第百六話「イントゥダーク」
「アデク様、お願いがあります」
アデクはユキナリ達と共にジムを後にしようとしたが、エリカに呼び止められた。アデクは振り返り、「もう行っちまったぞ?」と出入り口を指差す。
「ナタネは、きっといい旅をするでしょう。ユキナリ様達の人柄で分かります。あの子はわたくしの下で鳥籠に収まっているよりも、羽ばたく時を待っている。きっと、今がその時なのでしょう」
ナタネの事でないとしたら何なのか。沈痛に顔を伏せるエリカに、アデクが眉間に皺を寄せた。
「何か、ユキナリ達には言えん、何かか」
感じ取った言葉にエリカは小さく口火を切った。
「ユキナリ様の、手持ちの事です」
「手持ち、オノンドの進化系か」
「あれを、ユキナリ様はオノノクスと呼ばれていました」
「オノノクス。いい名じゃ」
アデクが素直な感想を漏らすと、「そのポケモン」とエリカは呟いた。
「恐らくはトレーナーであるユキナリ様ですら知らない、強い能力を秘めています」
「おいおい、そりゃポケモンの進化に関しては未知の部分が多いし、あのポケモンは新種だと聞く。そりゃ、分からないものを感じるのも当然という奴で――」
「違うのです」
遮って放った声には重々しいものを感じさせた。エリカはユキナリとの戦闘で何を感じたのか。アデクは聞かねばならないという事なのだろう。佇まいを正し、「話してみよ」と促す。
「ユキナリ様がオノノクスに直接命じられた攻撃は、ドラゴンクロー、ダブルチョップの二つ。ユキナリ様自身、この二つしか技がないと仰られていました」
「ああ。ハナダについた頃からその技しかないみたいな事は聞いておったが」
「わたくしはそうではないと考えます」
アデクは眉をひそめる。それはどういう意味なのか。問い質す目線にエリカは恐ろしいものを思い返すように声を震わせる。
「あれは、今にして思えば、とどめの様相を呈していました」
「とどめ、って……」
「あれをまともに受け止めれば、問答無用でモジャンボは殺されていたでしょう」
殺されて、という部分にアデクは背筋を凍らせる。それほどの攻撃が放たれたというのか。だが、モジャンボに関しては自分が割って入るまでほぼダメージはゼロであった。危機に瀕していたとは思えない。
「お前さん、でもモジャンボにさしたるダメージはなかったはずだろう」
「ええ、ダメージやそういう次元を跳び越えた、そうですね、あれは疑いようのない一撃による必殺でしょう」
「一撃必殺……」
アデクの言葉にエリカは胸の前の拳をぎゅっと握り締める。
「その言葉が正しいかと。黒い断頭台に見えました。そうでなくとも、あのオノノクスと言うポケモンには少し変わった部分が散見されます。全身から漂う黒い瘴気、あれは、闇と形容するほかありません。わたくしが思うに、ポケモンに元来備わっている闇ではない、ユキナリ様が顕現させた闇だと思われます」
ユキナリに、闇。奇妙な取り合わせに映ったが、エリカの審美眼は確かだ。現に先ほどの戦闘ではウルガモスの戦術を見切られている。
「ユキナリに、闇、か。オレからしてみればあり得ん、と思うが」
「しかし、あれはそうとしか言えないのです。真に追い詰められたユキナリ様が、ポケモンの持つ何かを引き出した。その結果が、黒い断頭台の技です」
「その技に心当たりは?」
エリカは首を横に振る。知っているのならばわざわざ自分などに相談を持ち掛けまい。
「わたくしは、アデク様、あなたにユキナリ様を見ていてあげて欲しいのです」
「監視しろ、っていう事か?」
「いえ、そうではなく。あの力が暴走する事のないように、暴走した時、抑えられるように傍にいてあげてください。あの中で、止められるのはあなただけです」
そう断言されてしまえば言葉もなかったがアデクは腕を組んで、「しかし」と抗弁を発する。
「ナツキやキクコも実力者だし、お前さんの下におったナタネとか言う奴も実力者だろう。どうして止められんと断言出来る?」
「ナツキ様やナタネでは無理でしょう。それにキクコ様ですが、あの方はユキナリ様の闇をさらに増長させてしまう。覚醒のトリガーがあるとすれば、あの方だと思われます」
「キクコが、ユキナリの闇を呼び覚ますと言うんか?」
「断言は出来かねますが、とにかく、見てあげてください。それがきっと、彼や仲間のためになります」
アデクは顎をさすっていたがエリカは嘘を言っている風ではない。誇張もないだろう。彼女は戦いで感じたありのままを喋っているのだ。アデクは首肯する。
「分かった。もし、ユキナリがあらん方向へと行こうとしたら、オレが止める。約束しよう」
その言葉にエリカは不安そうな面持ちを少しだけ晴らしてホッと息をついた。
「ああ、よかった」
「だが二の次になるかもしれん。それだけは覚えておいてくれ」
「二の次、ですか……。一体誰の?」
「ナツキじゃ。オレはあいつを好いておる。だから、好きな女の二の次になるやもしれん、という事じゃ」
思わぬ言葉だったのだろう。エリカは目を見開いていた。アデクは、「まぁ、頑張ろう」と身を翻し、手を振った。ジムを出る際、ふと呟く。
「ユキナリの、闇、か」
自分でも窺い知れないものがある。アデクはユキナリと言うトレーナーを今一度見直す必要があるかもしれないと感じた。
焦土と化した庭園へとスプリンクラーが始動し、火を鎮めていく。それを眺めながらエリカは小さくこぼした。
「庭園を作り直さなくてはいけませんね」
ため息を漏らし、「でもその前に」と声を出した。
「出ていらっしゃい。いるのは分かっています」
エリカの声に茂みの中やジムの端から空間を割いて人影が現れた。全部で三人ほどだが、気配を消す術を心得ている事が分かる。
「何用でしょう。わたくしはもう負けましたのよ」
「だからこそです」
一人、コートに身を包んだ紳士が歩み出る。
「ジムリーダー殺しが起こっております。我々はその危険からあなたを保護するために現れました」
「自分達が何者なのかも明かさない人々に、保護されるいわれはありませんが」
エリカの言葉に、「これは失敬」と紳士が頭を垂れた。
「我が組織の名はヘキサ。地方を跨って結成された極秘組織です。今、このカントーポケモンリーグに蔓延る闇を排除すべく動いております」
「随分と傲慢ですのね。自分達が正義の味方とでも言いたげな」
「事実、そうなのです。カントーには奇妙な集団が居ついている。ロケット団と呼ばれる組織もそうですが、このカントー黎明より、ある集団が歴史を動かしている。その集団を闇から引きずり出す、手助けをしていただきたい」
「断れば、どうなるのかしら?」
エリカの試すような声音に紳士は、「手荒い真似はしたくありません」と答えた。畢竟、エリカに選択肢は与えられていない。隷属か、死か。その二択が突きつけられるが、エリカは平然としていた。
「わたくしを嘗めないでくださる?」
モンスターボールを手に取りエリカは告げる。
「腐ってもジムリーダーの身。そう簡単に誰かに従うほど魂は薄汚れてはいない」
エリカの言葉を断絶と受け取ったのか紳士は肩を竦めた。
「非常に、残念です。エリカ様ならば、我々と共に本当の世界を見出してくれると思っていたのですが」
「この世界に、真も偽りもありません。それらは全て、人の心次第」
「愚かですね。我々の誘いを断っても、この世に安息はありませんよ。あなたが見出した通り、オーキド・ユキナリは危険だ。いずれは消さねばならない存在。あなたの判断は何も間違っていないのです。弟子を監視につけたこともね」
その言葉にエリカは紳士を睨み据えた。
「ナタネは、そのようなために見送ったわけではありません」
エリカの放った静かな殺気に紳士を護衛する二人が気圧されたように後ずさる。紳士だけはエリカの怒りにも無関心だった。
「分からないですね。会ったばかりでしょう? 我々はもう何十年も、それこそ彼らが母親の体内にいる時から、予言されていたその存在を消す事だけを考えてきたのです。滅びの道を免れる唯一の方法を」
「それが誰かの血に濡れた道なのだとしたら、わたくしはそれを是としません」
きっぱりとした口調に紳士は、「もったいないですね」と声を漏らした。
「もったいない?」
「それだけの正義感を持ちながら、どうして我らに与しないのか。正義は流動的ですが、決して衰えないものも存在するのです。それが我らヘキサの正義。どうあっても我々と行動を共にしないというのならば」
紳士が指を鳴らすと護衛二人がモンスターボールを手に踏み込んできた。赤と白のカラーリングが施された新型である。エリカは先ほど戦闘を終えたばかりの相棒を呼び戻した。
「モジャンボ、おいきなさい」
しかしモジャンボの体表は黒焦げである。光合成で僅かに命を繋いでいるレベルであった。
「そのモジャンボ、随分と疲弊していますね。それで我々に勝てるとでも?」
「やってみなければ分からない」
エリカの声に、「やれ」と短く紳士が告げる。
エリカは手を薙ぎ払い攻撃を命じた。もう、生き残る事など考えていない。ただナタネ達の旅に幸あらんことを。それだけを胸の中で願い、モジャンボは跳ね上がった。