第八十二話「斧牙の十字龍」
輸送機から黒煙が上がった時、まさか、という予感はあった。
摩天楼から墜ちていく輸送機に亀裂が走り、嫌な音を響かせる。それはこれから来る破滅への前奏曲のようにユキナリの耳にこびりついた。
階段を上り行く途中で輸送機から赤い牡丹のような爆発の光の輪が広がった。ヤマブキシティを染め上げた狂乱の光にユキナリは拳を握り締める。
「誰だ、一体誰が……」
輸送機にはシルフカンパニーの重役が乗っていたのかもしれない。だとしても彼らの命を踏みにじり、破壊する行為など許されるはずがなかった。ユキナリは息せき切って階段を駆け上り、やっとの事で屋上に辿り着いたと思った矢先、黒服の襲撃に遭った。黒服は木の根が張り出したような赤い単眼を覗かせるポケモンを操っていた。自由自在に手を伸ばし、樹木のようなポケモンはトレーナー本体であるユキナリを追い詰める。ユキナリはオノンドへと命令を飛ばした。
「ドラゴンクロー、大剣!」
扇状の青い光を纏いつかせ、一直線に「ドラゴンクロー」が拡張する。しかし、相手は寸前で回避し、ポケモンに指示を出す。
「オーロット! シャドークロー!」
ここで時間を取られるわけにはいかない。今、撃墜された輸送機に手がかりとなる人が乗っていたかもしれないのだ。オノンドはこちらを掴もうとする闇の手を牙の一閃で振り解き、回転し様に二重の攻撃を浴びせた。
「ダブルチョップ!」
弾けた声に鋭い一撃がオーロットと呼ばれたポケモンに突き刺さる。オーロットがよろめき、牙の一撃が片腕を引き裂いた。しかし、切断面から影が迸り、新たな影の腕を生成していく。ユキナリはオーロットそのものを相手取るのは不利だと判断した。ならばトレーナーを狙うかと言えばそうとも言い切れない。どこかで踏ん切りをつけかねている自分に嫌気が差し、ユキナリはオノンドへと命じる。
「ドラゴンクロー、拡散!」
短剣になって拡散した「ドラゴンクロー」がオーロットを包囲する。ユキナリは諦めてくれ、と願ったが相手は猪突を命じた。舌打ちを漏らし、「勝てないんだったら!」と手を薙ぎ払う。短剣が一斉にオーロットへと突き刺さり、後退したオーロットに黒服は押し出された。オーロットが圧し掛かったまま、黒服がもがく。ユキナリはオノンドへととどめの一撃を命じようとして躊躇った。
命を奪う事への抵抗があった。オノンドはユキナリの心情を汲んだように大剣をオーロットに打ち下ろすが、それは全力ではない。黒服が気絶する程度に止めてくれていた。ユキナリはオノンドの頭を撫でる。
「よくやった、これで……」
中央のヘリポートへと歩き出すと鋼鉄の階段を踏む足音が響き渡った。屋上をさらに拡張しようとする赤いクレーンのうち一基の備え付け階段から誰かが降りてくる。ユキナリには予感があった。この場所で自分に戦いを挑んでくるのは誰なのか。
青いコートを風に翻し、白いマフラーが棚引く。その頬には涙の痕が窺えたが、その理由を問い質す前に少年は口にした。
「よくもまぁ、ここまで来たものだ。ぬけぬけとよくも」
その声の主には最早感情というものが欠落しているように思えた。涙の痕は最後の感情を発露させた結果なのかもしれない。ユキナリは慎重に言葉を選んだ。というのも、少年の背後には巨大な茶色い毛並みのポケモンが佇んでいたからだ。以前目にした小型のポケモンの進化系か、とユキナリは推測し、ようやく声にした。
「輸送機を墜としたのは、お前か?」
「だったらどうする?」
罪悪感などこれっぽっちも覚えていない声音だった。いっそ、全て投げ打ってこの場に立っているとでも言いたげだ。相手はユキナリを睥睨し、その名を紡いだ。まるで忌まわしきもののように。
「お前はオーキド・ユキナリだ」
ユキナリも応ずる。因縁の名前を引きずり出す。
「お前はカンザキ・ヤナギだ」
憎悪で塗り固められた瞳に戦闘意識が宿る。ヤナギはこの場で自分を処刑するつもりなのだろう。最後の関門としてはこれ以上とない相手だった。
「キクコと、まだ一緒にいるのか」
階段を下りながらヤナギが口にする。仇のような眼差しにたじろぎながらもユキナリは、「ああ」と答える。
「そうか。これが、奴の用意した因縁の戦場か」
「カンザキ・ヤナギ。僕は、どうしてお前がそこまで憎んでいるのか分かっていない」
正直な言葉にヤナギはユキナリを指差した。
「そうやって、今ものうのうと息を吸って、生きている事がおぞましい。これほどまでに神経を掻き乱された事はない」
ヤナギは額を押さえてユキナリを睨み据える。だが、ユキナリとて正体不明の憎悪にただ惑っているばかりではない。
「お前は、キクコに害を成そうとする奴らの手先か」
害を成す、という部分が引っかかったのだろう。ヤナギは眉を跳ねさせ、「害、だと……」と口走る。
「お前が、それを言うのか」
まるで全ての元凶が自分のような言い草だった。もちろん、ユキナリには思い当たる節はない。
「何を言っているのか分からない。でも、戦わなければ分からない、という事だけは分かる」
身構えるとヤナギは鼻を鳴らした。
「分かっているじゃないか。そうとも、俺とお前は、戦う事でしか分かり合えない存在なのだから」
二人の断絶は決定的だった。相手を殺す以外に解決の糸口が見つからない。ヤナギはユキナリの話を聞くつもりはない。ユキナリもヤナギが悠長に話してくれるとは思っていなかった。
邂逅したその瞬間から、この戦いは宿命付けられていたのかもしれない。
二人は同時に駆け出した。オノンドが前に出る。対してヤナギは巨大なポケモンを侍らせていたままだった。動く様子はない。攻め切れるか、とユキナリは先制攻撃を放つ。
「オノンド、ドラゴンクロー、大剣!」
集束した青い光を纏いつかせ、オノンドは大剣として顕現させた「ドラゴンクロー」を相手に向けて放つ。無論、ポケモンにだ。まだユキナリの中では整理がついていない。いくら戦わなければならない相手だとしても殺す事まで厭わないほど残虐ではなかった。だが、次のヤナギの言葉が、その認識の甘さを決定付ける。
「俺をあえて外すか。嘗められたものだ」
瞬間、大剣の切っ先が震える。恐怖か、とユキナリは判じようとしたがそれよりもなお本能的な反応だ。
これは身体における反射である。身体が震え出す状況。以前のヤナギの戦法とカスミから聞いた話をすり合わせ、現状況を分析した。
「凍結攻撃……」
「調べたのか。あるいは誰かが喋ったか。まぁ、いい。分かっていてドラゴンタイプを使っているのならば、とんだ愚者だ」
大剣が切っ先から瞬く間に凍て付いていく。ユキナリは解除を命じようとしたがそれよりも相手のほうが速い。ヤナギの声が響く。
「瞬間冷却、レベル3」
青い光の大剣はそれそのものにほとんど質量がないはずだが、今になってはオノンドの重荷になっていた。展開した大剣が牙まで至り、オノンドの動きを制限している。ユキナリは、「牙で砕け!」と指示するしかない。叩き割ろうと顔を振り上げて、オノンドは硬直する。それが決定的な打撃になる事を予見したように。
「トレーナーは愚鈍だが、ポケモンのほうは理解しているらしい。そのまま叩きつければ、支えとなっている牙ごと砕けるぞ」
まさか、それほどまでに凍結は侵食しているというのか。ユキナリが確かめる前に、「遅いな。何もかも」とヤナギが指を鳴らす。
「牙を触媒にして攻撃。瞬間冷却、レベル2」
オノンドの顔面を凍結が襲った。当然、目を開けていられなくなりオノンドが首を振る。視界を奪われたオノンドへとヤナギが声を差し挟む。
「弱いな。さっきよりもレベルを下げてやったんだぞ。レベル3未満の凍結で充分な効力が得られるな。マンムーに指示するまでもなかったか」
マンムーという名前らしいポケモンは丈夫そうな一対の牙を突き出している。ユキナリの胸を焦燥が掻き毟る。このままでは何も出来ずにやられてしまう。
「オノンド! 腕だ。腕でドラゴンクロー部分を破砕しろ!」
腕の膂力ならば牙の一撃と同程度が見込めるはずである。オノンドは腕を振り回し「ドラゴンクロー」部分をようやく砕いた。しかし、牙には依然凍結が至っており、顔も塞がれたままだ。
「どうすると言うんだ。目の見えないポケモンで闇雲に戦うか? 俺の位置を正確に指示し、オノンドとやらが迷いのない殺意で俺を仕留めようとするのならば、確かに望みはあるだろう。だが、トレーナーであるお前自身が躊躇っている」
その通りだった。まだ人殺しをしたくないという意思がブレーキをかけている。ヤナギは頭を振って、「だから、まだ弱い」と告げた。
「その域に達していないのならば、俺の前に立つ事も敵わない。せめて、頭を垂れて無力感に打ちひしがれる事だ」
オノンドの動きが鈍る。目を凝らすと足元から凍結が這い登ってきていた。このまま判断を彷徨わせていればいずれ自分もオノンドも敗北する。もう二度と、負けたくない。逃げたくなかった。
「オノンド! 三メートル跳躍して直下の相手へと牙を打ち下ろせ!」
ついにユキナリにその判断をさせた。オノンドが体勢を沈み込ませ、脚に力を込めて跳躍する。三メートル先――そこにはヤナギが佇んでいる。
「その判断をついに下したか。だが、全てが遅い、とだけ言っておこう」
その言葉を解する前に、オノンドが空中で静止した。何が起こったのか、ユキナリが振り仰ぐと氷の糸がオノンドを絡め取っていた。
「空気中の水分から生成した糸だ。お前らが俺への攻撃を躊躇っている間に張らせてもらった。オノンドは、動けば動くほどに氷の糸が締め付ける」
氷で作られた、と言ってもその柔軟さは本物の糸に匹敵する。さらにオノンドの表皮を鋭く傷つける攻撃だった。
「ドラゴンタイプでそもそも俺へと立ち向かう事がどうかしている。マンムー、氷柱を展開しろ。二十三本、包囲陣」
ヤナギがオノンドを指差すと空気中から少しずつ氷柱が形成されていった。小型の氷柱はオノンドを囲い込み、その針先が一斉にオノンドへと向けられる。
「この攻撃は脳幹に一撃、頚動脈に二発ずつ、さらにその他の重要箇所にきちんと一撃ずつ配置出来ている。オーキド・ユキナリ。敗北を宣言してももう遅い。ここでお前と、お前のポケモンは殺す」
断じた声にこの相手は本気だとユキナリは感じ取る。本気で自分とオノンドを殺す気なのだ。だとすればますます分からなかった。
「どうして、キクコと顔見知りのお前が、ここまで僕に敵意を剥き出しにする?」
「それが分からない時点で、もうお前は俺へと問いを重ねる権利はない」
その声にユキナリは拳をぎゅっと握り締め、腹腔から叫んだ。
「この、分からず屋!」
呼応したオノンドが牙から青い光を纏いつかせる。まさかこの姿勢から攻撃するとは思ってもみなかったのだろう。ヤナギの判断が一瞬、遅れた。
「氷柱で攻撃を――」
「ドラゴンクロー、拡散!」
短剣と化した「ドラゴンクロー」がそれぞれ短剣の前へと据えられる。短剣は氷柱と相殺し、お互いが潰し合った。見た事のない攻撃だったのだろう。ヤナギの顔が驚愕に塗り固められる。
「何だこれは」
短剣が糸も断ち切ったらしい。宙吊り状態だったオノンドが着地し、獰猛に牙を振るった。
「ここで、お前を倒す」
ユキナリの声にオノンドが応ずるように吼える。ヤナギは一瞬だけ呆気に取られた様子だったがすぐに持ち直した。
「だからどうだと言うんだ。ドラゴンタイプでは氷には勝てない。何度も同じ事を……」
ヤナギが手を振り翳す。それと同時に声が放たれた。
「言わせるな!」
冷気を纏いつかせた衝撃波がオノンドを見舞う。オノンドは両腕を交差させて防御の姿勢を取るが凍結は表皮を覆い尽くしていく。
「瞬間冷却、レベル2」
オノンドの顔を覆っていた氷の膜がより厚くなっていく。眼も開けられないオノンドを見やり、「どうする?」とヤナギが声を上げた。
「俺の位置を正確に教えたところで、また同じ憂き目に遭うだけだ。かといって立ち止まっていれば、冷却攻撃は確実にオノンドを蝕む」
ユキナリはその言葉に対する解答を既に持ち合わせていた。オノンドの名を呼び、ユキナリは前を向く。
「片腕でも、動くな?」
オノンドが腕を掲げる。ユキナリは頷き、「ドラゴンクローをその腕に展開」と命じた。青い光が腕に鉤爪のように装着される。しかし、その腕で攻撃出来る範囲に敵はいない。
「どこを攻撃するつもりだ。言っておくが、射程範囲に入る前に、瞬間冷却は確実にオノンドを絶命させられる。まだレベル2なのだからな」
ユキナリはぐっと息を詰めた。これは賭けだ。それも、命の危機を伴う賭け。失敗の許されない一発勝負に、ユキナリは自身の顔をなぞった。その行動の意味をはかりかねてヤナギが怪訝そうに眉をひそめる。ユキナリは口にした。
「ドラゴンクローの攻撃先は、自分の顔面だ、オノンド」
その言葉にヤナギが息を呑む。オノンドは迷う事なく自分の顔を引き裂いた。氷の膜を切り裂いてその内側、額の表皮から血が迸る。オノンドが激痛に咆哮する。しかし、その視界は晴れていた。氷の膜が砕け散り、オノンドは額に十字傷を作っていた。
「左目にも傷を負わせてしまった。トレーナー失格かもしれない。でもオノンド。僕達は、今! 勝つために!」
オノンドの額に走った十字傷が赤く光を帯びる。拡張した十字の光がオノンドを包み込んだ。赤い光が卵の殻さながらにオノンドの周囲に広がり、次の瞬間、弾け飛んだ。
そこにいたのは最早、オノンドではない。
牙は扇状に広がって固定され、体表は甲殻めいた鎧と化した。二倍近くに体長を伸ばしたそのポケモンが最も特徴的だったのは身体から立ち上るオーラだ。黒い霧のようなオーラが全身から迸っている。体色も灰色や黒に近い。赤いのは煌々と敵を見据える瞳と、斧の形状になった牙だけだ。斧の牙はまるで熱したばかりの鉄のように赤く光を発している。
「進化した……。これは、このポケモンは……!」
「いけるか?」
その言葉に斧牙のポケモンは轟と吼えた。大気が恐れに震える。マンムーも茶色い毛並みを震わせていた。ヤナギは、「それでもドラゴンタイプだろう!」と片手を開く。
「氷に弱いのには違いない。瞬間冷却、レベル2!」
放たれた凍結の息吹に斧牙のポケモンは首ごと牙を振るい落とした。その瞬間、キィン、と何かとぶつかり合う音が木霊する。次の瞬間には凍結の膜が引き裂かれていた。ヤナギが瞠目する間に、斧牙のポケモンの放った攻撃がマンムーに直撃する。マンムーは低い呻り声を上げた。
「瞬間冷却を、相殺した?」
ユキナリ自身、信じられないが今の攻撃ならば分かる。あれはキバゴの時、空牙で放った攻撃と同じだ。相手の攻撃を受け流し、キャンセルする。この斧牙のポケモンはキバゴの時の経験をきちんと活かしている。紛れもなく自分のポケモンであった。
「もう、瞬間冷却は通じない」
ユキナリの言葉が癇に障ったのだろう。ヤナギは怒りに顔を歪めて、「ふざけるなよ」と押し殺した声を出す。
「たかがレベル2の瞬間凍結を無効化した程度で! 震えろ! 瞬間冷却、レベル5!」
重力が倍増したかのようなプレッシャーを伴って瞬間冷却の波が押し寄せる。この斧牙のポケモンでも、あれは無効化出来ない、というのは分かった。だが勝たなくては。勝って、正しさを示さなくては。その思いが鼓動となり、ユキナリの内奥から熱となって溢れ出す。脈動する熱は額へと至り、一瞬にして弾け飛んだ。その思惟の一端が、斧牙のポケモンへと繋がる。
一つだけ、この状況を打開する攻撃が思い浮かんだ。否、思い浮かんだ、というよりかは逆流してきた、というのが正しい。斧牙のポケモンの中にある攻撃方法の一つがユキナリの脳内へと差し込んできたのだ。
「これを、使えって言うのか……」
確信の得られないものではある。だが、今の自分には信じるしか出来ない。斧牙のポケモンが示したものを。暴走などしていない。このポケモンは自分に道を示した。これまでのように。あるいは、これからのように。
ユキナリは首肯し、「やろう」と呟いた。
瞬間冷却の寒波が斧牙のポケモンを捉えるより先に、ユキナリは指鉄砲を作りヤナギへと向けた。斧牙のポケモンから立ち上る黒い瘴気のようなものが眼前へと固まっていく。牙に伝った血脈から赤い磁場が走り、黒い瘴気を絡め取った。
空間さえも歪める瘴気が集束し、赤い磁場が一際輝き、雷鳴の光と呼応する。
「放て! ドラゴンクロー!」
一閃された攻撃はしかし、オノンドの時とも、キバゴの時とも異なっていた。黒い剣閃が拡張されて放たれる。赤い磁場が迸り、その一撃が目の前の景色を空間ごと断ち切った。