第八十七話「その名はネメシス」
「いやぁ、酷い目に遭うたなぁ」
マサキが天然パーマの後頭部を掻いて呟く。イブキは先んじてタマムシシティへと抜ける七番道路へと出ていた。そこからヤマブキの惨状を眺めていたのだが、つい先ほどまで自分達のいたシルフビルが崩落したのが分かった。
「とんでもない場所にいたってわけね」
「まぁ、ワイら、避難命令が出ていたわけやし、どっちにせよあの場にはおらんかったっていう事やけれど」
キシベが自分とマサキは必要な駒だと判断していたのだろう。自分達に出ていたのはクチバシティへと抜け、今夜中に港からグレンタウンへと向かえ、との任だった。当然、七番道路に向かえなど誰も言っていない。イブキ達は命令を無視したのだ。それも自分の意志で。
「シルフカンパニーは崩壊、か」
「実際、どうかは分からんよ。もしかしたらシルフの子会社辺りが利権狙ってくるかもしれんし」
「かもね。でも、私達にはもう関係のない事よ」
自分達に関わりのある事といえば今マサキの懐にある全てのデータが入ったロムだけだ。キシベの思惑を知る鍵。それを破るたった一つの方法である。
「まぁ、ワイらはいわば死んだ人間、ってわけやな」
「死人に口なし、ってね。キシベが楽観主義で私達が逃げ遅れて死んだとでも思ってくれると助かるんだけれど」
キシベがそれほど甘くない事は自分達がよく知っている。だが表立って捜索隊を組織するには、シルフカンパニーもロケット団も戦力を消費してしまった。
「これからどうするんやろうね」
マサキが草むらに寝転がる。イブキも屈んで崩れ落ちて火災の煙を棚引かせるヤマブキシティを眺めた。
「私達の重要性に気づいた誰かが、迎えに来てくれるのを待つか」
「そんな都合よういくん?」
マサキの疑問に、「そうよねぇ」とイブキはため息を漏らした。その時、草むらを踏みつける足音が耳朶を打った。
「……少なくとも、事実は小説より奇なり、って事は立証されたわ」
振り返ると人影が立っていた。長身痩躯で、仮面を被っている。七つの眼が彫り刻まれた仮面だった。口周りだけが露出しており、紫色の紅を引いている。
「おおう! 誰やねん!」
「今さらビビッているんじゃないわよ。データにあったでしょう」
イブキの声にマサキは、「まさか、連中か?」と声にしてイブキの後ろに隠れた。イブキが舌打ちを漏らす。
「あんた男でしょう?」
「ワイ、戦闘は専門外やし……。姐さんのほうが強いやん。それに、こいつがその連中やとしたら、ワイら殺すのに躊躇いなんてせんで」
「あんた、そのためのロムでしょう?」
「あっ」とマサキが懐からロムを取り出す。イブキは引っ手繰って、「あんた達」と声にした。
「私が所属していたのはロケット団。でも、もう裏切った。私達はロケット団の本当の目的を知っている。恐らく、それを知って生かされているのは私達だけ」
仮面の女は答えない。まだ信憑性に欠けると考えているのか。イブキはロムを片手に、「取引がしたい」と持ちかけた。
「取引?」とそこで初めて女が応ずる。澄んだ声だった。
「あんた達、ロケット団が仮面の軍勢と呼んでいた連中でしょう。そもそも正式名称がはっきりしない影の集団。カントーの黎明の頃よりこの地におり、その行動原理には不明な点が多いながらも全てはある目的のために統率されたものがある」
データから抜粋された事柄を口にすると、「随分と調べたようですね」と仮面の女が感心した様子だった。
「苦労したわ。この一流のハッキングスキルを持つ男の存在がなければ私なんかでは手の届かない情報だったでしょうね」
「おっ、姐さん、褒めてくれている?」
「うっさい」と言いながらも、イブキはマサキの力こそがこの目的に辿り着くためには必須だった事を何よりも感じていた。キシベの下で戦わせられていれば知る事のなかった真実。どうしてマサキを拉致したのか。オーキド・ユキナリにこだわる理由は何なのか。サカキという少年の正体は何か。
「全て、そのロムの中にあると考えて結構なのでしょうか」
イブキは首肯し、「これをあなた達も欲しいはず」と目配せする。
「どう? シルフカンパニーという大きな目の上のたんこぶが取れたところでパワーバランスを考え直さなくっちゃいけない頃でしょう? 私達も所属する場所が欲しい」
「つまり、私にあなた方を雇えと?」
イブキは頷き、「それと真実」と付け足した。
「仮面の軍勢が何のためにカントーを動かしてきたのか。そもそもこのポケモンリーグは何なのか。答えてもらうわ」
イブキの強気な姿勢にマサキが、「姐さん。こいつに話が通じんかったら……」と最悪の想定をする。もし、この場で真実の揉み消しだけを実行とする相手ならば話し合いなど無意味だ。イブキとて固唾を呑んで動向を見守るしかない。
「どうするの? 取引するか、しないのか」
仮面の女は顎に手を添えて首をひねった。思案しているのか、とイブキが感じていると、「いいでしょう」と返答が発せられた。
「あなた達に真実をお教えいたします。それと身の安全の保障を」
イブキとて思いも寄らなかった。あまりにも簡単に物事が運んでいる。片肘を少しばかり張った。
「いいの? 割と不利な条件よ?」
「今さらですか。そのロムをもしオーキド・ユキナリに見せられた場合、あるいは公機関に公表された場合、我らは不利になる。とは言ってもその程度は揉み消せるのですが、問題はロケット団と並行して動いている組織です」
マサキを擁していた組織か。イブキはすぐさま口にする。
「多くの協力者を抱き込み、世界を調律しようとしている闇の組織」
「そう。名前は――」
「ヘキサ」
イブキが口走ると仮面の女は満足そうに頷いた。
「よもやそこまで至っているとは」
「真っ先に聞いたわ。こいつはすぐに答えたけれど、名前までは分からなかった。ロケット団の技術様様ね」
お陰で尻尾くらいは掴めた。マサキは、「姐さん怖いから、すぐに答えましたもん」と肩を竦める。
「ただまぁ、知っているのは姐さんだけとちゃいますけれど」
「分離したロケット団の本隊も知っているでしょうね」
仮面の女の冷静な口調にイブキは、「そうね」と肯定する。
「ヘキサと呼ばれている組織、ロケット団はそれと対抗しているけれど、何を巡っているのか皆目見当がつかない。ヘキサは一方的に見れば正義を騙っているけれど今回の爆破事件で絡んでいないほうがおかしい。そちらに与して真実が伏される可能性よりかは、あなた達に接触する事を選んだ」
「分の悪い賭けですね。私が迷わず殺すかもしれなかったのに」
「話も聞かずに殺すとは考えられないわ。重要度はAランクでしょう? ソネザキ・マサキの身柄は」
その言葉にマサキが驚愕の声を発した。
「ワイ、姐さんが死なんための保険やったん?」
「そうよ。今さらね」
さらりとイブキは言ってのける。マサキが肩を落とし、「そんなぁ」と口にした。仮面の女は、「どうやら先見の明もある様子」と観察している。
「気に入りました。私に着いて来てください。テレポートで出ます」
「どこまで行くのかしら?」
警戒を解かずに尋ねると仮面の女は何て事のないように答えた。
「トキワシティ、我らの本拠地、セキエイ高原へと」
やはり政府と繋がっているのだ。いや、それだけではない。仮面の軍勢は歴史を改変し、何らかの力を持っていると考えるのが無難だろう。
「この距離でも飛ばせますが、歩み寄ってくださると確実性が増します。手元が狂うとテレポート中に捩じ切ってしまいかねませんから」
マサキが背筋を震わせる。イブキは恐れずに、「行くわよ」と歩み寄った。仮面の女はポケモンも出さずにテレポートを使用する。
「これでもう、ポケモンリーグ本戦には戻れないわけね」
「もう、戻る気もないのでしょう?」
仮面の女の言い分に、「それでも」とイブキはこぼす。
「故郷の人達の期待を拭い切れないわけじゃないのよ」
イブキの言葉に何か思うところがあったのか、仮面の女は小さく口にした。
「仮面の軍勢、という名前は正しくありません」
「へぇ。じゃあ何ていう名前の組織なの?」
イブキの問いに仮面の女は答える。
「我らはネメシス。この世界の理に従って動く」
その言葉に問い返す前にテレポートによってイブキ達はその場から掻き消えた。
「抜けたようだな」
キシベの放った声に同室していた人影が、「何をやった?」と尋ねる。舷窓から望める景色の中に黒煙が立ち昇っていた。あれはヤマブキシティの方角だ。恐らくはシルフビルは倒壊したのだろう。
「網を、という意味だよ。ヘキサの連中が邪魔をしてくる可能性もあったんだ。だが我々はここにいる。君の身柄と共に」
その言葉に、「軟禁されているのと大差ないな」と人影は呟いた。キシベは、「待遇は悪いかね?」と訊く。
「気持ち悪いぐらいに待遇はいいさ。だが、解せないのは俺をどうするつもりなのか、まだ明かしていない事だ、キシベ」
気圧される事なくそう声を発したのは髪の毛を短く刈り上げた少年だった。キシベは、「サカキ君」と呼びかける。
「私はね、特異点である君とオーキド・ユキナリさえいれば何も不可能ではないと思わされる」
「そのオーキド・ユキナリとやらといつ戦わせてくれる?」
サカキの声には飢えた響きはない。ただ淡々と、その時を待ち望んでいるようだ。
「もう少しだよ。あともう少しで我らの悲願が叶う」
「我らだと? 笑わせる。キシベ、お前は自分のためにしか動いていないだろう?」
サカキの挑発的な言葉にもキシベは冷静であった。
「そう見えるかね?」
「他の連中は騙せてもこのサカキは騙せん。お前は俺を祀り上げると決めたその時から己が野望に忠実だ」
キシベはフッと口元を緩め、「敵いませんな」と呟いた。
「それだけの眼を持っているからこそ、必要だと判じたのだが」
「シルフの重役連中は?」
「ああ、死んだよ。全て、ロケット団の思惑通りに」
何の感慨も浮かべないキシベの口調にサカキは何か言い返すわけでもない。「そうか。死んだのか」という声は実に呆気なかった。
「ただ、フウとランの兄弟についてはイレギュラーだった。もしかしたら自爆の直前に君の情報が割れた可能性はある」
「ヘキサの連中に俺は捕らえられんさ」
サカキは驕るでもない。ただ事実を告げているようだった。キシベは暖色に塗り固められた船室を見やり、「これから」と口にする。
「戦闘員でない人々はグレンタウンへと早期に渡るが、君と私、それに数人の精鋭部隊はふたご島攻略に向かう事になる」
「伝説の鳥ポケモンの一体か」
「ああ。氷タイプの伝説、フリーザー。ファイヤーも手にある今、これを手にしないわけにはいかない」
「だが、ニドクインは不利だ」
サカキは新型モンスターボールに視線を落とし呟く。キシベは、「だからこそ、万全を期す」と指差した。
「何か策でも?」
「ファイヤーを出す」
その言葉にはさすがのサカキでも瞠目した。まさか自分達の虎の子であるファイヤーを出すとは思わなかったのだろう。
「いいのか? もし、二体とも逃亡なんて事になったら」
「氷タイプの伝説であるフリーザーを無力化するのにこれ以上の適任はないだろう。それにファイヤー捕獲とてどれだけの犠牲を払ったか。私だって慎重だよ」
「どうだかな。で、誰に使わせる?」
「カツラにやらせよう。彼にはロケット団に対する不審がある」
「踏み絵代わり、というわけか」
心得たサカキにキシベは口元に笑みを浮かべた。
「たとえ表舞台から滅びても、ロケット団はその目的のために潰えるわけにはいかないのだよ」
「お前しか知らない目的だ。組織全てでバックアップも出来ない計画など、計画とは呼ばない」
サカキの苦言にキシベは、「それでもさ」と答えた。
「これだけは、他人に任せられないのでね」
キシベはそう口にして窓の外に視線をやった。黒煙が今宵の月を遮っている。青い闇が降り注ぐ空の下を、客船が波を割って進んでいった。
第六章 了