第百八話「感情の行方」
「ちょっといいか?」
その声にびくりと肩を震わせる。戸を叩いてきたのは見知った声音の持ち主だった。だがハナダシティから先、別段顔を合わせる機会もなかった人間だ。当然、警戒をしたキクコだが、「話がある」と切り出されれば無下にも出来まい。
キクコはそっと戸を開く。アデクが手を振って、「入っていいか?」と顎をしゃくった。一応、ナツキとの共同部屋である。そうでなくとも異性の部屋に入る事に躊躇を覚えないのだろうか、と考えていると、「失礼な事だとは思う」とアデクは頭を下げた。
「女の部屋に不躾な男が入るのはな」
どうやらその辺りの心得はあるらしい。キクコは、「何でしょう?」と用件を尋ねた。
「大した手間は取らせん。ちょっとお前さんと話がしたくってな」
「はぁ」と生返事を寄越す。それもそのはず、今まで自分とアデクはまともに話などした事がないからだ。何のつもりなのだろうか、と身構えるのが普通である。
「まぁ、ちょっとした用件じゃ。入っていいかのう?」
アデクはまだ敷居すらも跨いでいなかった。一応は謙虚なのかもしれない。キクコは部屋の端にある座布団を持ってきて自分の前に置いた。
「あの、よろしければ……」
「気を遣わせて申し訳ないな」
アデクはでんと胡坐を掻く。これほど胡坐の姿勢が似合う人間も珍しい、とキクコは感じた。
「お前さんと話すんは、初めてじゃったか」
アデクの言葉にキクコは頷く。だからこそ、警戒しているのだ。アデクは顎をさすり、「大した用件じゃないんだが」と前置きする。
「お前さんだけ、ジムに挑戦しなかった事が気になってな」
どうやら用件とやらはそれらしい。キクコは半分安堵して、「その事ですか」と呟いていた
「何か理由でも?」
「いえ、ただあのジムリーダーの人が、先生と同じ事を言うものだから、私、怖くなって」
「先生、っていうんはユキナリから大体聞いたが、お前さんの恩師みたいなもんか」
恩師、というと少し違う気がする。だが、アデクの認識に照らし合わせればそうかもしれない。キクコは曖昧に頷く。
「怖いものは仕舞っちゃいなさい、って先生がずっと私に教えていて。同じ事を言われたものだから、どうしていいんだか分からなくなっちゃって」
シオンタウン郊外での先生との確執もあった。あの一件はナツキにも話していない。自分とセルジしか知っている者はいなかった。だがセルジの口が堅かったお陰で自分だけの秘密に留まっている。
「怖いものは仕舞え、か。随分と極端な教えもあったもんやのう」
アデクの口調には小ばかにした感じはない。ただ、それは異常だと告げている。
「……私と先生の間に、何か文句でもありますか?」
「いやいや、そう邪推するなよ」とアデクは手を振った。
「ただな、お前さん、少しばかり変わったな、と思って」
その言葉にキクコは驚いた。
「私が、変わった?」
「ああ。言い方は悪いが、お前さんを最初オツキミ山で見た時、人形か何かやと思わされた。自分の意思のない存在じゃと。実際、ハナダでもお前さんを見ていたが、何と言うかな、受け身の人間に見えたもんでな」
「受け身、ですか……」
間違いではない。自分は先生から与えられた使命を忠実にこなすための存在でしかなかった。アデクはそれを見抜いていたとでも言うのか。キクコは人知れず唾を飲み下す。
自分の使命がユキナリ達には絶対に知られたくなかった。そのためならば、と身構えていると、「お前さんが何を命じられていたのか、は別にどうでもいい」とアデクは首を振った。虚をつかれた思いで見つめていると、「正直な」とアデクは口を開く。
「お前さんが変わってよかったと思っている面もあるんや。このままだと、ユキナリ達にも何かしら害があるような気がしてな。まぁ、これはオレの考え過ぎだって事がお前さんを見て分かった。人形なんかじゃない、血の通った人間やってな」
快活に笑うアデクにキクコは呆然としていた。この人物は何なのだろう。自分を糾弾するかに思われたのだが、今度は自分を含めユキナリ達を案じている。その有様がキクコには奇怪に映った。
「私は、人形じゃない」
「おお、そうじゃな。悪い事を言うてしまった。深く、反省しておる」
その言葉とは裏腹の笑みを浮かべるアデクの胸中をキクコは読めなかった。アデクは頭を下げてから、「ユキナリの影響が出とるんかのう」と口にした。
「ユキナリ君の?」
「おお。あいつは人間臭い。お前さんとは真逆じゃの」
人間臭い。考えた事もなかった。ユキナリが自分と真逆の存在なのだという事も。
――ならば自分は?
突き立った問いに身を浸す前にアデクが立ち上がった。
「そろそろ、ずらかろう。あいつらが帰ってくる頃合じゃし」
歩み去ろうとする背中へとキクコは呼び止めていた。
「あの、アデクさんはユキナリ君が心配で?」
だから、こんなにも身を案じてくれるのだろうか。その問いに、「あいつも心配やが」とアデクは応じる。
「オレには好いている女がいる。そいつを守りたい」
「好いている……」
その言葉の意味するところが分からずに首を傾げていると、「お前さんもじゃろう?」と指差してきた。
「ユキナリの事を、どう思うとる?」
その問いにキクコは胸元に手をやった。先生に向かって放っていた言葉。それが自分にとってユキナリに対する答えだった。
「分からないです……。ただユキナリ君と一緒にいるとぽかぽかするんです。私の心、ユキナリ君を分かりたい。分かり合いたい」
ただ自分の感情を口にしただけだったがアデクは満足そうに、「それだけ言えれば上等じゃ」と言った。
「それってのは、つまるところ、好き、って事やからな」
アデクが手を振って部屋を後にする。キクコは、「好き……」と繰り返していた。
「私が、ユキナリ君の事を?」
今はナツキや、ナタネと一緒にいる。その事を考えると心の奥底がずきりと痛んだ。
この感情は何なのか。拾い上げる前に、その答えは霧散した。