第百二話「君の銀の庭」
ジムに一歩踏み入ると、そこから先は新緑の別世界だった。スプリンクラーが撒かれ、整えられた芝生と生け垣が独特の風景を醸し出している。まるで異国の庭園だ。天井から陽光が降り注ぎ、中央にある白亜のテーブルには今まさに、エリカが席についたところだった。椅子も三つ用意されている。
「来ると思っていました」とエリカははにかんだような笑みを浮かべる。その笑顔にユキナリはまたも呆然としそうになったがぐっと堪えて、「これは……」とジム内の異様さに目を注いだ。
「よく出来ているでしょう? ポケモンリーグ事務局が全部のお金を負担してくださったんです。何でもジムリーダーの有利に運ぶようにしていいとの事で。じゃあ、お庭を作らせてくださらない? と提案したら、とてもいいお庭を作ってくださいました」
エリカが手を合わせて微笑んだ。つまり、目の前の光景も一応はジムリーダーに有利な地形というわけか。改めて見直していると、ティーポットをソーサーで運んでくるナタネを発見した。
「あ、やっぱり来たんだね」
ナタネは先ほど自分達が泣かせた事を忘れたような朗らかな笑顔を向ける。
「あの、さっきはすみませんでした……」
ユキナリが率先して謝ると、「いいよ」とナタネは手を振った。
「あたしも説明不足だったし。マスターに怒られて、問題があったな、って思ったもん」
「エリカさんが、怒ったんですか……?」
にわかには信じられないと思っているとナタネはきょとんとして、「何言ってんの?」と小首を傾げる。
「目の前で怒っていたじゃん。あたし、マスターに人前で怒られてすごい恥ずかしかったんだから」
ナタネの言い分では先ほどジムから出た時、既にエリカは怒っていたようである。しかし、ユキナリ達には怒っているようになどまるで見えなかった。優しく諭しているようであったからだ。
「もう、ナタネってば。人の失敗を笑わないで」
エリカの声に、「ごめんなさい、マスター」とナタネは謝る。今のも怒っているうちに入るのだろうか。
「……あれが怒っているんだとしたら、ナツキは年中怒っているな」
「聞こえているわよ、馬鹿」
ナツキに後頭部を再び叩かれ、ユキナリは佇まいを正した。
「あの、その……」としどろもどろに声を発していると、「来てくださらない?」とエリカが椅子を手で差し出す。
「お茶をしたいわ。旅のお話も聞きたいですし」
完全にエリカのペースである。ユキナリ達が抗弁の口を開く前に、「マスターのお願いだよ?」とナタネが声にする。
「聞かなきゃ損損」
ナタネが歩み寄り、ユキナリの手を取った。そのまま中央のテーブルへと引き寄せられる。
「いいお茶があるんだ。カロス地方で味わわれている紅茶だよ。なかなか手に入らないって評判なんだけれど、それにあわせるお茶菓子も用意した。ガレットって言ってね」
ユキナリは一人テーブルについてエリカと対面する。視点の据えどころが分からず、ユキナリが俯いているとエリカがふふふと笑った。
「な、何か……」
「いえ、初心で可愛らしい方だな、と思いまして。男の子なのに、まるで乙女みたい」
それは褒められているのか貶されているのか分からなかったが、エリカの言葉一つでユキナリは頬が紅潮するのを覚えた。ナツキの足音が不意に聞こえてくる。咳払いで浮つきかけた気分を戻し、「あの、お茶って」と声に出す。
「ええ。カロスのお茶はお嫌い?」
「いえ、あの、嫌いじゃないですけれど。僕なんかが飲んでいいんですかね」
「構いませんわ。誰かと飲むお茶のほうがおいしいですもの」
エリカの厚意にユキナリは甘えてティーカップを持ち上げる。すると、ナツキが隣に座り、「あたしも同じのを」と高圧的に頼んだ。
「そんな言い方……」
「はい、かしこまりました」とエリカが立ち上がろうとする。慌ててナタネが制した。
「駄目ですよ。マスターはお客様と楽しく会話なさってください。あたしが淹れますから」
ナタネの言葉にエリカは席につく。ナツキが口火を切った。
「どういうつもり?」
「どう、とは」
ティーカップを優雅に持ち上げたエリカが微笑む。ナツキは、「誤魔化さないで」と目つきを鋭くした。
「ここは、間違ってもジムでしょう? ジムリーダーとトレーナーは戦う決まり事になっているはずですけれど」
「誰も、戦うだけがジムバッジを手渡す条件だとは言っていません」
エリカの声にナツキは、「そりゃ、そうですけれど」と一瞬だけ気圧された様子だったが、「じゃあどうするって言うんです?」と聞き返す。
「そうですね。わたくしと、戦いたいですか?」
改めて問い返されるとナツキもユキナリも返事に窮した。エリカは胸元に手をやって花のように笑んだ。
「もちろん、手を抜くつもりはございませんけれど、それって虚しくありません?」
「虚しい、ですか?」
ユキナリの声に、「だってそうでしょう?」とエリカは目線をやった。
「戦って、勝つか負けるかだけの関係性なんて。負けた側は敗北を背負って生きていかざるを得ない。勝ったからと言って、それはこのリーグを勝ち進むためだけのジムバッジ一つに過ぎない」
エリカの言い分にナツキは目に見えて嫌悪を示した。
「ポケモンバトルを、否定しているって言うんですか?」
言い方だけならば、そう思えても仕方がない。しかし、エリカは頭を振った。
「いいえ。バトルは、しなければならないでしょう。ただ、そうあくせくするものでもないと思っただけです」
「あたし達がこの街に辿り着くまで、どれほど苦労したか――」
「それです」
エリカの指摘にナツキは口を噤んだ。「それ、とは?」とユキナリが代わりに問う。
「どのような旅だったのか、興味があります。よろしければ、そちらの灰色の髪のお嬢さんとも、お話したいですわ」
エリカがキクコへと目を向ける。そういえばキクコはこちらへと歩み寄ってこない。何故なのか、と考えていると、「本能的かもね」とナツキが潜めた声を出した。
「何が」とこちらも小さく聞き返す。
「キクコちゃんの感覚ってあたし達よりも鋭いから、何か感じ取っているのかもしれない」
その言葉にキクコへと目を向ける。キクコは歩み出そうともしない。エリカはティーカップを置き、「大丈夫ですよ」と告げた。
「怖いものは、わたくしが仕舞っておきますから」
その言葉にキクコはぴくりと肩を震わせた。そう思っていると、迷いなく歩み寄ってきて椅子を引く。
「何? 何なの?」
ナツキは不思議がっているが、今の一言でキクコを安心させたのだろう。怖いものは仕舞う。キクコが先生に教えられたと言っていた一節だ。
「今の言葉……」
「読心術をたしなんでおりまして」
エリカは優雅に答える。ユキナリは首を傾げた。
「読心術?」
「人の心を読むほうの術です。わたくし、対面した相手が何を考えているのか、大体理解出来ます」
驚くべき事だったが、「ホントだよ」とナタネが補足した。
「マスターは何を考えているのかたちどころに分かっちゃう。だからすごいんだ」
「ナタネ、客人の前でマスターはおよしなさい」
たしなめる声にも聞かず、「いいじゃないですか、マスター」とナタネが微笑む。エリカも怒っているようには見えない。
「どうなさいますか? わたくしと、それでも一戦交えますか?」
暗に今の情報を知ってもなお戦いを挑むのか、と聞いていた。エリカに隠し立てする気など毛頭ないのだ。ただ覚悟を問い質している。ユキナリは恐るべき相手だと感じた。自分の手の内と相手の手の内を全て知っても勝てる算段がなければこのような態度には出ない。
「……ナツキ。この人」
ナツキも同じように感じていたのか首肯する。
「うん。本物の、実力者ね」
キクコはそれを感じ取っていたのだろう。自分が丸裸にされるのが嫌で踏み止まっていたのだ。相手の思考を超越し、さらに自分の感情を抑制する。それが真の実力者。それの出来ない未熟者は、彼女と茶をかわす程度しか出来ない。逆を返せば、ここで踏み止まる人間もいる、という事だ。ここで退くのも手ではある。もしかしたら今までの挑戦者もこの段になってエリカの恐ろしさに気づいたのかもしれない。
自分では勝てないのだと本能的に感じ取ってしまう。ティーカップの中の紅茶が波を立てる。手が震え出しているのだ。ここで退け、と自分の中の野生的な部分が命じる。だがユキナリは震え出す手首を押さえた。その様子をエリカは一歩引いた目線で見つめる。
「どうして、そうまでするのです?」
自分の心の中もお見通しだろう。ならば余計な言葉を重ねる必要もなかった。
「決まっている。勝つために、僕はここに来たからです」
ナツキもティーカップを置き、息を一つついた。「あたしも」とナツキが続く。
「勝たなきゃいけないんです」
二人の決意にエリカは目を瞑り、「いいでしょう」と立ち上がった。ナタネの名を呼ぶと、彼女は手早くテーブルと椅子を撤去し、庭園を作り出した。
「ご存知の通り、ジムリーダーは最も自分に適したフィールドで戦う事を許されている。天窓から差し込む日差しは強弱設定が可能であり、陽射しの強い状態にすれば、草タイプは真価を発揮します。それでも、ですか?」
エリカの言葉にユキナリとナツキは応じた。
「ああ、それでも」
「あたし達は戦う」
呼応した声に二人して視線を交わし合う。エリカはフッと微笑んだ後に、「ですが」と首を横に振った。
「物事には手順があります。わたくしを倒したくば」
エリカが退く。すると前に出たのはナタネだった。
「この子を倒してからになさい」