第八十八話「真相」
静謐が包む空間に足を踏み入れると、自分の存在が遊離しているかのようだ。
セキエイ高原。その名に宝石を冠した地名は何も名前だけではない。至るところには石英の結晶体があり、僅かな光源が差し込んで光の乱反射を生み出す。青い光が降り立った空間の最奥には、金色の玉座があった。そこに座っている人影を見据える。自分には分かる。本来、そのような場所に座るような人柄ではないという事は。
「ああ、君か。玉座で待っていろと言われていたから、もっと大層な人間が来るのかと思っていた」
彼は安心し切ったような声を出す。自分は、「大層な人間、とは」と返していた。
「重役連とかだよ。面倒な手続きならオフィスのほうでやるって言うのに、どうしてこの玉座を指定してきたのかな、って思ってね。まさか写真撮影でもするわけではあるまいに」
彼の温和な言葉に唇を引き結んだ。すると彼は首を傾げる。
「何でだか緊張しているね。君らしくない。それとも、最近子供達が言う事を聞かないとかで困っているとか?」
彼の言葉はどこまでも柔らかで優しい。だが自分には心に決めた使命がある。
モンスターボールを抜き放った。彼が怪訝そうに目を向ける。玉座からは動かずに、「何それ?」と疑問を口にする。
「一応、玉座で戦うのは違法、っていうか前例がないから違法とも言えないんだけれど、あんましやらないほうがいいと思うなぁ。ほら、重役連から俺が叩かれる分にはいいけれど、君まで被害が及ぶとなると……」
その言葉を最後まで聞かず、自分はマイナスドライバーでボタンを緩め、押し込んだ。
「いけ」
モンスターボールが割れ、中から飛び出したのは重機のような威容だった。黒い表皮で、短い四足を有している。背部には穴が開いており、大口を開けてそれは咆哮した。穴から砂が噴き出し、一瞬にして砂嵐が玉座の空間を覆っていく。彼は少しばかりうろたえた様子だった。
「カバルドン。君のポケモンじゃないか。どうして今、出している?」
「全ては、歴史の強制力のために」
その言葉で自分がどうしてこの場に立っているのかを察したのだろう。彼は、「ああ」と納得したように顔を伏せる。
「そうか。君には君の使命があるんだったね。だからと言って、俺は負ける気はない。ここで勝つ。勝って使命なんて忘れさせる」
彼はモンスターボールをホルスターから抜き放ち、ボタンを押し込んだ。繰り出されたのは朱色の鬣を持つ巨大なポケモンだ。朱色には僅かに銀も混じっており、このポケモンが放つ凄味を引き立たせている。
「俺はこのカントーの王、チャンピオンのグリーン」
名乗りを上げた彼は威圧感を放つポケモンを撫でる。
「こいつは俺の相棒、ウインディ。他にも五体いるが、君の様式に則ってこの一体で戦うとしよう」
ウインディが猛々しく吼える。自分とカバルドンは即座に攻撃姿勢に入った。
「カバルドン、地震」
カバルドンを中心として茶色の波紋が広がる。段階的に地形を突き崩しながら襲いかかった地震の津波をウインディは難なくかわした。それも目にも留まらぬ速度で、である。
「ウインディは炎タイプ。当然、地面で攻めてくるのは正解だ。でも、そう簡単に捉えられはしないって事、忘れてもらっちゃ困るぜ」
グリーンが手を開き、振り払うとウインディは一気に距離を詰めてきた。決して目で追えない速度で肉迫する技である。
「神速……」
「その通り。まずは防御を突き崩す!」
ウインディが牙を剥き出しにしてカバルドンへと噛み付いてくる。即座に手を払い、砂嵐を凝固させた壁を作った。ウインディはその壁の存在を知覚したのか、すぐさま退く。
「砂嵐を強制的に起こす特性、砂起こし、ってのは厄介だな。鋼、地面、岩以外のポケモンじゃ、断続的にダメージを与えられてしまう」
そのような事は釈迦に説法というものだ。彼はこのカントーの王。ポケモンに関する事には精通している。
「だけれど、俺にだって分かる事はある。カバルドンは素早くない。ウインディの速度について来られるかどうかは賭けだ。たとえ砂嵐を自由自在に操れたとしても、どこかで隙が生まれるはずだぜ」
ウインディが飛びかかる。自分は砂嵐を攻撃に転じさせようと手を振り落とした。指揮に弾かれたように砂嵐が刃の切っ先の鋭さを伴ってウインディの首下へと突き刺さろうとする。
「当たらねぇよ!」
神速の域に達したウインディが空間を跳び越える。巻き上げた風が砂嵐の攻撃を掻き消した。攻撃を掻い潜ってウインディが前足を突き出す。カバルドンへと咄嗟に命じた。
「前方へと砂嵐の壁を展開、それと同時に刃状に突き刺す」
砂嵐がまるで磁石のようにさぁっと動き、カバルドンの前方に壁を作る。それと同時に内側へと砂嵐で刃を形成した。もし、ウインディが突っ込んでくれば砂嵐の刃に突き刺される。そうでなければ一度体勢を立て直す必要性に駆られるだろう。とりあえず、今は、と凌いだと考えるが状況はそれほど生易しくなかった。
「ウインディ、インファイト!」
ウインディが一瞬にして砂嵐の壁を破り、至近の距離へと接近する。自分とカバルドンに対してそこまで強気に出る事が不思議でならなかった。
「その距離では、砂嵐の刃を――」
「おいおい、今さらそんな攻撃に臆するものかよ。接近戦は、得意なんだぜ!」
ウインディから風の皮膜を破る高速の風圧が放たれる。神速と併用し、砂嵐の壁を引き裂いたのだ。だがその奥には砂嵐の切っ先がある。突き刺さるかに思われたそれをウインディは間一髪で回避し、カバルドンの射程へと入る。ウインディは全身から気迫を放ち、カバルドンを前足で押し退けた。カバルドンが後退する。足の裏に砂嵐の下駄を履かせたお陰で後退は最低限で済んだがそれでもダメージがないわけではない。
「格闘タイプの技、インファイト。高威力の代わりにそれは防御と特殊防御を犠牲にする技」
「そう、ご存知の通り。だが、俺のウインディに関して言えば、元々長時間戦闘なんて趣味じゃないんだよ」
ウインディの顎の下の毛皮から紫色の光が漏れる。その光の正体を看破した。
「道具……、命の珠?」
「ご明察。命の珠は体力を引き下げる代わりに攻撃力増強を約束する」
ウインディが顎の下につけているのは紫色の妖しい光を放つ宝玉だった。命の珠。攻撃の度に体力が削られるが、その代わり高威力を誇る諸刃の剣。
「短期決戦型……」
「ちまちましたのは女々しくって好きじゃないんでね。やるんなら一発勝負だ」
グリーンの言葉にウインディの身体が炎に包まれる。紅蓮の獣が全身から炎の吐息を迸らせてカバルドンを視野に入れた。
「フレアドライブ。カバルドンが耐久にいくら能力が振れられているからと言っても、この攻撃と神速を組み合わせた一撃の重さに、耐えられるわけがない」
ウインディが地の底から鳴るような呻り声を上げる。グリーンは、「今ならばまだ」と口にした。
「君の行動の理由を教えてくれるならば、まだ間に合う。ウインディが必殺の一撃を放つ前に、理由さえ教えてくれればいい。それだけで俺は迷わず君へと攻撃する手を引っ込めるだろう」
最後通告だった。「フレアドライブ」を身に纏ったウインディを御する術などないのだろう。このまま攻撃が命中すればカバルドンも、もしかすると自分の命さえも危ういのかもしれない。
だが口を閉ざした。喋るわけにはいかない。それに喋ったからと言ってこの宿命をなかった事にすることは出来ないのだ。
その覚悟が伝わったのか、あるいは無言の肯定になったのかグリーンは顔を伏せて首を横に振った。
「……残念だ」
ウインディが掻き消える。神速の域に達した紅蓮の獣は目視では捉えられない。命の珠で攻撃力が増強され、今や火炎の砲弾と化したウインディを止める事はトレーナーであるグリーンでさえも出来ないのだろう。カバルドンへと攻撃のプレッシャーが集中する。どこから攻撃が来るのかまるで読めない。だが後ずさる事はなかった。カバルドンは大口を開いている。そこから凄まじい勢いの咆哮が噴射された。まさしく突風と見紛うほどの咆哮の勢いに火炎弾であるウインディが一瞬だけ姿を見せる。
「ウインディの姿を晒した……。だが、カバルドンへの攻撃は確定事項だ、食らえ!」
グリーンは今の咆哮がウインディの姿を見せるためだけのものだと思い込んでいるのだろう。しかし、既に射程圏内に入った。
直後、ウインディの紅蓮の身体へと黒い尖った石が食い込んだ。唐突に空間に現れた鋭い岩石にグリーンが戸惑いの声を上げる。
「何だ、いつから、その岩石が浮遊していた?」
全く見えなかったのだろう。ウインディの射線上には、複数の黒い岩石が刃のように乱立している。
「今の咆哮は吹き飛ばし。ウインディの姿を可視化出来るようにしたのは、ただそれだけの理由ではありません。全ては、この攻撃を確実に当てるため、ウインディの射線を知る必要があったのです」
グリーンはウインディの「フレアドライブ」の突撃先に黒い岩石が並んでいる事に気づいたのだろう。忌々しげに口走った。
「ステルスロック。見えない岩石を当てるために、ウインディの攻撃射程を絞った……」
「ステルスロック」と呼ばれた岩石群は漂っているだけに過ぎない。だが、その射程に踏み込んだからには確実に相手の体力を奪う攻撃だった。ウインディは自らステルスロックの群れに突っ込んだ。そのための「ふきとばし」という咆哮。神速の域に達したウインディを炙り出すための。
「神速とはいえ、向かってくる方向をそう何度も変えられるはずがありません。常に進行方向は一定。ウインディに一度命令を下せば、その進行方向を突如として変える事など出来ない。見えなければ、ステルスロックを砂嵐から生成しても無駄に終わっていた。でも、進行方向が見えるのならばステルスロックの配置を揃えてやればいい」
自分の発言にグリーンは思わずウインディに指示を飛ばそうとしたようだ。しかし、それよりも前にウインディは炎を纏ったまま「ステルスロック」の中へと突っ込んだ。黒い岩石が表皮に食い込み、炎が血で彩られる。ウインディ自身も制動をかけようと試みるが、神速が仇となった。急に止まれるはずもなく、ウインディの身体へと「ステルスロック」が次々に突き刺さる。その痛々しい光景に主であるグリーンでさえ目を背けた。「ステルスロック」は表皮を破り、眼に突き刺さり、一瞬にして全身に裂傷を負わせた。グリーンは何も言わない。敗北を悟り切ったかのように黙していた。
ウインディがカバルドンに至る前に転がり、弱々しい鳴き声を上げている。カバルドンへと最後の命令を下した。
「地震」
カバルドンを中心にして茶色の波紋が浮かび上がり、地面が浮き沈みしてウインディを叩きのめしていく。グリーンはモンスターボールを突き出した。
「戻れ!」
ウインディはその命を散らす前にモンスターボールに戻る事が出来た。だが自分の任務はウインディを戦闘不能にする事だけではない。グリーンはモンスターボールを眺めている。すっと指差し、カバルドンへと命じた。
「ステルスロックをあなたへと叩き込む。もうポケモンを使えないあなたならば簡単に殺せるでしょう」
「何のためだ?」
グリーンは僅かに身を沈めて問いかける。どうして自分が死なねばならないのか。それを知る権利は誰にでもあるだろう。理不尽に対して立ち向かう権利も。だが、今の自分には情に流されてはいけなかった。淡々と命を奪う殺人マシーンに成り切らなくては、この大事を成す事が出来ない。
「震えているぜ?」
グリーンの指摘にハッとした。指先が震えている。収まれ、ともう一方の手で掴んだ瞬間、グリーンが動いた。
玉座に埋め込まれていた宝石を剥ぎ取り、自分へと放り投げる。その宝石が仮面に命中し、よろめいた途端仮面が地面に落ちた。
グリーンはその姿を認める。慌てて仮面を拾い上げようとしたが、その前にグリーンの呟いた声に硬直した。
ぐっと拳を握り締め、自分はカバルドンに命じる。黒い岩石の群れが一斉にグリーンへと殺到した。グリーンの身体が散り散りに引き裂かれる。彼がうつ伏せに倒れ、静寂が再び玉座に降り立った。
歩み寄り、彼の死を確認する。目を瞑ると、彼の最期の言葉が耳にこびりついていた。
「綺麗じゃないか」
その声を払拭するように自分は仮面を被った。