第七十八話「崩落の序章」
「今、キャッチしました」
オペレーションルームの扉の前で壁に背中を預けている少年が呟いた。水色の髪を髷のように結っており、幼い顔立ちでありながら眼には強い決意の輝きがある。
「そうか。フウ。君の見立てではどうだ?」
訊くと、「野暮でしょう」とフウと呼ばれた少年が答える。
「オーキド・ユキナリは来ますよ。確実にね」
待ち望んでいた瞬間であった。キシベは笑みを深くしながらオペレーションルームの人々に通達する。
「ここを最上の舞台にしようじゃないか」
「キシベさん。ロケット団員で迎え撃つんですか?」
ヤマキの言葉に、「そうじゃないよ」とキシベは答える。
「よく聞いてくれ。シルフを捨てる」
その言葉にその場にいた全員がどよめいた。シルフカンパニーを捨てるなど考えつかない事だったからだ。
「でもこのヤマブキの本社を捨てるなんて、見限る、って事ですか」
「そうではない。ただヤマブキシティにあるこの本社ビルはもう必要ない。あの社長にもご退陣願いたいものだが、まぁ、彼は今の役職にすがりつくだろうね」
自分にとってシルフ本社の社長は使い捨てである。元々、利権目的の役員の天下り先であったシルフカンパニーだ。当然、保身の事しか考えていない輩である。
「大きな目的のためには時折思い切った判断が必要だ。こちらの手にはマサキがある。研究分野の躍進についてはシルフカンパニーにこだわる必要はない。新型モンスターボールの生み出す利益についても、くれてやればいい。我らロケット団には関係のない事だ」
「しかし、キシベさん。確実に離反者が出ますよ」
そうなった場合、困窮するのは目に見えている。ヤマキのそういう冷静な判断力は感嘆に値した。
「ヤマキ。だからこそ君のような賢明な部下を置いているのだ。私はこのヤマブキを離れなければならない。まだ、彼の旅のために私が姿を現すのは早いのでね」
彼、という言葉が誰を意味するのかこの場にいる人間ならば周知の事実だろう。誰一人として抗弁を発しようとはしなかった。
「ついて来られない者はいい。その判断もまた賢明だ」
その言葉に、一人、また一人とオペレーションルームから離れていく人々があった。だが彼らにはもう未来はない。ロケット団として活動していた以上。それを理解して離れていく者は稀だ。むしろ理解している者はこの場から離れようとしなかった。
「俺はついていきますよ」
ヤマキが立ち上がって挙手敬礼をする。他に残った人々も同じように踵を揃えて敬礼した。残ったのは十人前後。ちょうどいい人数だ。
「これから説明をしなければならないだろう。ゲンジ殿やイブキ殿にも」
キシベがオペレーションルームを出ると他の人々もそれに続いた。最早、この場所に意味がない事を悟ったのだろう。
「どうします? ポーズだけでも防衛作戦に出ますか?」
「いや、貴重な戦力をここで見せてやる必要はないだろう。防衛しようとするのはあくまでシルフお抱えの人々だ。我らロケット団には関係のない事だよ」
「怖い怖い。キシベさんはシルフという頭を挿げ替えるつもりですか」
伝令担当であったフクトクという名前の団員が尋ねる。キシベは、「シルフの存続にこだわる必要性はないさ」と答えた。
「長い目で見れば、シルフの興亡など些事に過ぎない。そりゃ、このポケモンリーグという盤面は少しばかり傾くだろうが、我々ロケット団の目指すものからしてみれば、やはり些事だよ」
ロケット団がそれだけ遠くを見据えているという証明でもあった。フウがキシベの隣に歩み出て、「ランからによると」と捕捉する。
「他三名、後からついてくるそうです。こちらはどうします?」
「今日結んだばかりの同盟を使わせてもらおう。シロナ・カンナギ様へと伝令、打てるか?」
「件名はどうします?」
フクトクが既にノート端末を手に打ち込もうとしている。この場にいるロケット団員は代えの利かない人間ばかりだ。有能な人間ほど自分がどの場所に適しているのかをきちんと把握する事が出来る。
「防衛任務の依頼とでも打っておいてくれ。後は社長が意地でも守ろうとするだろう。我々はその間にヤマブキシティを出立。クチバシティの港からグレンタウンへと赴こう」
「ポケモン研究所ですか? という事はフジ博士と本格的に提携を結ぶので?」
「ああ、それが一番だろう」
フジ博士の研究は円滑の段階に入っている。そのためのデータは自分が取りにいかねばならないだろう。
「残った精鋭部隊で私はふたご島へと寄る。最後の大仕事があるのでね」
「伝説の三鳥の一角ですか」
ヤマキが口にした言葉に、「我々なしで大丈夫で?」とフクトクが尋ねた。
「仮にも精鋭部隊だよ。なに、新型のモンスターボールは伊達ではない。それを扱う術も心得ている連中ばかりだ」
「歯がゆいですね。こういう時、エンジニア脳は何も出来ない」
ヤマキが口惜しそうにこぼす。キシベは、「君達の生存こそがロケット団の要だ」と言った。
「これから先に我々の栄光があるとすれば、それは君達の支えに他ならない。どうか、無用な血を流さぬように気を引き締めよう」
「死ぬのはシルフの連中だけでたくさんですからね」
ヤマキの発した皮肉に、「違いない」と笑い声が起こる。この場にいる人間だけが持ち得る共感が胸を満たしているのが分かった。
「さて、日が暮れるまでにはシルフカンパニーからは我々の情報はごっそりと消えていて、後に残った人々がどう奔走するか、見物だが、見物する余裕もないのが残念だよ」
「――とか考えているんでしょうね。キシベの性悪は」
イブキは地下の廃棄ブロックでそう愚痴をこぼすと、「そう悪い事だけでもありまへんで、姐さん」とマサキがキーを叩く手を休めずに振り返った。
「見ないで打てるの?」
「ブラインドタッチくらいお手のもんですやん。何なら姐さんにだってブラインドタッチしますけれど」
わきわきと手をくねらせたマサキをイブキはブーツで蹴りつけた。文字通り尻を叩かれたマサキが、「冗談ですやん」と目の端に涙を浮かべた。
「さっき来ていたわ。緊急招集」
ポケギアに届いていた召集命令と、クチバシティへの合流作戦がある。マサキは、「ワイにも来てましたよ」とポケギアを掲げる。
「どうやらワイも必要な人間ってわけですな」
「キシベにとって都合のいい、でしょうけれど」
ここ二日間程度で分かったのはキシベの目的だが、イブキは未だに信じられない。そのような夢物語が本当に完遂出来ると思っているのか。
その感情が顔に出ていたのだろう。「酷い顔ですね、姐さん」とマサキが声をかけた。
「そりゃ、ワイかてあの最終目的には背筋が震えるものがありましたけれど、でもキシベのこれまでの動きを累積したら、まぁ導き出せん事もないですし」
「あんた、随分と冷静なのね」
自分も切り捨てられるかもしれないのに。イブキの声音に、「エンジニアってのは先の先を見据える仕事です」と応じる。
「十年後、二十年後にどうなっているのかの未来。その上で仕事をこなすのが一流。目先の今さえよければ、って仕事やないんですよ。そういう点ではキシベも同じ畑の人間、においで分かるもんです」
「最終目的をロケット団、それにシルフカンパニーに売り込むって手段は考えなかったの?」
マサキはキーを叩く手を休めない。じっとディスプレイを眺めている。それも未来を見据える事のうちなのだろう。
「現実的やありません。シルフの株は大暴落するし、ロケット団かて、さらに裏の組織になるでしょうし。今までシルフを隠れ蓑にしていた組織が次に目指すものは、というと」
エンターキーが叩かれるとその先が導き出される。カントーのマップが示され、南端にある小島がピックアップされた。グレンタウン、とある。
「グレンタウンにあるポケモン研究所。シルフとは別系統の財閥が支配している場所やね」
「財閥なんて今どきあるの?」
「それが姐さん、あるんですよ。シルフやデボンの陰に隠れとるさかい、見えにくいだけでね。昔ながらの、っていう血脈は強いですよ。新参のベンチャー企業であるシルフやデボンなんか赤子同然。そういう輩は政界にも通じてますからね」
政界。その言葉にイブキは、「キシベは、国崩しでもするつもりだと思う?」と尋ねた。マサキは、「キシベがやるまでもないんやないかなぁ」と呟いた。
「もうこの国は空中分解寸前。その寸前のところで時間を止めるために、このポケモンリーグは行われている。いや、正確には時間を戻すため、やけど、どちらにせよ、民草なんて屁とも思っとらへんっていうのはキシベの最終目的からしてみても明らかでしょう?」
マサキの言葉は淡々としているが正論だ。最終目的を知った自分達はどう行動すべきなのだろう。
「どちらにせよ、キシベが人間離れしとる言うたかて、まだ人間臭い。ワイのデータ収拾能力、甘く見とるとことかなっ!」
マサキがエンターキーを押すと全てのデータが小さなロムに焼き写された。それを取り出し、マサキは不敵に笑む。
「これでキシベの目的とロケット団の任務工程表は手に入りました。あと、姐さんがご執心やったオーキド・ユキナリに関するデータも」
どうやらマサキが手を回しておいてくれたらしい。イブキは、「どう、って?」と訊く。
「何でこんな一個人のトレーナーのデータがシルフの重厚なセキュリティの向こう側にあるのかワイもこの手にするまで分からんかったけれど、キシベの目的と擦り合わせれば見えてくる。――特異点。それを二つ保持する事こそがロケット団の、いいや、キシベの目的」
マサキの声にイブキは背筋が凍る思いをした。まさかユキナリというトレーナーを使ってそのようなおぞましい計画が実行されようとしていたとは。
「散発的にロケット団員を配置させ、オーキド・ユキナリとその所有ポケモンの覚醒を促す。どうやらここシルフで八割方完成するみたいやね」
入ってきた情報によるとユキナリは単身、シルフカンパニーを襲撃するらしい。当然、一人のトレーナー程度に打ち崩される企業ではないはずだが、今はキシベがわざと隙を生じさせている。精鋭部隊と名付けられた自分を含む腕利きのトレーナー達は出払い、クチバの港へと直行する旨が示されていた。
「シルフカンパニーを捨てろ、と……」
「案外、短い監禁生活やったね」とマサキが皮肉る。
「出るわよ」
イブキが促すとマサキは、「言われんでも」と立ち上がった。データの入ったロムを内ポケットに入れぽんぽんと叩く。
「姐さん、もちろんの事やけれど、キシベの行動予定に加わる気は」
「ないわよ。ここから出る」
イブキの目的はそれだけだった。キシベが何を考えているのか知る。その上で従うべきか判断する。マサキを遣わせた甲斐があった。
キシベは悪魔だ。これ以上、悪魔の好きにさせておくわけにはいかない。
だが真正面から立ち向かって勝てるとは思っていない。そうでなくとも精鋭部隊の中にはドラゴン使いもいると聞く。自分にとって泥仕合になる事は避けたい。それに、シルフカンパニーが擁していたトレーナー、サカキ。彼こそキシベの計画の要だ。そのトレーナーが弱い道理はないだろう。
「でも惜しい事したなぁ。あの廃棄スペース、なかなか居心地は悪くなかったんやけれど」
「あら、一生穴倉で生きていたかったのかしら?」
「冗談。ワイかて日の目が見たいから姐さんの下についとるわけですやん」
マサキは自分の研究さえ売れれば後はどうでもいいのだ。本当のところではキシベの計画に賛同すらしているのかもしれない。だがマサキは反抗を選んだ。何故だ、と今さら疑り深くなる。
「ねぇ、どうして私と行こうと思ったの?」
イブキの問いかけにマサキは、「おもろい返答か真面目な返答、どっちがええ?」と聞き返す。イブキは眉根を寄せて、「真面目に決まっているだろう」と口にする。マサキは肩を竦めた。
「可愛げのないなぁ。ま、だからこそついていく気になった、というのが真面目な返答」
「それ、答えなの?」
イブキが怪訝そうにしていると、「ワイは大真面目やけれど」とマサキは悪戯っぽく微笑む。イブキにはいちいち取り合っていては埒が明かないと感じていた。一緒にいれば自然と分かった事だ。少しばかり冗談めかした距離感がこの男にはちょうどいい。
「これから地上に出る。その途中でキシベと鉢合わせたら意味ないわけだけれど」
「当然。ワイはそのためのルートを模索しとるわな」
マサキはプリントアウトしたくしゃくしゃの路面図を懐から取り出す。イブキがそれを引っ手繰った瞬間、廊下が赤色光に塗り固められた。
「気づかれた?」
思わず身構える。しかし、警告音が鳴り響かなかった。これはダミーの警告だ。その事実にキシベの計画の工程表を脳裏に描き出す。
「いいえ。始まるのね」