第八十三話「崩落する夜」
「これって、どうなっているの?」
ナツキはヤマブキシティに着くなり喧騒が街を押し包んでいる事に気づく。それも尋常なものではない。恐慌に駆られた人々は逃げ惑っている。夜の中心核のようなシルフビルを振り仰ぐと、今まさに何かが一射された。ナツキの眼には黒い光線のように映った。
「何、今の……」
尋常ではない事態の中で、さらにのっぴきならない事が巻き起こっている。シルフビルの屋上から自然と後ずさるようになってしまったナツキへと声が振りかけられた。
「お嬢ちゃん。あいつらは……」
釣り人が示したのは逃げ惑う人々の中にいる黒服だった。その姿はハナダシティで目にしたものとシオンタウンにいた人々と合致した。ナツキはモンスターボールを抜き放つ。
「ハッサム!」
進化したばかりの相棒の名を呼び、ナツキは黒服達の進路を遮った。キクコも、「ゲンガーお願い」とゲンガーを繰り出し、すぐさま「くろいまなざし」を展開させた。黒服達が立ち往生する前に立ち、ナツキは尋ねる。
「何なの、あんた達! ヤマブキを混乱に陥れて」
「違う! 誤解だ! 我々は何も知らない!」
黒服の思わぬ弁明にナツキは面食らったが、「知らないで通せる話じゃないだろう」と釣り人が凄んだ。
「お前ら、よからぬ事を企んでいるんだろう」
釣り人の声音に、「我々も知りえぬ事だ!」と黒服達も困惑の声を上げた。
「何でこんな事になっているのか分からない。キシベ様もどこに行かれたのか……」
「キシベ……。キシベがいないの?」
分け入って尋ねたのはランだ。黒服達はランの事は知っていたのか、「ラン様!」と声に出す。
「どうしてあなたがここに……」
「説明は後で。キシベがいない、それは本当?」
確認の声音にキシベ、とやらが敵の主犯か、とナツキは頭の中で結びつける。
「ああ、どこを探してもです。通話にも出ない」
黒服達がポケギアを指し示している。ランはポケギアの通話を開くが無為に終わるのは目に見えていた。
「そっか。……フウ。そっちは。……ああ、やっぱり。出し抜くってのは無理だったみたいだね」
ランはポケギアではない、誰かと喋っているように映った。ナツキが問い質そうとすると、「もう遅い」とランが口にする。その瞬間、シルフビルを爆音が襲った。
振り返るとシルフビルのあちこちから爆発の赤い光が生じ、炎が舞い上がっている。
「何を……」
ナツキが見入っていると、「これで私達の目的は遂行された」とランが口にする。そちらへと視線をやったその時にはランの姿は半分景色と同化していた。
「私達はロケット団じゃない。組織に忠誠を誓った身。ロケット団壊滅のために動くのに、これほど適した夜はなかった」
ランの言葉に釣り人が慄きながら、「どういう意味だ?」と尋ねる。ナツキにはその言葉の赴く先が理解出来ていた。
「……あんた達も、あたしやユキナリを利用したわけね」
ランは口元に笑みを作り、「また会おう」と手を振った。その姿は間もなく見えなくなった。釣り人は呆気に取られている。
「長距離テレポートよ。もうランを追えないわ」
「でも長距離テレポートは、確かポケモンリーグで違反なんじゃ……」
「だからもう、ランはポケモンリーグに正規参加するつもりはない、という事」
恐らくは最初からその腹積もりだったのだろう。ナツキの導き出した答えに釣り人が戸惑う。
「で、でもそんな事をして何の得が?」
「恐らくは、彼女を雇っている組織が得するのでしょう」
その組織がロケット団ではなく、シルフカンパニーでもない。まだ自分達には明かされていない第三の組織が存在すると見るのが妥当だった。
「ナツキさん、どうする?」
キクコが黒服達の処遇を決めかねている。ナツキは、「もう聞く事はないわ」と言うとキクコはゲンガーの技を解いた。
逃げる前に黒服の一人がナツキへと声をかける。
「お前ら、オーキド・ユキナリの仲間だな」
黒服がユキナリの名前を発した事にナツキは驚きを隠せなかった。黒服は、「命あってのものだねだし」と一本指を立てた。
「多分、キシベ様は俺達の事を見捨てたんだと思う。この際、楽観主義は捨てて言うよ。お前ら、ずっと監視されていたんだぜ」
「どういう意味だ?」と釣り人が問いかける。「おっさんは関係ねぇよ」と黒服が戸惑うが、「聞かせて」とナツキは詰め寄った。
「どういう意味なのか」
「オーキド・ユキナリがどうして旅を決意したと思う? その裏にはキシベ様が関わっているんだ。俺達にも全貌が知れない、大きな計画さ。話を少しだけ聞いたところによると、何でもオーキド・ユキナリは特異点、とか言うらしい」
「特異点……」
聞いた事のない言葉にナツキはキクコへと目線を向けるがキクコも首を横に振った。
「詳しい事は全然分からないんだ。だが、キシベ様は言っていた。オーキド・ユキナリの旅は自分をきっかけにしなければ起こり得なかった事象だと」
ナツキは言葉を失っていた。ユキナリの旅が、仕組まれていたとでも言うのか。他の黒服が、「喋り過ぎだ」といさめるがその黒服は、「俺が知っているのはそれくらいだよ」と身を翻した。
「待って! まだ聞きたい事が――」
その言葉尻を爆音が遮る。またもシルフビルで爆発だった。動悸が爆発しそうなほどに高鳴っている。このまま何もかもが非日常に沈んでしまいそうでナツキは声を漏らす。
「ユキナリが、あそこに……」
自然と足が向いていた。ナツキの前へとキクコと釣り人が立ち塞がる。
「やめろ! お嬢ちゃん! これ以上は危ない!」
「ナツキさん!」
二人の制止を振り切ってナツキは駆け出した。ハッサムが傍についてくる。舞い落ちてくる煤けた風が異常事態を報せていた。
「ユキナリ。どうか無事で……」
その時、視界に大写しになったのは崩落したビルの先端だった。シルフビルの周囲が崖崩れのように円形に爆破される。ナツキは足元が急に振動してたたらを踏んだ。目の前には崩れ落ちる地面があった。
「ゲンガー!」
キクコの声が弾け、ゲンガーの手が伸長ししゅるしゅるとナツキの胴へと纏いつく。ナツキはゲンガーの手一本の命綱でぶら下がる形となった。
「ナツキさん、上ってきて!」
キクコの声にナツキはゲンガーの手を掴む。ゲンガーは徐々に自分を引き上げてくれた。
ナツキは改めて自分が踏み入った領域を見やる。シルフビルに誰も近寄らせないと言うのか、円形に切り取られた爆破面積は周囲の家屋やオフィスを薙ぎ払い、少なくとも数時間はシルフビルに人が近づくのを避けるのには適していた。
「こんなんじゃ、シルフビルに近づく事も……」
いや、それだけではない。この爆破で生き埋めになった人も少なくないはずだ。ナツキは、「ハッサム!」と指示する。
「バレットパンチで瓦礫を排除して!」
ハッサムが鋼鉄の拳を打ち放つが、それだけでは埒が明かない。もどかしい気持ちに駆られていると突如として上空に巨大な影が差した。振り仰ぐと肌色の腹を見せた水色の龍が長大な身体を駆使して瓦礫へと口腔を向けていた。
「ギャラドス! こういう時にこそ、大人が道を切り拓かなきゃな」
釣り人が柔らかく微笑んだ。ギャラドスと呼ばれた巨大なポケモンが尻尾と牙を使って瓦礫を押しのけていく。
「救助は俺に任せな。お嬢ちゃん達は本丸を目指せ」
釣り人の声にナツキとキクコは頷き合った。
「行きましょう。ユキナリは、多分シルフビルにいる」
駆け出す活路をギャラドスが切り拓いてくれる。ナツキは後押しされているような心地を味わいながらシルフビルへと駆け出した。キクコが続いてくる。このまま進めばユキナリを救い出す事が出来るだろうか。勘としか言いようのない感情に衝き動かされ、ナツキが踏み込んだ瞬間、肌を粟立たせる殺気が風となって吹きつけた。またビルでも崩落してくるのか、と思ったが違う。覚えず立ち止まり、ハッサムを先行させる。空中でハッサムの「バレットパンチ」を受け止めた影があった。翻ったそれは黒い着物を身に纏っている。抱くように跳躍しているのは赤い痩躯のポケモンだった。V字型の鶏冠から炎を噴き出させ、そのポケモンが主である黒い着物の人物を降ろす。
「……たまげたな」
女の声だった。流麗に降り立った着物姿の女は片手に武器を携えている。一振りの刀だった。赤い、鳥の意匠を各部位に備えたポケモンが臨戦態勢を取る。今しがた「バレットパンチ」を防いだのは同じくらいの速度を誇る拳だった。ナツキは身構える。殺気の正体はその女に他ならない。
「チアキさん? 私はこのまま行きますけれど」
同じように降り立ったのは見覚えのある人影だった。黒い髪に装飾華美な黄色いファーの衣服を身に纏っている。谷間の発電所でサンダーを捕獲した女だった。
「行っても無駄だ、カミツレ。既にキシベ達は離脱している」
「どうして分かるんです?」
カミツレ、と呼ばれた女の問いに、着物姿のチアキとか言う女が応じる。
「この場所から監視の目が消えた。もう、ヤマブキシティにその価値はないと判断したのだろう」
「だったら、私達は」
「ヤナギを迎えに行くといい。恐らくはキシベの指示で屋上だ」
カミツレはモンスターボールを抜き放つとマイナスドライバーで緩め、ボタンを押し込んだ。
「いけ、サンダー」
繰り出されたのは刺々しい翼を持つ金色のポケモンであった。全身から電流を発する鳥ポケモンは鋭い嘴を開き、雄々しい咆哮を発する。
「サンダー、屋上まで」
電流を緩め、主が乗る分だけを開けたサンダーの背にカミツレが跨り、「屋上へ」と指示する。サンダーは雷撃のような速度で舞い上がっていく。キクコがゲンガーに「くろいまなざし」を命令するよりも素早い。
「逃がすか!」
谷間の発電所の因縁、今こそ晴らさねば。ハッサムを前に出すと炎熱がそれを遮った。着物姿のチアキが赤い鳥ポケモンを伴ってナツキの道を阻む。
「何のつもり」
「悪いな。こちらとしても事情がある。そちらの思い通りにさせるわけにはいかない」
その言葉にナツキは手を薙ぎ払う。
「ハッサム、電光石火!」
ハッサムの姿が掻き消え、相手へと肉迫する。だが、相手はそれを上回る速度で背後へと回った。
「バシャーモ、ブレイズキック」
バシャーモと呼ばれたポケモンは赤く輝いた蹴りを振り払う。ナツキはハッとしてハッサムへと続け様に指示する。
「電光石火で回避してから、バレットパンチ!」
ハッサムが腕を交差させて地面を蹴りつけ宙返りを決める。先ほどまでハッサムがいた空間へと炎の蹴りが打ち落とされた。ハッサムはバシャーモの頭上へと回り込むや、鋼鉄の拳を打ち放つ。確実に当てたかに思えた。しかし、チアキの指示は簡素だった。
「同じ速度の拳で相殺しろ」
バシャーモは頭上を仰ぐと拳を放つ。目にも留まらぬ応酬が繰り広げられ、ハッサムが離脱する。
「今の、バレットパンチを、全弾受け止めたって言うの?」
ハッサムのハサミにはダメージはないが、それだけ正確無比な攻撃だったという事だろう。こちらの動きどころか力量すら読まれている。ナツキは息を呑んだ。
「何者……」
「名乗るのが遅れた。ここヤマブキシティにて、カラテ大王の一番弟子でありジムリーダーを務めていた。チアキだ」
「ジムリーダー……」
どうしてジムリーダーがヤナギ側についているのか。それを追及する前に、「質問は一つだ」とチアキは人差し指を立てる。
「貴公らは、敵か、味方か」
この質問は答え方を間違えれば確実に死を招く。その確信があった。ナツキが緊張でからからになった喉から声を漏らそうとする。
「す、少なくとも、害を成すものじゃないわ」
上ずった声にチアキは、「そう、か」と呟き、バシャーモへと視線をやる。
「よく育てられているポケモンだ。ハッサムと言ったか。だが、我がバシャーモには遠く及ばない」
「そのポケモンの反応速度、尋常じゃないわね。加速特性?」
ナツキの言葉にチアキは感嘆の吐息を漏らす。
「特性を見抜くとは。ここまで来たトレーナーならば伊達ではないか」
「馬鹿にしないで。あたしは、勝つためにここにいるんだから」
「しかし敵同士ではない。どうする?」
息を詰める。相手は実力者だ。安易な発想は逆に不利に働くと心得ろ。言葉を発しようとしたその時、もう一度シルフビルの屋上で黒い光が一射された。その振動に大地が震える。チアキも振り仰いで、「何が……」と呟いている。
「とにかく! この場で戦っている場合じゃないのは同じなようね」
ナツキの声にチアキはフッと口元に笑みを浮かべた。
「確かに。お互いに任された役割があるようだ」
シルフビルへと急ごうとするナツキへとチアキは声を振りかける。
「やめておけ。今に、このビルは崩れるぞ」
「でも、何もするなって言うの?」
ナツキには耐えられない。恐らくはこのビルの中にユキナリがいるというのに。
「落ち着いて、周囲を観察しろ。ハッサムには翅がついている。いざという時には飛んで救助をすればいい。逸る気持ちは命を縮めるだけだ」
チアキの言葉は正論だった。ナツキはその場に踏み止まり、シルフビルの屋上を揺れる視界に入れる。
「ユキナリ……!」