第百話「ドクターペッパー」
三十分後に宿屋の前に出るとナタネは、「おーう、待っていたよー」と新たに菓子を頬張っていた。ユキナリが、「あの……」と指差すと、「ああ、これはホウエンの名物」と掲げられた。
「フエンせんべい、って言うんだ」
「どうしてホウエンの名物が?」
「あれ? 知らない? ああ、そっか、さっき来たばっかりだとね。タマムシシティでは全地方から食の祭典として名物が集まっているんだ。これ、ジョウトの名物、いかりまんじゅう」
ナタネは紙袋から厳しい黒で包装されたまんじゅうを差し出す。
「まぁ、言うなればタマムシシティは選手村だね。トキワシティにもあったみたいだけれど、規模が違う。ここまで来たご褒美として、最高のおもてなしと最高の美食を味わって欲しい、ってわけなのかな。まぁ、あたしはこういう楽に食べられるものが好きなだけだけれど」
ナタネがフエンせんべいを齧る。その様子をやきもきとして眺めていたのはキクコだった。先ほどのように真似がしたいのだろう。ナタネは感じ取って、「食べる?」とフエンせんべいを差し出す。キクコはユキナリに視線をやっていいかどうかを確認してから受け取った。
「いい? パリッとしていておいしいけれど、歯が丈夫じゃないとおススメ出来ないよ。さっきみたいに力任せに齧ったんじゃ歯がやられてしまう。だからフエンせんべいを食べる時には、脇をしめてー」
ナタネの号令に従い、キクコは脇をしめる。「大きな口を開けてー」とナタネが指示するとその通りにキクコは動いた。
「そして、食べる!」
ガリッとフエンせんべいをナタネは頬張る。キクコも頬張ったが、途中で顔を青ざめさせた。どうやら喉に詰まらせたらしい。しきりに喉元を押さえている。
「大変! 水……」
「はい。最近発売されたばかりの商品、ドクターペッパー」
用意周到なナタネが差し出したのは見た事のない極彩色のカラーリングが施された飲料の缶だった。ユキナリとナツキが怪訝そうに眺める。
「何なの、それ?」
「あれ、知らない? 割とポピュラーな飲み物だと思ったんだけれどなぁ。あたしは好きだよ、これ」
「いいから! キクコちゃんが窒息死しちゃう」
ナツキはナタネの手からそれを引っ手繰りキクコに飲ませた。するとキクコが今度は目の端に涙を溜めて、「何これぇ……」と舌を出す。
「飲んだ事のない飲み物だよぉ」
涙声のキクコに、「そんなに?」とナツキも口をつけるが、たちまち眉間に皺を寄せた奇妙な顔つきになった。
「何これ……」
「ドクターペッパー。あたしの好物」
「どんなのなんですか?」
聞くと、「言葉で説明するのは難しいから、君も飲んじゃいなよ」とユキナリへと缶が手渡された。表面のラベルを見やる。何やら怪しげな風体のフォントで「ドクターペッパー」と書かれており、本当に真っ当な商品なのかと疑いたくなる。
「賞味期限は切れてないって」とナタネが言うのでプルタブを開けて口に含んでみたが、その味は奇矯と言う他なかった。炭酸飲料なのだがサイコソーダのような甘みが先行している風でもなく、かといって炭酸がきつすぎるわけでもない。
「何だか、粘つく……」
「それがいいんだけれどなぁ。もう飲まない? あたしが飲んじゃうけれど」
ユキナリは大人しくナタネへと返す。ナタネはひと息に飲み切って、「プハァー!」と威勢のいい声を上げた。
「これ! この味! 癖になる! 分からないかなー?」
残念ながらナタネ以外誰の口にも合わなかったようである。ナツキもナタネに返していた。
「もうちょっと真っ当な商品を出しなさいよ」
ナツキの言葉に、「心外だなぁ」とナタネは数々のお土産を紙袋から取り出した。
「この中でも選りすぐりのものが、ドクターペッパーなのに」
「どこの世界に喉に詰まったものを取るのにこんな癖のある飲み物を出す人間がいるのよ」
ナツキの苦言にナタネは肩を竦めて、「まぁいいや」と紙袋を引っ提げて身を翻す。
「行こう。そろそろ帰らないとマスターが心配するし」
ナタネは歩き出していた。ユキナリはナツキと一応、警戒の眼差しを交し合う。もしもの事がないとも限らない。慎重を期して二人ともいつでもホルスターからボールを抜けるようにしておいた。ナタネはタマムシシティを南へと歩いていく。その途中、すれ違った人々が、「あ、ナタネさんだ」と声をかけた。ナタネは、「やっほー」と朗らかに笑いながら手を振る。
「随分と有名なのね。シンオウから来たって言っていたけれど」
「まぁ、それもマスターの人徳ありきかな。あたしなんて田舎者、マスターがいなくっちゃこの都会じゃ生きていけないだろうし」
ユキナリはそのマスターとやらが先ほど話に上がっていたエリカなる人物である事を確認しようとする。
「その、エリカさん、っていう人なんですよね?」
「そう。あたしはマスター、って呼んでいるけれど、その呼び名が好きじゃないんだって」
ナタネはむくれて首をひねる。ナタネが立ち止ったのは一本の細い木の前だった。
「あれ、木があるけれど……」
「ああ、うん。すぐ生えてきちゃうんだよね。切っても切ってもさ。それがちょっと鬱陶しいけれど、慣れればどうって事ないよ」
ナタネはホルスターからモンスターボールを抜き放ち、投擲した。突然の事にユキナリ達が身構えると、「心配はいらない」とナタネは微笑む。
「ちょっと木を退けるだけだから。ロズレイド」
ロズレイド、と呼ばれたポケモンがすっと顔を上げた。その面持ちは流麗で、貴婦人のそれであった。白い頭部に茎のような細い身体をしている。両腕に有しているのは五指ではなく、薔薇の花束だった。
その赤い眼がすうっと細められたかと思うと、ロズレイドは花束型の腕から触手を抜き放つ。尖った触手が木を切るのかと思われたが、その触手は巻きつき、木をしならせた。柔軟性があるのか、細い木と道の間に僅かな隙間が生じる。
「さぁ、この隙間を通って」
ユキナリはナツキへと視線を向けた。このナタネというトレーナーは敵ではないのか。もし敵ならば、敵地へと赴くようなものだ。だが自分からポケモンを出した辺り、手の内が割れる事を恐れていない事が分かる。相当な自信家か。あるいは本当に、戦闘する気はないのか。
「どうしたの? 早く早く」
逡巡を浮かべていたユキナリへとナツキが口にする。
「行きましょう」
「だね。分からない事も多いけれど、僕らだって伊達に経験を重ねたわけじゃない」
出たとこ勝負だ。ユキナリ達は木の隙間を潜った。即座に反転し、攻撃が背中から来るかと思われたが、ナタネはあろう事か自分も木で塞がれていた道に入り、「よっこいしょ」と木を元に戻した。
「お疲れ、ロズレイド」
さらに驚くべき事にナタネはロズレイドをボールに戻したのである。背中ががら空きだったはずなのに、全く攻撃の気配さえ見せなかった。その事実に三人して驚嘆していると、「何? 豆鉄砲食らったような顔をして」とナタネは小首を傾げた。
「いや、ちょっと行動が予想外だったもので……」
ユキナリが濁すと、「全然予想外じゃないじゃん」とナタネは笑った。
「木を退かしただけ。それ以外にある?」
それは、とこちらが口ごもってしまう。ナタネは気にする素振りはなく、「さぁ、行くか」と先陣を切った。全員の背後を取った事など最早覚えていないかのようだった。
「……ねぇ、あの人、やっぱり変わっているわ」
ナツキの声にユキナリは同意だった。
「だね。危険人物ってわけじゃなさそうだけれど」
それでも何を考えているのか分かったものではない。ユキナリ達がその背中に続いていると、唐突に道が折れており、その先にあったのは意外な建物だった。