第百一話「イノセントガール」
「これ、ポケモンジムじゃない」
驚愕を露にするナツキの声にユキナリは、「ああ」と頷く。目の前にあったのはポケモンジムであり、さらに言えば立て看板も存在する。そこには「タマムシシティジム」とはっきり書かれていた。
「な、ナタネさん! これ、ポケモンジム!」
うろたえたナツキが指差すと、「うん?」とナタネはジムを見やり、「それがどうかした?」と尋ねた。
「じゃなくって! ナタネさん、何者なの?」
「ああ、言ってなかったっけ。あたし、ここのジムトレーナー」
ナタネは全員へと向き直り、片手を差し出した。
「改めて自己紹介するね。あたしはナタネ。タマムシシティ草タイプのジムに師事しているトレーナーです」
その言葉に全員が瞠目していたがユキナリはようやく口にした。
「シンオウから来たっていうのは……」
「嘘じゃないよ。生まれはシンオウだけれど、ここ二ヶ月ほどはタマムシジムに入り浸り。ポケモンリーグ事務局から特別に許可されて、あたしは特派員としてシンオウから渡ってきた。ここ、タマムシジムのジムトレーナーとしてね」
「特派員、って」
「その地方ごとにある特色や技術を伝える役目、かな、大雑把に言うと。今回のポケモンリーグ、シンオウ政府も重要視しているってわけ。だから伸びしろのあるあたしみたいなトレーナーを特別に派遣した」
初耳であったが、極秘事項なのだろう。ジムリーダー、ひいてはジムに関する事は秘匿されている。
「ここの街の人達は知っているけれどね。よくしてくれているよ」
ナツキは呆然としていたがナタネがジムに入っていくのを見て、「ちょ、ちょっと!」と声を張り上げる。
「何?」
「あの、トレーナーがジムに入る時ってのは、その挑戦するのと同義なんだけれど」
「ああ、そっか」とナタネは後頭部を掻いた。
「だよね。ほとんど家みたいなものだから忘れちゃっていた。どうする? ポケモンセンターで回復してから来る?」
「いや、回復はもう済んでいるんだけれど、いきなり挑戦するって言うのが……」
通じない事にやきもきしているのだろう。ナツキは言葉を繰っていたがユキナリは率直に言った。
「まだ挑戦する心構えが出来ていないって事なんです」
その言葉でナタネはポンと手を打った。
「なるほど。だよね。いきなりジム前まで連れてこられて、挑戦するかしないか、ってのは卑怯だ。じゃあ、挑戦しなくってもいいよ」
ナタネの言葉に一同は目を見開く。ナタネは何でもない事のように、「遊びに来たって言えば」とジムの看板を仰ぐ。
「マスターも喜ぶと思うよ」
「マスターってのはジムリーダーの事ね」
ようやく納得したナツキの声に、「そうだよ」とナタネは応じる。
「草タイプの使い手、エリカ。それがあたしのマスター」
「なんとなーく、読めてきたわ……。あんた、あたし達を誘導して無理やり戦わせようとしているんでしょう」
ナツキの言葉に今度はナタネが目を見開く番だった。
「そんな事……。あたしはただタマムシシティのいいところを知ってもらおうとしただけだよ」
「どうだか。いい? ポケモンバトルにはポイントがかかっているのよ。そのポイント数の優劣でリーグに進めるか否かが決まる。こうやっておのぼりさんを案内すると見せかけてポイントを荒稼ぎすれば、それは効率的でしょうね」
ナツキの声には荒々しいものも混じっていたが概ね同意だった。ナタネのやり方は出来過ぎている。それを疑うのは当然の事だ。
しかし当のナタネはショックを受けたかのようによろめいた。
「そんな……、あたしはただ……、タマムシの事を知って欲しくって」
ナタネの様子から嘘を言っている風ではないが、この期に及んでしまえば最早それも嘘に聞こえてしまう。ユキナリとナツキは同時にホルスターからボールを抜き放つ。
「こんな卑怯な真似、許さない」
ナツキの言葉にナタネは額に手をやっている。何をするのかと思えば、次の瞬間、大声で泣き出してしまった。その様子に全員が顔を見合わせる。
「そんな……、あたしは……、ただ……」
声には嗚咽が混じっており、泣きじゃくったナタネはその場に膝を落とした。おいおいと泣き続けるのでさすがにナツキも戸惑った様子だ。
「えっ……、ちょっと、どういう状況よ、これ」
まるで自分達が悪者である。ユキナリも困惑の眼差しを向けた。ナタネはポケモンを出す様子もなく、ただただ子供のように泣くばかりであった。
「ええと、どうすれば?」
疑問を浮かべたユキナリへとナツキが、「知らないわよ」と突っぱねた。
すると、ジムの扉が開いた。現れた姿に息を呑む。
黄色い着物姿の女性だった。帯とカチューシャが赤色で、髪型はおかっぱである。慈愛に満ちた瞳をしており、その眼がユキナリ達を捉えた。一瞬、動けなくなる。敵意ではない。これは、圧倒的存在への畏怖だ。女性はナタネの手を取り、「ナタネ」と声をかける。
「マスター……、あたし、間違っちゃったのかな……」
腫れた泣き顔へと、マスターと呼ばれた女性はハンカチを差し出す。ナタネは勢いよく鼻をかんだ。
「泣き止みなさい。あなたの行いは誤解を生んだだけ。ちょっとした誤解です。わたくしがどうにかしますから」
柔らかなさえずりのような声にナタネはゆっくりだが泣き止んでいった。女性がユキナリ達へと視線を配り、そっと頭を垂れる。
「ご迷惑をおかけしてすみません。うちの子は、まだ教育がなっていなくって」
その言葉にこちらも思わず丁寧に返してしまう。
「え、いや、こちらこそ、急に大声を出してナタネさんをびっくりさせたみたいで……」
ユキナリが代表して謝ると女性はくすっと笑った。
「とてもお優しい方なのですね。こちらの不手際なのに」
笑うと周囲の空気が和らぐような女性だった。ユキナリが呆然としているとナツキが小突いてくる。
「何見とれているのよ」
「見とれ、って、僕、見とれていた?」
全くの意識外だった。ナツキは、「完全に見とれていたわよ」とじっと睨んでくる。
「あの、重ね重ねすみません。何だか、見とれちゃったみたいで」
自分でもらしくないと思いつつ、この女性には謝らなければならないような気がしていた。ナツキが後頭部をはたく。
「馬鹿。見とれた相手に見とれたって正直に言う人間がどこにいるのよ」
つんのめりつつユキナリが、「何するんだよ」と返すと女性は口元に手を当ててつつましく微笑む。
「仲がよろしいのですね」
その言葉にナツキも虚をつかれたように無言になる。キクコが歩み出て、「あの」と控えめに声を発した。
「あなたが、ナタネさんのマスターですか?」
「ああ、ナタネが外でもその呼び方をしているのですね」
エリカがナタネへと目を向ける。ナタネはしゃくり上げながら、「ごめんなさい、マスター」と言う。
「マスターはよしなさいと言っているでしょう。そんな大層なものじゃないのですから」
女性はユキナリ達に向き直ると、恭しく頭を垂れた。
「お初にお目にかかります。ここ、タマムシシティジムのジムリーダーをしております。エリカ、と申します」
やはりこの女性がエリカなのだ。ユキナリ達は改めて緊張の鉛を呑んだように固まった。
「あら、そう怖がらないで。ジムリーダーだからと言って戦闘は強制出来ません。このまま、帰るのもよし。でもどうせ参られたのですから、ちょっとお茶でもいかがですか?」
エリカは身を翻し、ジムへとユキナリ達を手招く。ナツキは、「お茶、って……」と状況を読み切れない様子だった。
「ナタネ。買っておいてと頼んでおいたお茶の葉があるでしょう。あれでもてなしましょう。さぁさ、皆様、どうぞジムへと」
エリカはジムの中へと入っていく。ナタネは、「これですね、マスター」とすっかり元の様子に戻ってエリカの背中に続いた。ユキナリ達は取り残されたように視線を交わしあう。
「どう、するの?」
ナツキの声に、「そりゃ、まずいんじゃないかな」とユキナリは答える。
「だって、ジムは戦いの場だよ。そこでゆるりとお茶なんて」
「そ、そうよね。危ない危ない、敵の術中にはまるところだったわ」
ナツキが胸を撫で下ろす。ユキナリは、「お茶、したいの?」と訊いた。
「そんなわけがないでしょう。ただ、あのエリカって人の空気がすごい澄んでいて、何て言うか、打算のない人間みたいに見えて」
ナツキの表現は何となく理解出来る。打算のない人間。きっと何の毒気もない笑みを振りまくとあのような形になるのだろうという理想だった。
「も、戻る?」
ユキナリの声にナツキは、「そうよね……、普通、お茶なんて……」と声を発しようとしたところ、キクコがジムに向けて歩き出していた。慌てて二人で呼び止める。
「キクコちゃん?」
「何やっているんだ?」
肩を引っ掴むと、「え、だって」とキクコ自身不思議そうな顔をする。
「お茶をもらえるって言うから」
「あんたはもらえりゃ何でもいいの?」
「敵の罠かもしれないんだぞ?」
ナツキとユキナリが交互に放つ声にキクコは、「でも」と名残惜しそうにジムを見やる。ユキナリは、「よぉし、分かった」と頷く。
「何がよ」
「僕が先陣を切って、ジムに飛び込もう」
ここは男らしく、自分が前に出るべきだ。その提案にキクコとナツキは怪訝そうな目を向ける。
「さっきまであのエリカっていう人に見とれていた奴が? 信用出来ないわー」
「ユキナリ君、お茶独り占めはずるいよ」
思わぬ女性陣からの反感の声に肩を落としてしまう。しかし、ユキナリは折れなかった。
「戦闘になっても、僕のオノノクスなら勝てるかもしれないし」
その言葉にナツキはむっとした。
「あたしのハッサムだって勝てるわよ。虫・鋼だし。草には先手を打てるわ」
「私のゲンガーだって毒タイプだもん。草には勝てるよ?」
またも思わぬ反撃を受け、ユキナリは意思の力が粉々に砕けたのを感じた。
「よし。仕方がないから行きましょう」
ナツキが改めて声にする。意外な言葉にユキナリが顔を上げる。
「行くんだ?」
「だって、どうせジムなんだし、行かないとジムバッジが他の参加者に取れれちゃう」
やはりナツキはあくまでもジム戦の構えのようだ。キクコは、「お茶がしたいし」とお茶目的のようだが。
「どっちにせよ、あのナタネ、って人が嘘をついていたのかも気になるしね」
ナタネが最初から欺くつもりで自分達に接触してきたのか。それは気になるところだろう。ユキナリは、「行こう」と歩み出した。