとしても分からない。
「それでも、殺す事はなかったんじゃないの? 王が身を隠せばいいだけの話なのだから」
「それが定められていたものだったからです」
定められていたもの。何に、と問おうとすると先生は出し抜けに、「予言を信じますか?」と尋ねた。
「予言?」
適さない言葉に聞き返す。何の事を言っているのだかさっぱりだった。
「王の死とポケモンリーグ。それが予め、決められていた事象なのだとしたら」
イブキはマサキと目線を交し合う。そのような事があり得るのか、と無言の疑問にマサキは肩を竦めた。
「あのなぁ、先生。ワイはエンジニアなんや。そういうオカルトいうんは信じる気にはなれんのが……」
「では、あなた方はロケット団の下で手に入れた情報を否定するのですか?」
遮って放たれた声に二人は揃って沈黙する。特異点とする二人の人物。全てが定められているのだというこのポケモンリーグ。その裏で糸を引くネメシスなる組織。事実だとすればこれほど脅威なものはないのだが、イブキは冷静に返す。
「全部、仮定の話よ。もしそんなものが存在すれば、という話。確かに、あなたは自分達こそがネメシスだと語った。それにヘキサという組織がいるのも事実。ロケット団は両方を相手取るために力を蓄えていたのも事実。でも、何でもかんでも信じるわけにはいかないのよ」
そもそもネメシスは何のために歴史を矯正しているのか。その行動原理が分からない以上、信じるに足る要素は薄い。
「一体、あなた達は……」
そこで言葉を切る。どこからか駆けて来る足音があったからだ。複数、それも子供のものだと判じたイブキが身体を硬直させる。セキエイの最深部に子供の足音? たちの悪い冗談としか思えなかったが、次の瞬間、暗がりから数人の子供が姿を現した。イブキは瞠目する。彼ら彼女らは、一様に先生と同じ仮面を被っていたからだ。
「先生」、「先生、誰ですか?」、「先生」
子供達がそれぞれ口にして先生へと駆け寄る。年の頃はユキナリとそう変わらないように思えたが、子供達の声がそれぞれはかったように同じ声のトーンであった。加えて同じ仮面をつけている。イブキには正直、不気味以外に形容する言葉が見つからなかった。
「先生?」と一人の少女が声にする。先生はイブキへと視線をやり、「彼ら彼女らは」と口を開いた。
「私達ネメシスのために準備された子供達。そうですね、あなた方にはこの子達の素顔を見てもらうのが多分早い」
先生が一人の仮面を外す。イブキはその瞬間、驚愕に目を見開いた。覚えず後ずさる。吐き気が熱を持って喉を上ってくるのが分かったが、ぐっと堪えた。
「これが理由の一つ」
先生が子供の仮面を戻す。イブキは、「そんな事が」と口にしていた。
「許されるの?」
「許される、許されないではなく、やらねばならなかったのです」
先生の声は淡々としている。マサキはイブキの耳元へと囁きかけた。
「姐さん。今のは……」
「ええ。あなたも覚えている通りよ」
マサキも青白い顔をしていた。まるで幽霊にでも行き会ったかのように。
「あれ、全員が同じ顔、っていう事なんですよね」
マサキが先生に質問する。先生は沈黙を是にした。
「もう行きなさい」
子供達に先生が命じると子供達は返事をして暗がりの中へと駆けていった。イブキは思わず尋ねる。
「何のために、こんな」
「理想の一人を生み出すためです。予言にはこうも記されている。黙示録の仔羊の顔を持つ子供を選定せよ、と」
「黙示録の仔羊?」
聞き返すと、「そうですね。知らないほうが自然です」と先生は納得した。
「この世界に宗教はいくつありますか?」
唐突な質問にイブキはうろたえたがマサキが代わりに答えた。
「人の数だけある、としか答えられませんな」
「その通り。では、聖書はいくつありますか?」
先ほどよりも絞った質問だったのだろう。マサキは逡巡の間を浮かべてから、「ワイもよく知らんけれど」と前置きする。
「それも人の数と違います? あったしても地方の数、人種の数だけあるとしか……」
「それも一面では正しい。ですが、私達の聖書は一つです」
先生はさらにセキエイの深部へと歩き出す。イブキは道すがら尋ねていた。
「あれはどうやって……?」
あれ、と形容したのは先ほどの子供達だ。先生は、「詳しい事は私にも分からないのですが」と口にする。
「あらゆる先端技術を用い、たった一つの魂の再生を目的とした計画が記されているのです」
「それが、予言?」
尋ねた声に先生は首肯した。進むにつれ、植物が色濃くなり、早朝であるにも関わらず光が薄らいでいる事に気づく。しかし、異様に感じたのはそれだけではない。
「生き物の気配がないわね」
ポケモンの気配すらないのだ。かといって人間の気配もなく、まさしく絶対の静謐に包まれた空間であった。
「この場所に、ポケモンは出現しません」
いない、でも、生息しない、でもなく、出現しない、という言い回しに引っかかりを感じたがイブキは黙っておいた。
「人間とて、この場所に長居はしたくないでしょう」
段差のような場所へと歩み出た。階段を進み、神殿と思しき造りがそこらかしこに成されている事に気づく。
「ここは、神殿?」
「間違ってはいません」
先生の声にイブキは怪訝そうな目を向けた。白亜の階段を抜けると、目の前に広がった光景に慄然とした。
「これは……!」
イブキの目はそれに釘付けになった。そこにあったのは巨大な石版だ。ガラスに入っており、ところどころを杭のようなもので打ち付けられていた。
「この石版は……」
コンクリートの壁を思わせる石版であった。青い六角形が中央に刻み込まれており、六角形を区切る線が中心から伸びている。区切られた下方の一角だけが赤く染められていた。文字が刻み込まれており、大分くすんでいたがはっきりとこう読めた。
「HEXA」と。
「これが、我らの聖典です」
先生の声にイブキは呆然としながら、「これは何なの?」と訊いていた。
「これが預言書であり、聖書であり、そしてこのカントーそのものです」