第百九話「初めての景色」
『なるほどねぇ。それは災難と言うか、何と言うか……』
博士が言葉を濁す。長い説明を終え、ナツキは疲れ果てた様子だった。
「博士。僕らはこの後、セキチクシティに向かおうと思っているんですが、ここからのアクセス方法がよく分かっていないんです」
ユキナリが口火を切ると博士は、『西方に建造中の高速道路があったはずだけれど』と言った。
「サイクリングロードの事?」
ナタネの声に二人して、「何それ?」と尋ねていた。
「自転車専用道路だよ。いや、自動二輪も可だったっけ? とにかく、セキチクまで行くのだったら、自転車を仕入れるのが一番だと思うな」
「自転車……」
ユキナリは博士へと目をやる。当然、今までの道中でそのようなものは持ち合わせていない。博士も首を横に振った。
『高額で私でも手が出ないよ。カントーの純正品はね。折り畳みが可能な奴だろう? よくシーエムでやっている。購入価格が無茶苦茶だ。イッシュ基準だから百万円もする』
「百万円……」
途方もない金額にナツキと顔を見合わせた。庶民の手の届く代物ではない。
「別に、買う必要はないんじゃない?」
ナタネの言葉にユキナリは耳を傾ける。
「どういう意味です?」
「サイクリングロードは一応、カントーの民、ポケモンリーグ参加者全員に開かれているんだよ?」
ふふん、と鼻を鳴らして得意そうな顔をするナタネに、ユキナリとナツキ、それに博士まで怪訝そうな目を向けた。
「で、その結果がこれというわけだ」
翌日、早朝。澄んだ空気の中を鳥ポケモン達が飛び交う。視界の隅で電線に鳥ポケモンが止まった。
ユキナリ達は確かに自転車を手に入れた。だが、それは一人一台の代物ではない。
「気をつけてねー。一人がバランス崩すと、全員がバランス崩すよー」
ナタネの声が背後に聞こえる。息がかかりそうな距離、というよりもほぼ密着している距離でナタネの姿があった。
「これ、どうやって動かすんですか?」
ハンドルを握り、チェーンの巻かれたペダルを視界に入れる。チェーンは後方へと続いており、器具がそれを噛んでいる。そのまた後方へとチェーンは続き、三つの円盤器具があった。
「三人乗りなら空いているってのが、何ていうか即席の大会臭いわ……」
ナツキが呆れたような声を出す。ナツキの乗る自転車は二人乗りであり、アデクが先頭であった。
「オレが前じゃ不満か?」
「不満と言うか、何と言うか……」
ナツキは言葉を彷徨わせる。何やらナツキの様子がアデクと出会ってからおかしいような気がしたが、そういえばアデクに対してナツキは邪険に扱ってきたので引け目があるのかもしれない。
「えっと、こっちは大丈夫?」
ユキナリは後方確認をする。すぐ後ろにナタネ、その後ろにはキクコが続いている。ユキナリはキクコが一番不安の種だった。
「キクコは、自転車乗れるんだっけ?」
自分ですら高級なものにはほとんど乗らない。草むらがほとんどであるのと、段差が多い地域のために、自転車の利用頻度は少なく、眼前に広がる壮大なパノラマの景色を望む事もないカントーではあまり一般的な乗り物ではなかった。キクコはハンドルを握り、「えっと、漕げばいいんだよね?」と尋ねてくる。どうやら漕いで進むという基本は理解しているらしい。
「そう、漕げば大丈夫」
自分が牽引しているので、非力な自分に女性二人分を引っ張れるかが不安だったが。ユキナリの懸念に、「大丈夫だよ」とナタネが囁きかけた。
「あたしも引っ張るし、それにサイクリングロードは下り坂。気にするのはブレーキぐらいで大丈夫さ」
下り坂の仮設サイクリングロードは三十度ほどの高低差がある。急勾配と言えなくもなかったが、シンオウでは珍しい地形ではないらしい。ナタネは、「大げさだなぁ」と漏らす。
「テンガン山みたいな地形を毎日見ていれば、この程度、冒険の内にも入らないよ」
ナタネは平気そうだったが自分がそうではなかった。ユキナリは歯の根が合わなくなっているのを感じ取る。
「あの、僕、こういう高低差のあるものがあまり得意じゃなくって……」
「何だって? ま、気にする事はない。さぁ、走り出そー」
ナタネがペダルを踏み込むと自動的に他のペダルも連鎖的に動き、ユキナリは突然に前進した自転車につんのめるような感触を味わった。胃の腑を押し上げるような感覚に悲鳴を上げそうになるが、女性二人が後ろに乗っている手前、何とか踏み止まった。
「ユキナリ君、上手いじゃん。無心に漕げばすぐだよ」
ナタネの声に、「あの……」と声が震えている。
「僕、漕ぎ方分からないんですけれど……」
そう、富裕層くらいしか自転車など使用しない世の中、ユキナリは自転車の漕ぎ方すら分からなかった。ただ足をぶらつかせてペダルを踏み締めているだけだ。ナタネは、「別にいいよー」と答える。
「あたしがアシストするから。ユキナリ君はペダルを踏んでいるだけで充分だ」
「そんな事言ったって……」
ペダルは勝手に回転する。ユキナリは足すら自由ではない。勝手に動く自転車に足は恐怖を呼び覚ました。
「お、降ろして」
「今一番前の君が降りたら、あたし達立ち往生だよ。こんな坂道で自転車から降りるなんて冗談じゃない」
その言葉の通り、冗談ではないほどの坂道が続いている。舗装されているお陰で滑らかに通れたが、その滑らかさが逆に気味が悪い。今にもバランスを崩しそうだ。
「頼むから失神だけはしてくれないでよね。ブレーキは全機連動しているんだから」
振り返ると、キクコは問題なく漕いでいた。どうやら狼狽しているのはユキナリだけらしい。男だろう、と奮い立たせようとするが無駄だった。自転車ばかりはどうしようもない。
せめて悲鳴だけは上げないようにしよう、とユキナリがモグラのように口を閉ざしていると、「ほら! 見なよ!」とナタネが声を出した。ユキナリはその方向へと顔を向ける。
瞬間、飛び込んできた景色に恐怖を忘れ、息を呑んだ。
海側から望めたのは大陸の大パノラマだ。赤茶けた陸地が広がるのと対比するように、どこまでも青い海が広がっている。ユキナリは感嘆の息を漏らしていた。
「こんな景色……」
見た事がない、と呟いたユキナリへと、「そりゃ、そうだよ!」とナタネが興奮気味に語る。
「あたしだって初めてだもん!」
ナタネの言葉に身体が軽くなった気分だった。空気に、風に溶けていくように感じられる。身体が風の一部となり、どこまでも突っ切っていく。ユキナリは小さな自己を意識した。
「こんな大きな世界に、僕らはいたんだ」
感慨に耽っているとナタネの声が飛んだ。
「ユキナリ君! 前、前!」
急いた声に前を向くと「通行禁止」の看板が大写しになった。慌ててハンドルを切り、ユキナリは左折する。大地を噛み締めるブレーキの音が木霊し、自転車が間一髪で壁への激突から免れた。
「あ、危なかったぁ……」
今にも爆発しそうな動悸を感じながらユキナリは息をつく。ナタネがユキナリの肩を叩き、「さっ、あれがゲートだよ」と顎をしゃくる。
その先には街同士を区切るゲートがあった。どうやらサイクリングロードの景観をゆったりと眺めている暇はないらしい。早朝の冷たい空気を肺に取り込み、ユキナリはゆっくりと漕ぎ始めた。セキチクシティは間もなくだった。