第百十三話「伝説の力」
フリーザーは既に守るべき主を見定めているようだ。
鋭さの中にもどこか女性のような柔らかさを含んだ眼がイブキを見下ろす。三股に分かれた鶏冠から冷気が発せられ、フリーザーが両翼を開く。その瞬間、霰が降り始めた。この洞窟の中で、突然に吹雪に近い状態が巻き起こされる。ゲンジはボーマンダへと指示を飛ばす。
「火炎放射だ。焼き切れ!」
ボーマンダが酸素を取り込んで火炎を発しようとするが、フリーザーは羽根を振り払うと、吸収しようとした空気が凍てついてボーマンダの口腔内を凍結させた。ボーマンダは口から血を吐いてフリーザーを睨む。
「空気、殊にフィールド上の冷気を操る事にかけてはフリーザーの右に出るもんはおらん。火炎放射以外で向かうしかなさそうやの」
マサキの挑発にゲンジは、「ならば!」と手を振り払った。
「逆鱗で押し通る!」
ボーマンダが全身から赤い燐光を放ちフリーザーとイブキを見据える。フリーザーも攻撃に入ろうとしている。その時だった。
岩が砕ける音が木霊する。地面が揺れ、轟と空間が震えた。
「な、何や?」
マサキが右往左往する。イブキにも何が起こっているのか分からない。ボーマンダが攻撃をやめ、ゲンジも周囲を見渡した。
「何が起こって……」
その言葉尻を裂いたのは、岩盤が砕けて水が噴き出す音だった。瞬く間に浸水し、ロケット団員達はめいめいに声を上げる。
「し、浸水だ!」、「ライフジャケット!」と指示が飛ぶが、ここは最深部だ。この場でライフジャケットを着用しても天井まで水が浸かれば終わりである。
「どうして今になって……」
その脳裏に一人の少年の姿が思い出された。あの少年は、どこへ行った?
「サカキは?」
その問いに誰も答えられない。恐らく、手持ちのニドクインに「あなをほる」でも覚えさせてこの場から脱出したのだろう。となれば、この状況、サカキが作り出したと考えるのが自然だった。ゲンジが、「馬鹿な!」と声を上げる。
「馬鹿だろうと何だろうと、もう決めつけてかかるしかないわ。ロケット団はあなた達を見捨てたのよ」
ロケット団員達が揃って目を戦慄かせ、「嫌だ!」と叫び出す団員もいた。
「我々は精鋭部隊でしょう? キシベ様!」
思っていたよりも速い浸水にロケット団員達はパニック状態に陥る。ゲンジはボーマンダへと命じていた。
「逆鱗で縦穴でも掘るしか……!」
「やめたほうがいいわ。ここはふたご島深部、どこから浸水してもおかしくはないし、無用な衝撃を加えると洞窟そのものが瓦解しかねない」
「ではどうしろと言うのだ! 命を見捨てろと言うのか!」
ゲンジの言葉にイブキは確証を得た。
「……あなた、キシベやサカキのやり方が気に入っていないのね」
ゲンジは顔を背ける。何よりの肯定だった。イブキは一つ息をつき、「ここから全員が助かる方法がある」と告げる。
「何だと?」
瞠目するゲンジへと、「団員一人すら見捨てないわ」とイブキは口にした。
「本当ですか?」、「だが、裏切り者だぞ」と団員達の反応はまちまちだったが、イブキは嘘偽りなく、「ここで生き残るしか」と口を開いた。
「私達とて命が危ういんだからね」
先生のテレポートは一方通行だ。フリーザーを捕獲出来なければどちらにせよ見捨てるつもりなのだろう。イブキは息を詰めて、「フリーザー」と名を呼んだ。
「私を主と認めるのならば、頼みがあるわ」
フリーザーは翼を広げる。飛翔したフリーザーが眼下に浸水する洞窟内部を捉えた。
「何をする気や? 姐さん」
崖の上でマサキが声を上げる。イブキは、「水辺から離れたほうがいいわよ」と告げてから腕を掲げた。その動きから何が繰り出されるのかを察知したのか、ゲンジが声を張り上げる。
「精鋭部隊は俺のボーマンダに捕まれ! 水から離れる!」
ロケット団員達がボーマンダに群がる。精鋭部隊のお陰で十人前後だ。ボーマンダの背中に何とか乗る事が出来た。ゲンジが頷き、イブキは声を上げた。
「水を凍結させる! フリーザー、その力をもって洞窟内部の浸水を止めて!」
フリーザーが虹色に反射する翼から光を周囲へと拡散させる。
一瞬のうちの出来事だった。マサキが目を眩ませる。イブキもあまりの光の奔流に瞼の上に手をやった。フリーザーが放ったのはたった一撃だ。それだけで洞窟を満たそうとしていた水が根こそぎ凍り付いていた。ボーマンダの背で団員の一人が声に出す。
「すげぇ……、これが伝説の力……」
イブキは自分の周りだけ氷が張っていない事に気づく。フリーザーが水をわざと凍結させなかったのだ。足元だけ居残った水を眺めてから、イブキは氷の地面へと歩み出した。ゲンジがボーマンダをゆっくりと降下させる。ロケット団員達が背中から降りて踵を揃えた。
「感謝はする。だが、我々の任務はフリーザーの捕獲だ」
「見切られてまで言う事を聞くって言うの?」
イブキの言葉にゲンジは返さない。フリーザーがゲンジとイブキの間に降り立つ。もしゲンジが攻撃を命じればいつでも反射に転じられる睨み合いだったが、ゲンジがボーマンダをボールに戻した事から、その可能性は消え去った。
「無用な戦いは避けたい。その気持ちは同じだと思うが」
ゲンジはこの状況を理解しているようだ。イブキは先生より預かったボールをフリーザーへと向けた。何の抵抗もなく、フリーザーがボールに確保される。これで目的は達成した。
「それで、どうするの? ロケット団にそれでも属する?」
精鋭部隊のうち、一人のロケット団が、「はい!」と声を張り上げる。
「我らロケット団精鋭部隊とて、数多の犠牲の上に成り立っております。その犠牲を自覚しているからこそ、今次作戦に賭けているのです。フリーザーは捕獲出来ませんでしたが、ロケット団への忠誠に変わりはありません」
歪でありながらも自身の正義を曲げようとしない姿勢は見習うべきだった。イブキは他のロケット団員もその心持ちである事を察し、最後にゲンジへと目を向ける。
ゲンジは帽子の鍔を斜めに被り、「俺は裏切られたからと言って裏切り返すのは愚かだと考える」と述べた。
「だから、今回、一つ借りが出来たと考える。それを返すために仁義は通させてもらうが、ロケット団という組織を裏切るつもりはない」
イブキは内心、この状況によって離反者が出るかもしれないと言う事を期待していたが、ロケット団の結束は思っていたよりも硬かった。ため息を一つ漏らし、「そうね」と今しがた手に入った力を確認する。
「ハクリューがほぼ戦闘不能に追い込まれた以上、一時的にフリーザーを使わせてもらうしかなさそうね。私はフリーザーで脱出するわ。マサキ」
「あいよ、姐さん」とマサキはノート端末を鞄に仕舞い、崖をロープで降りてくる。
「ゲンジの兄さん。ワイらはもう、ポケモンリーグという盤上の真実に辿り着こうとしとるんや。邪魔はせんといてな」
「そちらこそ、ロケット団の邪魔はしないでもらおうか」
ゲンジはロケット団内部から真実に辿り着こうとしているのだろう。それも立派な意思の一つ。
「いけ、フリーザー」
フリーザーを繰り出し、イブキは吹き抜けの洞窟を見上げる。
「私達は行くわ。真実を手にするために」
「我々は撤退しよう。フリーザーは未確認の組織に奪われた、という名目でな」
それがゲンジなりのけじめなのだろう。マサキと共にフリーザーの背中に乗ってイブキは口にする。
「一つ、言っておくわ。サカキ、という人間は普通の人間じゃない。ただの実力者を擁立するためにロケット団は存在しているわけではない、という事を」
これも過ぎた真似かもしれないがゲンジには知る権利があるだろう。彼は僅かに顔を上げ、「全ての糸はキシベ、か」と呟いた。
「私達は組織の外側から埋めていく。あなたが内側から戦うというのならば」
ゲンジは言葉を返さなかった。イブキはフリーザーと共にふたご島を飛び立つ。背中に乗っているマサキがふと呟いた。
「姐さん、ゲンジ兄さんと繋がりあったんですか?」
「なかったわ。話した事もまともにない」
「その割には親しそうだったですけれど」
マサキの勘繰りにイブキは睨みを利かせる。「冗談ですやん」とマサキが肩を竦める。
正直なところ、同じドラゴンタイプ使いとして共感する部分はあったのかもしれない。それがどのような感情に属するのかは別として。
「竜の使い手に、悪い人間はいないわ」
「その法則が正しけりゃいいんですがねぇ」
イブキは海上を視野に入れる。水平線を染め上げる黎明の光が差し込んできた。
「作戦は、失敗か」
キシベはふたご島に停泊している潜水艦の傍で呟く。ふたご島の洞窟から真っ先に帰ってきたサカキは、「これも必要な事象とやらか?」と尋ねた。
「まぁね。見たまえ」
キシベが頭上を仰ぐと虹色の光を発する鳥ポケモンが翼を広げて飛び去っていく。サカキは、「フリーザーをみすみすくれてやったのは」と口に出した。
「何か狙いでもあるのか?」
「いや、本当ならば君達に確保してもらうのが一番だったんだが、収まるべきところに収まったのならばそれでいい。問題なのは今回、ヘキサが動かなかった事だ」
既にサンダーを捕獲している組織が今回、フリーザー捕獲に関しては動きを見せなかった。その事のほうが懸念事項としては強いのだろう。
「何か、事を企てていると見るべきか」
「あるいはそれどころではなかったか。どちらにせよ、今回、フリーザーを捕まえたのが仮面の軍勢である事はある意味では幸運だ。ヘキサであるのならば、我らと対立構造になりかねない」
サカキはキシベの言い分に、「まるで仮面の軍勢は蚊帳の外のような言い草だ」と返す。キシベは口元に笑みを浮かべた。
「仮面の軍勢のやり方は保守的だ。革新的な事を仕出かそうという動きではない。イブキ殿がいたと言っていたが、彼女達としても真実を知りたいだけなのだろう。対立構図にはならないよ」
サカキは改めてキシベという男がどこを見ているのかが気になった。この男はどこまで先を読んでいるのだろう。
「ヘキサがもし、我々に対抗してくるとして、やはり矢面に出るのはサンダーか」
「そうとも限らない。ヘキサの目的はオーキド・ユキナリと君の排除。サンダーを使うまでもないかもしれない」
「俺はそう簡単には負けないが」
自信をちらつかせたサカキに、「それはそうだろう」とキシベは応じる。
「王になる素質を持っているのだからな。相手が伝説だろうが、君は大丈夫だ。問題なのはオーキド・ユキナリだよ」
「なぁ、キシベ。お前は余程オーキド・ユキナリを買っていると見える。だが、俺からしてみればそれほどのトレーナーとも思えない」
「まだ一回も会っていないのに分かるのかね?」
「お前こそ、一度しか会っていないのだろう?」
サカキの言葉にキシベは口元を綻ばせる。
「一度の邂逅が運命を決定付ける。もう彼の中で私の存在は大きくなっているだろう。ロケット団が未だに存続している事も想定外のはずだ。彼は、間違いなく私を必要とするよ。それは君もまた同じだろう」
「ロケット団の存続。俺からしてみれば、赤の他人の存在などどうでもいいのだが」
それは自分の行動を見れば明らかだろうに。キシベは精鋭部隊を生き埋めにしようとした事に関して何も言わなかった。ただ、「必要な事象は間違いなく起こっている」と告げる。
「あとはピースが揃うのを待つだけだ。事象を確実に誘発しうるピースが」
キシベの言葉にサカキは無言を返した。ゲンジの率いる精鋭部隊が穴抜けの紐を使って今しがた洞窟から上がってくる。ゲンジの眼は猛禽の鋭さを伴っていた。自分を、もし許されるのならば殺す事も辞さない。そのような怒りがありありと伝わってくる。拳を握り締め歩み寄ったゲンジにサカキは逃げようともしなかった。振り上げられた拳を遮ったのはキシベだ。鈍い音が響き、キシベがサカキの前に立っていた。
「どうしてだ、キシベ。そいつは、我々を見殺しにしようとしたんだぞ!」
ゲンジの怒りの声音にキシベは淡々と返す。
「まぁ、落ち着いて。彼にその気はない。ふたご島は元々地盤が緩かった。そのような場所に君達を向かわせた私の落ち度だ」
何とキシベはサカキの罪を被ってまで守ろうとしたのだ。サカキもさすがにその行動には瞠目した。
「だが我々の命が危うかった」
「私が謝罪しよう。私の頭でいいのならば」
キシベが頭を下げる。ゲンジはしかし、はらわたの煮えくり返る思いで自分を睨みつけた。舌打ちを漏らし、「この事に関して、決着はいずれつける」と言い置く。
サカキはキシベの顔を窺った。キシベは、「何ともない」と唇の端を拭う。どうしてそこまでするのか、それだけが気になった。
「これも必要な事象だからね」
キシベはそれ以上答えなかった。