第百十六話「パーフェクトアンサー」
デスカーンはまだ生存が確認された。ポケモンによる傷の場合、相手ポケモンから敵意が失せるか絶命しない限り傷そのものは消えない。カンザキの傷を診ようとするが、その前に廊下を忙しない足音が駆け抜ける。
「ヤバイ。側近にばれたか」
カラシナはミロカロスを伴い、窓際まで駆け寄ると窓を砕いて飛び出した。窓には水で膜がしてあり、ほとんど飛び散る音を減衰させている。ミロカロスが先に地表に降り立ち、カラシナはミロカロスの補助を受けて着地した。ポケモンリーグの中枢ともなれば人の出入りはないと思っていたが、カラシナは先ほどからこちらを見ている存在へと意識を向ける。
「何者……」
周囲は植物の緑と石英の集合体である。このような酔狂な場所にいる人間など思い浮かばない。カラシナが身構えていると物陰から出てきたのは仮面をつけた子供だった。毒気を抜かれた思いでその子供達を見やる。子供達には七つの眼の文様が刻まれた仮面をそれぞれ有していた。
「黙示録の仔羊……」
その文様の意味だけは知っている。だが、その仮面を身に纏う人々が実際に存在しているとは思っていなかった。もしかしたら組織の作り出した仮想敵かもしれないと。だが、仮面の子供達は困惑気味に尋ねてくる。
「お姉さん、怖い人?」
その言葉にカラシナは、「いいえ」と首を振った。
「怖くないわ。ただ、あなた達こそ、こんなところで何をしているの? ここは政府中枢でしょう?」
問われている意味が分からないのか、仮面の子供達は、「先生呼ぶ?」とお互いに小首を傾げている。その、先生とやらはこの場所にいる大人なのか。カラシナは、「案内してもらえる?」と訊いた。
子供達は案外あっさり頷くと、「こんなところに大人が来るのは珍しいなぁ」と呟き始めた。仮面の子供達は見た目こそ不気味だが、何かをしてくる気配はない。カラシナが珍しかったから窺っていただけだろう。カラシナはこの場所に来るのに一方通行のつもりだった。今はミロカロスの「アクアリング」で回復を待っているカンザキに後は喋らせなければ。自分は護衛に訪れただけだ。それも全てはヤナギのためなのだが、もう面は見せられないだろう。そのために名前も捨てた。今はカラシナという過去を捨てた女だ。
政府中枢と思しき庭は洞窟のように枝分かれしており、子供達は走り抜けていく。カラシナは洞窟の表面に触れた。手触りは冷たいが、どこか人工物めいている。この場所は自然に出来た洞窟なのだろうか。カラシナは訊いていた。
「ねぇ、君達。この場所っていつからあるの?」
「知らないよ。ずうっと昔からあるんだって。先生が言ってた」
「ずっと昔……」
その言葉にまさかカントー黎明からか、と浮かびかけたが、それは尚早だ、と考えを取り下げる。
「みんな、どこへ行こうとしているの?」
「先生のところだよ。先生なら、お姉さんの知りたい事を知っているかもしれないし」
どうやら絶大な信頼を集めている様子だった。仮面の子供達の後頭部を見やると、誰もが皆、灰色の髪をしている事に気づく。髪の長さはまちまちだが、老練したような灰色だ。
「君達、仮面を外す事は出来ないの?」
「人前で外しちゃ駄目なんだって、先生が」
「でもキクコはよく外していたよね。ヤナギ君の前で」
「バカ、それは言うなって約束だろ」
キクコとヤナギの名前が不意に出てカラシナは息を詰まらせた。
「キクコちゃんとヤナギ君を知っているの?」
その言葉に怪訝そうなのは向こうも同じだった。
「あれ、お姉さん、外の人なのにキクコとヤナギ君知っているんだ?」
「ああ、うん。そう、ヤナギ君の、友達みたいなもので」
そう形容するしかない。子供達の前で、自分のような歪んだ関係を持った人間の事を話すべきではないと思った。
「それなら安心だね。先生はきっと取り計らってくれると思うよ」
「でもキクコの知り合いでもあるのか。あいつ愚図だから、外の世界で元気にしているかなぁ」
「とっくにへばっているんじゃない?」
「でも先生はこの間キクコに会いに行ったよね? 先生のグライオン、傷を受けていたけれど」
「キクコが反撃? ないない。それはないよ」
子供達同士で囁き合う光景にカラシナは目の前に幻想が現れているかのような不可思議な感触を抱いた。
「ねぇ、キクコちゃんって何なの?」
結局、ヤナギからは一度も聞き出せなかった質問だ。それを切り出すのが怖かったのもある。仮面の子供達は、「私達であって、私達じゃない、って言えばいいのかな」とめいめいに口にする。
「ボクであって、ボクでない存在」
「それじゃ言い回しが同じだよ。伝わらない」
「やっぱり先生に聞かないと。勝手にキクコの事を喋ったら怒られるよ」
子供達の言葉は要領を得ない。自分であって自分ではない、という総括になるがそれでは答えになっていない。
「どういう意味なのか、説明してくれるかな」
「だから先生に聞くのが一番なんだって。お姉さんに言おうとしても私達じゃ似たような言い回しになっちゃう」
「ボク、先に行くねー」
「あっ、待ってよ」と駆け出そうとした子供が躓いて転ぶ。カラシナは駆け寄って子供を抱き上げた。
「大丈夫?」
そう口にしようとしたカラシナは硬直した。その子供の顔が視界に入った瞬間、息を呑む。
「あなた、キクコちゃんと、同じ顔……」
目の前の少女はキクコと瓜二つの顔だった。まさか姉妹か、と考えていると、「駄目だよ!」と少年らしき子供が仮面を被らせた。
「人前で仮面を取ったら先生が怒る」
「あ、ゴメン」とカラシナが手を離す。どういう事なのか、問い質そうとする前に、「何をやっているのです」と朗々とした声が響き渡る。視線を向けると、石英で出来た階段の上に仮面をつけた女が立っていた。
「あっ、先生」と子供達が駆け寄っていく。先ほど仮面を外してしまった少女はばつが悪そうに顔を伏せていた。先生はいきなり、その少女の頬を張る。突然の行動にカラシナが困惑する。
「外していいと、誰が言いましたか」
「ご、ごめんなさい。先生」
少女の言葉にカラシナは、「ちょ、ちょっと待ってください!」と声を張り上げていた。
「あたしが偶然見てしまったのが悪いんです。その子を叱ってやらないで」
先生はカラシナへと顔を振り向け、仮面の表面をなぞる。
「この仮面はいわば我らにとって制約。個人としての意思ではなくネメシスという総意としての動きを約束するための」
カラシナは足を止め、「何を、言っているんです?」と尋ねていた。
「さっきから変だわ。同じような髪の毛の色をした子供達に、仮面を被らせて。あなたは何を、何者なんです?」
先生はその問いにしばらく呼吸を置いてから、「先ほどこの子の顔を見た時」と声に出した。
「キクコと同じ顔だ、と思いましたか?」
胸中を言い当てられ、カラシナは口ごもる。先生は顎をしゃくって、「あなた達、顔を見せなさい」と命じた。
「いいんですか?」
子供が問いかける。
「私が見せていいと言えばいいのです。それ以外は考えないで結構」
断固とした先生の声に子供達は仮面に手をかけて外し始めた。カラシナは再三、息を呑む事になる。
子供達は誰も彼も同じ顔つきだったからだ。赤い瞳に、灰色の髪。キクコの生き写しを見せられている気分だった。
「これが、ある一面での真実」
先生はカラシナへと歩み寄り、そう呟く。カラシナはこみ上げてくる吐き気を抑えながら、「何を、やってこんな事が……」と呻いた。
「向こう側からもたらされた技術の一つであり、私達が未来永劫、このカントーという土地を見守るために必要な措置です」
「何を言って……!」
カラシナが声を振りかけようとして絶句した。先生はいつの間にか仮面を外している。
その向こう側にあったのは、子供達と、――キクコと同じ顔だった。
ただ一つ、眼だけが黒曜石のような黒である。それ以外はキクコや子供達を大人にした面持ちだった。
「何なの……」
カラシナが後ずさる。先生がその手を掴み、「もう逃げ出す事は出来ない」と告げた。
「あなたにお教えしましょう。このポケモンリーグで、何をするつもりなのか。キクコとは何なのか。その答えを」