第八十五話「咆哮」
黒い「ドラゴンクロー」がクレーンを切り裂いた。
ユキナリの眼にはそれ以上は追えなかったし、斧牙のポケモンがどれほどの強さの攻撃を放ったのかも不明だった。ただ、瞬間冷却を無効化するだけではない、もっと恐ろしい攻撃を放った事だけは確かだ。瞬間冷却の波を切り裂き、クレーンがぐらりと傾ぐ。ヤナギは呆然と斧牙のポケモンを眺めていた。
「何をした……」
自分でも分からない。だが、ヤナギを倒すにはこれしかなかった。たとえ再びポケモンとの絆が失われようとユキナリにはこの攻撃に賭けるしかない。
「僕達でもお前に敵うという事だ」
その言葉にヤナギは殺気を露にして、「ふざけるなよ……」と静かな怒気を放つ。
「お前ら程度に、俺とマンムーの凍結術が止められるものか。瞬間冷却が無理ならばこれだ! 氷柱落とし!」
斧牙のポケモンの頭上に巨大な氷柱が三本、一瞬にして構築される。重力にしたがって落下してくる氷柱にユキナリは手を払った。
「薙ぎ払え!」
斧牙のポケモンは牙を薙ぐ。それだけで空気がびりびりと震えた。氷柱が一瞬にして亀裂を発し、内側から霧散する。砕け散った氷柱の姿を一番信じられない様子で眺めていたのはヤナギだった。
「馬鹿な……。マンムーの形成する氷柱だぞ」
ユキナリは畳み掛けるのには今しかないと感じた。クレーンが巨大な軋む音を立てながら崩落していく。屋上の一部を巻き込んで赤いクレーンが鉄骨となって散らばった。
「……ふざけるな。ふざけるな! 俺に敗北は許されない。もう、ポケモンを狙うなどというまどろっこしい真似をしてやる必要もない! 瞬間冷却――」
「ドラゴンクロー!」
身体から立ち上る瘴気を集束させ、斧牙のポケモンが攻撃を放とうとする。ヤナギが自分を指差した。
その直後、爆発の衝撃が連鎖し、足場を揺らした。ヤナギは元より自分も突然の衝撃によろめく。
「何が、起こっている?」
ユキナリが声を発している間にも状況は動き、屋上が傾ぎ始めた。ビルそのものの地盤が傾いているのだ、と察したユキナリはヤナギを視界に入れようとしてハッとした。
ヤナギと自分との間に、空間に浮遊しているランの姿があった。黒い寸胴なポケモンを従えており、もう一人、ランと瓜二つな人影があった。その人物も同じポケモンを有していた。
「あれ? オーキド・ユキナリ君、ここまで来れたんだ。やっぱりやるね」
ランの声が響くがそれはここではないどこかの空間を震わせているようだった。
「ラン。お喋りはそこそこにしよう」
「そうだね、フウ。私達の目的はあくまでシルフビルの爆破と破壊。そして、この屋上を壊してその目的は果たされる」
寸胴な二体のポケモンが赤く膨れ上がる。何をするつもりなのか、とユキナリが見守っていると、「じゃあね」とランが手を振った。
「私達は任務のために殉ずる。ロケット団にいたのも、全てそのため」
殉ずる、という言葉にユキナリはランがやろうとしている事を見抜いた。まさか、と手を伸ばす。ランはまるで少しだけ遠出するかのように笑顔で手を振る。
「さよなら、オーキド・ユキナリ君」
その言葉が発せられた直後、二体のポケモンが爆発しその光と破壊の余波がユキナリとヤナギの視界を覆い尽した。
咄嗟にユキナリは斧牙のポケモンに命ずる。斧牙のポケモンは盾になって自分を守った。ヤナギは、というと氷の壁を形成して身を守ったらしい。だが、二人の戦いの場となったこの屋上は持たない。
足場に亀裂が走り、浮遊感に襲われる。屋上が崩壊したのだ。粉塵が舞い上がり、お互いに自分とポケモンの分しか足場がない。完全に断絶された二人は最後の一撃を双方に放った。
「ドラゴンクロー!」
「瞬間冷却、レベル5!」
斧牙のポケモンが溜めていた「ドラゴンクロー」を一直線に放つ。瞬間冷却の寒波が割れ、マンムーの表皮を焼いた。マンムーが呻き声を上げる。
「マンムー!」
勝った、とユキナリが確信するが自分も落ちていく光景の中で足掻く事さえも出来ない。相打ちか、と考えていると、瓦礫を押し退ける雷が放たれた。突然に走った雷の攻撃に二人とも視線を振り向ける。
「サンダー?」
視線の先には谷間の発電所での因縁のポケモン、サンダーが真っ直ぐに飛んできていた。尖った翼を逆立たせてサンダーが放電の膜を張る。その背中には一人の女性が乗っていた。
「ヤナギ君! 乗って!」
その声にヤナギは舌打ちを漏らす。
「ここで俺が逃げるわけには……!」
「何言っているの! もうこのシルフビルはお終いよ! 早く!」
ヤナギはユキナリへと一瞥を向けるとマンムーをモンスターボールに仕舞い、サンダーに飛び乗った。ユキナリはその後姿を睨み続けるしか出来ない。
「僕は、ここまでなのか……」
斧牙のポケモンには翼はない。この高さからならば生身の自分は無事では済まないだろう。
「オーキド!」
諦めかけた聴覚を震わせた声にユキナリは振り返る。ガンテツがヤドンを伴って崩れ落ちたビルの合間から顔を出していた。
「ヤドン、サイコキネシス!」
青い光が纏いつき、自分と斧牙のポケモンを空中に固定する。そのまま引き寄せられるようにユキナリはまだ無事な足場へと降り立った。斧牙のポケモンも周囲を見渡す。
「オーキド、間一髪やったな」
ガンテツは肩で息をしていた。ユキナリは、「ガンちゃん、このビルは」と声をかける。
「ああ、もう崩れ落ちる。その前に何とか降りんと」
だが、下に逃げたところで瓦礫の下敷きになれば意味がない。ガンテツも同じ事を考えていたようだ。首を巡らせて、「サイコキネシスでも止め切れんかったら意味がない」と口走る。
「ここまでなんか……」
諦観の混じった声音にユキナリは斧牙のポケモンに目をやった。先ほど、瞬間冷却を無効化したあの攻撃ならば、と策を巡らせる。
「ガンちゃん。僕に賭けてくれる?」
「何とか出来る言うんか?」
「自信はないけれど、この斧のポケモン」
「オノンドから、進化したんか……」
ガンテツが呆けて眺めている。ユキナリはひと息に言い放つ。
「馬鹿馬鹿しいかもしれない。それでも、信じてくれる?」
ユキナリの言葉にガンテツは、「どうせお陀仏するんなら最後まで足掻くで」と首肯した。
「この斧のポケモンが放つドラゴンクローは僕が今まで見た事もないほど強力だった」
「ほう、だから?」
「このシルフビルを、両断する」
言い放った声にガンテツは瞠目していた。自分がガンテツの側でも似たような表情をするだろう。ユキナリは、「このポケモンならそれが出来る」と斧牙のポケモンに手をついた。
「け、けれどやな、オーキド。もし、両断が不完全な場合……」
「ああ、僕もガンちゃんも瓦礫に押し潰されて終わりだ」
覚悟の上で放った言葉である事をガンテツに分からせる。ガンテツは唾を飲み下し、「本気なんやな」と問い質した。
「どれほどの威力が出るのか分からない。だからガンちゃんには両断の後、空中を浮遊する際のコントロールを頼みたい」
「サイコキネシスで不時着するわけか」
ガンテツの理解にユキナリは頷く。確率の薄い賭けだという事は重々承知だ。それでも、今生き残るためにはこの手段しかないように思えた。
「いけるか」
斧牙のポケモンへと問う。無理難題である事は分かっていたが、斧牙のポケモンは応ずるように鳴いた。
「やるぞ、オーキド。生き残るんやろ」
ガンテツが拳を突き出す。ユキナリはその拳へと自分の拳を当てた。
「当たり前だろ」
お互いに微笑んでから、ユキナリは戦闘の声を張り上げた。
「このビルをぶった切れ!」
ユキナリの声に斧牙のポケモンが雄叫びを上げて空を仰ぐ。黒い瘴気が寄り集まり合い、牙へと充填されていく。赤い血脈が走り、そこから発した磁場が迸った。
ユキナリと斧牙のポケモンは次の瞬間、吼えた。