第百十話「男の背中」
こういう形を取ったのは、ハナダシティの話の決着をつけるためだろうか。
あるいは自分の気持ちの? 問い返してナツキはらしくない問答だと考えた。アデクがせっせと二人乗り自転車を漕いでいる。自分は漕ぐ必要があまりなかった。アデクが力強くリードしてくれるからだ。これまで、男友達に力強く先導してもらった事などなかったな、とナツキは考える。朝の染まっていない思考がそうさせるのか、あるいはアデクと共にいる事がそうさせるのか、どこか清々しい気持ちを胸にナツキはアデクの背中を見つめた。
「見てみぃ」とアデクが顎をしゃくると、その先には海面が浮かんでいる。ナツキは思わず感嘆の吐息を漏らす。朝日に照らされた海上は宝石を散りばめたかのように美しかった。
「イッシュ地方も海に囲まれているがこういう整備はされとらん。景色は滅多に見れんが他国の海沿いも綺麗なもんじゃな」
他国。その言葉が突き立った。そうだ、アデクは他地方の人間なのだ。そう思うと急に距離を感じた。アデクは、この戦いが終われば故郷に帰ってしまうのだろうか。そうなると二度と会えないのではないか。
その思いに胸が締め付けられる。アデクの事など、何とも思っていないはずなのに、と考えれば考えるほどに滲み出すこの感情は何だ? 止め処ない衝動を、誰かに叱って欲しかった。
「何を見とる?」
アデクの言葉が額面通りではない事を理解していながらもナツキは、「景色」と素っ気なく答える。アデクは快活に笑いながら、「可愛げがないのう!」と大声で言った。ナツキは、「でかい声出さないでくださいよ!」と負けない大声で返す。
「そっちこそ、でかい声じゃ。こうやって二人、景色を見る事になるとは思わなんだ」
「……怪我、大丈夫なんですか?」
アデクとはあの後ほとんど顔を合わせなかったため怪我の具合を聞いていない。
「自転車漕げるくらいには回復しとる」とアデクは笑った。ナツキは頬を膨らませ、「何が可笑しいんです?」と訊いた。
「いや、こうやって自転車に乗って、ガラにもなくときめいている自分がのう」
臆面もなくそのような事を言ってのける。それがアデクのずるいところだった。ナツキはアデクの背中を盗み見る。盛り上がった肩の筋肉に、大きな背中はユキナリとはまるで違う。無意識中にユキナリと比べている自分を発見し、ナツキは頬を紅潮させた。
「にしても自転車っていうのは面白い! ずっと乗っていたい気分じゃな」
アデクはハンドルを無駄に動かしてみせる。すると後方が揺れナツキは振り回される心地を味わった。
「おお、すまんすまん」
配慮の足りなさにナツキは顔を背ける。
「そう怒るなよ。全く、年中怒っとるな、お前さんは」
「……ユキナリと同じ事、言わないでください」
「ああ、言うてしまっていたか?」とアデクはおどけた。ナツキはぷっと吹き出す。二人分の笑い声が相乗するサイクリングロードでアデクは出し抜けに口を開いた。
「お前さんと二人で乗りたかっただけじゃない。ちょっと話しておきたいことがあった」
改まったアデクの声にナツキは身を引き締めた。「何でしょう?」と尋ねる。
「ユキナリの事じゃが、どう思っとる?」
「どうって……」
幼馴染以外の何者でもない、と今までならば答えられたかもしれない。だがシオンタウンを経て、ヤマブキシティで生存を確かめた時、自分の胸にこみ上げてきたのはそれ以上の感情ではなかったか。生きていてくれてよかった。それだけがあったのではないか。
「答えられん、か……」
沈黙の意味を察したのかアデクが呟いた。ナツキは訂正しようとは思わなかった。アデクは全てを了承したように声にする。
「分かっていても、オレはお前さんが好きな事に変わりはない」
アデクの再三の告白にナツキの心は揺れていた。どう返せば正解なのか分からない。戦いならば勝てばいい。言い合いならば負けなければいいだけの話。だが、恋愛に関してはどうすればいいのか誰も教えてくれなかった。
「左折するとサイクリングロードを抜けてセキチクに入る」
「アデクさんも、一緒に?」
「ああ。もう偽る必要もないからのう。ユキナリと真正面からぶつかる」
その言葉にナツキは二人が喧嘩別れのような形になってしまうのだけは避けたいと感じていた。自分などのために、二人が対立するのは間違えているからだ。
「……アデクさん。ユキナリの事を、嫌いにならないでください」
自分でもどういうつもりなのか分からなかったが、それだけは言っておかなければならないような気がしていた。ユキナリを憎悪する事だけはしないで欲しい。たとえどのような結果に転がっても。
アデクは出し抜けに笑った。その笑いに、「笑い事じゃありませんよ」とナツキは声を出す。
「いや、すまんな。お前さんがそれほどまでユキナリの事を考えておるとは思わんくて。……心配すなや。ユキナリとは親友。その関係はどうあろうと変わらん」
アデクの声音には安心させるものがあった
偽りも打算もない。アデクはいつだって心の奥底まで見せてくれている。
「オレは真正面からユキナリに戦いを挑む。男が背中からなんて汚い真似するかいな」
早朝の風が吹き抜ける。ナツキはポニーテールをなびかせ呟いた。
「……きっと、ですよ」
約束の声にアデクは男の背中を答えにした。