第百十五話「カラシナという名前」
「何奴?」
この部屋に入ってくる人間などいないはずだ。ヤグルマはそう感じたが視界に飛び込んできたのは水の輪だった。それがカンザキをすくい、デスカーンの手から掠め取る。ヤグルマは舌打ちを漏らし、「何のつもりです」と怒りに声を震わせた。
「シロナ・カンナギ」
名を呼ぶと、暗がりの部屋の中で黒衣を纏ったシロナが片方の眉を上げる。
「随分と、嫌われたものね」
「あなたは死んだはずだ」
ヤマブキシティでヤナギの闘争心を呼び覚ますための道具として、死を偽装しろ。それが上から与えられたシロナの役割のはずだった。ヤグルマはそう聞いているし、シロナ自身、それを了承したはずである。だが、ミロカロスを繰り出しているシロナには敵意が感じられた。
「そうね。死んだあたしにはもうシロナという名前は相応しくないわ。カラシナ、と名乗らせていただきましょう」
「仮面の人々に寝返ったのか?」
近い組織ではそれしか思い浮かばなかった。シロナ――カラシナはほとほと呆れたでも言うように首を振る。
「やれやれね。ヤグルマ、あなたはそれだから三下なのよ。発想が貧困とでも言うのかしら? いくら仮面の人々といえども、元ヘキサの構成員を信じ込むほどやわではない」
「ではどこの組織だ? あなたに出資する組織ならばいくらでもいそうだが」
「そんな事を、悠長に聞いている場合なのかしら?」
カラシナはミロカロスの放った水の輪の中へとカンザキを包み込んでいる。あれは「アクアリング」だ。その中に入っている間は回復が施される。
「カンザキ執行官を生かして、どうする気なのか? まさかそちらのコネを使おうとでも?」
「どうとでも解釈するがいいわ。あたしは、今あなたへと明確に敵意を向けている」
ミロカロスが黒曜石のような眼で自分とデスカーンを睨み据える。ここで自分達の情報網を断ち切るつもりなのか、あるいは殺すつもりなのか。どちらにせよ、やりようはいくらでもあるだろう。
「解せないな。カンザキ執行官は役に立たない。それに比してあなたは、一応はヘキサ内部での発言力はありそうなものだが、何故、組織のために命を散らさなかった?」
「答える義務、あるのかしら?」
どうやらシロナはあくまでも徹底抗戦に打って出るつもりらしい。ヤグルマは、「だが」と指を鳴らす。
「既にデスカーンの射程だ!」
デスカーンは影の手を這わせていた。それにミロカロスが気づいて跳び上がる前に影の手がミロカロスに触れようとする。ミイラの虜にすれば勝ちだ、と確信したヤグルマへと信じられない光景が飛び込んでくる。ミロカロスは水の輪を連鎖的に放出し、影の手を遮ったのだ。まさか、とヤグルマは歯噛みした。
「喋りながら攻撃する事は予期していた……」
「お互い、相手を嘗めていたみたいね。こっちだって伊達に戦ってきたわけじゃないのよ」
ヤグルマは口元に笑みを刻みながら、「そのようだ」と改めてデスカーンに命じた。
「どうやら本気でお相手する必要がある様子。デスカーン、シャドーボール」
デスカーンが影の球体を練り出す。カラシナはミロカロスへと命じた。
「こっちは冷凍ビーム!」
この至近距離で、とヤグルマは歯噛みする。デスカーンの放った「シャドーボール」が完全な球形と成り、ミロカロスに向けて放たれたがミロカロスが即座に放った冷凍ビームがシャドーボールを弾いた。影の球体が空間を跳ねる中、間髪入れず二度目の攻撃に移る。
「もう一度シャドーボール」
「冷凍ビームを直撃させれば!」
ミロカロスの攻撃は正確無比に生成していたシャドーボールを手から弾き落とした。シャドーボール二つが空間を舞う中、冷却された空気が元の温度を取り戻す前にミロカロスは肉迫していた。
「ドラゴンテール!」
美しい鱗からは想像も出来ないほどの強力な打突。空気を引き裂く攻撃にデスカーンは棺を展開させた。赤い禍々しい眼と乱杭歯が居並ぶ顎を突き出す。
「噛んで止めろ!」
「させない!」とカラシナが指示したのはデスカーンの足場だった。「ドラゴンテール」は直接攻撃のためにあるのではない。
「デスカーンの足場崩しのためか」
「デスカーンは見たところ、耐久型。ちまちました攻撃で落とせるとは思えない。だから、足元を狙う」
カラシナの目論見通り、足場を崩されたデスカーンは無様に転がった。しかもミロカロスは心得ているのかデスカーンには接触しない。ヤグルマは舌打ちする。少しでも触れればミイラの虜になるものを。
「転がったわね。追い討ちをかけるわ。冷凍ビーム」
ミロカロスがデスカーンの頭上で水色のエネルギー体を凝縮させる。これで決まると思い込んでいたのだろう。実際、通常のバトルならばこれで決まってもおかしくはなかった。
だが、ヤグルマは相手が目論見通りに動いてくれた事に感謝する。
「シャドーボール。割れろ」
指を鳴らすと空間を漂っていたシャドーボールがシャボン玉のように割れ、中から飛び出してきた青白い炎がミロカロスとカラシナの腕にかかった。ミロカロスは攻撃を中断する。カラシナはというと、腕を押さえて蹲っていた。
「これは……」
接触部分から煙が棚引いている。ヤグルマは、「気づかなかったか?」と余裕の声を出す。
「シャドーボールの中に仕込んでおいた。どうして弾かれたシャドーボールをそのまま使用し続けたのか。それは内包していた技への伏線だった」
「これは、鬼火ね」
即座に見抜いたカラシナに、さすがと賛美を送る。
「問答無用で火傷状態にする。これには参るだろう?」
ダメージの蓄積と攻撃力が削がれる火傷状態。耐久型のデスカーンならば相手より先に沈む確率は低い。じわじわとなぶり殺しにしてくれる、とヤグルマが考えた瞬間、「なんてね」とカラシナが口元に笑みを浮かべた。
「ミロカロス。痛がっている演技はお終いよ」
その声にミロカロスはあろう事か表皮を脱ぎ捨てた。虹色の美しい鱗に新たな命が点火し、ミロカロスが咆哮する。
「何を……」
「ミロカロスの特性。それは不思議な鱗。状態異常の時、防御が上がる。状態異常にした事が仇となったわね。こっちもそう簡単には沈まない」
まさか、こちらの攻撃を読んでいたというのか。ヤグルマは、「腐っても優勝候補か」と呻く。
「あなたを無力化し、カンザキ執行官をミイラの呪縛から救い出す。ミロカロス!」
ミロカロスが全身から水を放つ。「ハイドロポンプ」か、とデスカーンに防御の姿勢を取らせるよう命じた。だが、何かがおかしい。水からは蒸気が浮かび上がっていた。
「これは……!」
「熱湯、よ。火傷状態、お返しするわ」
デスカーンの金色の表皮の一部が瞬く間に赤らんでいく。このままではどちらかが倒れるまで戦闘を続けるしかない。ヤグルマは、「ならば!」とデスカーンへと接近を命じた。
「刺し違えてでも、ミイラへと放り込むまで!」
カラシナは火傷になった腕を押さえながら、「その心意気は立派だけれど」と口にする。
「既に遅いのよ」
水の輪が拡散する。触れた途端、デスカーンの身体に広がったのは凍結だった。ヤグルマは瞠目する。
「水を触媒にして、冷凍ビームを近接で放っただと」
「彼の戦略を何度か見ていると、ね。同じ事が自分のポケモンでも出来るんじゃないかって思ったのよ。まぁ、結構大変だったけれど」
回復を約束するはずの水の輪は今や一撃がデスカーンを蝕む氷の連鎖と化していた。デスカーンが接触を試みようとすればするほど、凍結範囲は広がっていく。カラシナは攻撃の名前を言い放つ。
「瞬間冷却、レベル1、ってところかしら」
デスカーンの身体が凍り付き、ミロカロスの直前で止まる。ミロカロスとカラシナはゆっくりとヤグルマへと歩み寄った。
「さて、ミイラ状態を解除してもらおうかしら」
「も、もう解除している。だが、あなたは何のためにヘキサを裏切った? ハンサム主任が黙っていないぞ」
「そのハンサムへと取り次ごうとしても無駄よ」
カラシナは顎をしゃくるとミロカロスの熱湯をヤグルマの左手首へと浴びせた。激痛と共にポケギアに通信障害が発生する。ヤグルマの左手はほとんど融解していた。骨ばかりになった手を眺めヤグルマが絶叫する。
「よく行き届いた防音設備ね。これだけドンパチしても、外から人が駆けつけないなんて」
自分が秘密裏にカンザキを始末しようとした事が裏目に出た。ヤグルマは困惑の眼をカラシナに向ける。
「何のためなんだ。ヤナギのためか? だが、あの少年の身柄は組織が預かっている。組織がその気になればいつだって潰せる人員だ。だというのに、そのために動く意味が――」
その先の言葉をカラシナは顎をしゃくって黙らせた。ミロカロスが瞬間冷却を発し、ヤグルマの命を奪い取ろうとする。まだ少しだけ意識はあるのかもしれない。凍結したままうわ言を呟いている。ヤグルマにはもう敵意はなかった。全身に凍結が回ったまま、彼はもう戦う事を放棄した。