第七十四話「心のぬくもり」
グライオンはハサミを振り翳し空中のストライクへと狙いを定める。
皮膜が風を帯びて広がり、グライオンの速度を向上させた。ストライクは翅を震わせてグライオンの隙を窺う。だが、キクコは身に沁みて知っている。先生の操るポケモンに死角はないと。それでも、立ち向かわざるを得ないのだ。キクコの呼吸が乱れたのを感じ取ったのだろう。「お嬢ちゃん、無茶は……」と釣り人が声を振りかけた。
「無茶じゃ、ないよ。私は、おじさんを救いたいから」
静観していられるほど薄情ではない。キクコは思い切って思惟を飛ばした。ストライクの技構成は理解している。「しんくうは」で接近の機会を窺い、相手に対して間断のない攻撃を浴びせかけるのが得意だ。だがグライオンは地面・飛行タイプ。効果的なダメージが与えられるかどうかは怪しい。
「キクコ。あなたはもっと賢い子だと思っていました」
心底、失望したという声にキクコはぎゅっと拳を握り締める。切れそうな意思の力を繋ぎ止めようとした。
「……先生。わがままを許してください」
「キクコ。あなたは勘違いをしているようですね」
ストライクが真空の拳を打ち出す。グライオンは身をかわしたがこれは接近の機会を窺う嚆矢だ。ストライクが鎌を振るい上げる。「れんぞくぎり」の猛攻を浴びせようとしたストライクとキクコへと、冷たい声がかけられた。
「――わがままが許されるのは、何も知らない人間の時だけです」
グライオンがハサミをストライクの鳩尾へと打ち込んだ。キクコにはその攻撃が自分に浴びせかけられたように感じられた。ただの鉄拳ではない。空気をねじ込みながら放たれた一撃は弾丸のように重かった。ストライクが身をくの字に折り曲げる。グライオンが舞い上がり、ストライクへと風を纏った刃を一射する。ストライクへと辛うじて思惟を戻したキクコはその攻撃を間一髪回避する。
「ツバメ返し……」
受ければただでは済まないだろう。後方へと回り込もうとしたストライクへと一撃が叩き込まれた。グライオンは振り返っていない。前を向いたまま、居合いの勢いを伴って背後へと攻撃を放ったのだ。
「ツバメ返しは必中。回避したところで命中する運命からは逃れられない」
腹部に鋭く傷がつく。外骨格が捲れ、破片が舞い散った。
「ナツキさんのストライクが……」
「教えたはずです、キクコ。即席のコンビネーションなどでは決して勝てない。勝率を求めるのならば最も効率のいい攻撃を与えなさい、と。ストライクの技構成では、どう考えても私には及ばない」
グライオンが直上へと躍り上がり、サソリを思わせる尻尾でストライクの頭部を打ち据えた。ストライクが目を回している間にも攻撃は続く。ハサミが振るわれストライクの翅を引き裂いた。
「ストライク……」
思惟が自分に引き戻されるのを感じた。ストライクはこれ以上の痛みをトレーナーである自分に与えるつもりはないらしい。その潔さは本来のトレーナーであるナツキに似ていた。
鉄の塊の残りを盾にする。だがグライオンはその程度で緩和出来る攻撃力ではない。地表を巻き上げる速度でグライオンが飛び去ると、その腕には岩で固められた刀剣が形作られていた。
「ストーンエッジ……」
直撃すれば瀕死は免れない。キクコは必死に、避けて、と命令を飛ばそうとするがストライクは既にボロボロだった。翅は擦り切れ、鎌は刃毀れしている。外骨格のそこらかしこには亀裂が走っていた。
「ストーンエッジを受ければ、虫・飛行タイプのストライクは大打撃を負います。キクコ、今ならば許しましょう」
その言葉に顔を上げると先生が釣り人を指差した。
「その大人を殺すのです」
何を言っているのだ、とキクコが目を戦慄かせると、「出来るはずですよね?」と先生が確認の声を被せた。
「今まで何人殺してきたのです? 伊達に殺しを重ねたわけではないでしょう? たとえ半死半生のストライクといえども、首を落とすくらい動作もない」
先生はこう言っているのだ。ナツキから交換してもらったストライクを使い、自分の手で釣り人との因果を断ち切れ、と。
「……で、出来ま――」
「出来ない、などとは言わないですよね? 何の変哲もない一般人。殺したところで何があるのです? 価値基準の話をしましょう。長い目で見れば、この大人一人が死んだところでカントーにとっては痛手にはならず、むしろ庇護すべき対象が減って喜ばしい。こういう大人が将来、税金を食い潰し、無為に生き、呼吸し、カントーの大地を擦り減らすのです。今ならば、堅実な判断が出来る。キクコ。目的を達成してからの間引きは反感を買います。何者でもないあなたならば、出来るはずですよ」
何者でもない自分。キクコはその他と入り混じって仮面を被っていた頃を思い出す。
――私以外の私がたくさんいて、その中で私は選ばれた。
それだけでも充分に価値がある事だ。無価値のまま、自分は消費されるかもしれなかったのだから。ここで足掻く事は先生の期待を裏切る事になる。先生の教えは絶対だ。
キクコは釣り人へと目を向けた。釣り人は恐れておらずキクコを見つめ返す。その眼差しの意味がキクコには最初、分からなかった。この状況で怯えるのならば分かる。慄くのならば理解が出来る。だというのに、どうして殺人者である自分を信じられるのだろう。
「この子に、殺しはさせねぇぞ」
釣り人は反抗の光を双眸に湛えて先生を睨んだ。先生は手を開きグライオンへとストーンエッジを促そうとする。
「やりなさい。やらねばポケモンが死にますよ」
ストライクを選ぶか、釣り人の命を選ぶか。キクコは判断に立たされていた。釣り人は逃げ出そうともしない。どうしてなのか分からない。
「おじさん……」
殺す側である自分のほうが怯えている。臆している。釣り人は、「卑怯な手段を使うんじゃない」と先生を糾弾した。
「子供にそんな残酷な選択を迫りやがって。自分のポケモンか他人の命かだ? どちらにせよ、お嬢ちゃんは汚れ仕事を背負う事になる。そんなの、俺は御免だね。ギャラドス!」
ギャラドスが緩慢な動作でグライオンを仰ぐ。何をするのか、と今さら尋ねるまでもない。ギャラドスの破壊光線でグライオンを叩き落そうと言うのだろう。キクコからしてみれば、無謀以外の何者でもない。
「お荷物になるくらいなら、俺は戦う!」
その身体のどこにそんな力があるのだろう。その心のどこにそのような勇気があるのだろう。釣り人とギャラドスは果敢に立ち向かった。破壊光線のエネルギーが集束する。先生は舌打ちを一つ漏らし、手を振り下ろす。グライオンがストーンエッジを掲げて一直線にギャラドスへと降下した。ギャラドスが破壊光線を放つ。グライオンは回避するまでもないと感じたのか、岩の刀剣で破壊光線を切り裂いた。ギャラドスの眉間へと切っ先が向けられる。
「させない! ストライク!」
声に呼応して弾けたストライクの身体が最後の力を振り絞ってグライオンの前に立ち現れる。先生は手を薙ぎ払った。対応したグライオンが岩の剣を薙ぐ。
「邪魔です!」
ストライクは咄嗟に鎌を交差させて防御の姿勢を取ったが意味を成さなかった。鎌と、盾代わりに使っていた鉄の塊が断ち切られる。鎌はボロボロに砕けて空中を舞った。肘から先が生き別れになる。
ストライクを斬ったグライオンはそのままギャラドスへと直進しようとした。だが、その時釣り人が声を上げた。
「何だ? あれは」
釣り人の視線に先生も目を向ける。
空中のストライクを中心として妙な動きがあった。砕け散った鎌と鉄の破片がまるで天体のようにストライクを軸に回転する。ストライクは宙を舞ったまま、鉄と自分の身体から飛び散った破片が集合するのを見ていた。鉄が磁力のようなものを伴って鎌の破片と繋がる。極微少な破片同士が接着し、ストライクへと寄り集まっていく。それはさながら惑星の誕生であった。細やかな破片が球形となり、ストライクを押し包む。ストライクが身体から光を発し、破片を自らのものとして吸収していく。
「何をしているのです!」
先生が悲鳴のような声を上げる。キクコは、「私がどうこうしたわけじゃない」と告げた。
「ストライクは、多分分かっていた。それが自分にとって必要である事を。本能的に理解してあれを持っていた。そして一度主の下を離れる事さえも厭わず、自身を戦いの研鑽に置いた。それでさらなる高みへと昇れる事を知っていたから」
先生はハッとして先ほどストライクが持っていた鉄の塊の正体を理解したようだ。
「まさか、メタルコート? 不純物が混じっていて、ただの鉄の塊に見えたけれど、あれは鋼の――」
そこから先を遮るようにストライクから放射された光が一際輝きを増し、破片でできた殻を破った。
そこから現れたのは赤いしなやかな体躯を持つ別のポケモンであった。砕かれた鎌の代わりに赤いハサミがついている。翅にはさらに強固な赤い鎧が備え付けられ、全身が丸みを帯びたシルエットになっていた。それでありながら、鋭い瞳はストライクであった頃の面影を残している。
「……ハッサム。ストライクの進化系」
先生が熱に浮かされたように口にする。キクコは手を上げて開いた。
「ハッサム。グライオンへと攻撃」
ハッサムが空気の膜を両方のハサミへと纏い付かせる。グライオンが岩の剣を振り翳し、「今さら真空破で!」と先生の声が弾けた。
「何が出来る?」
しかしハッサムの攻撃は今までのように空気を撃ち出すのではない、純粋な打撃攻撃となっていた。それでありながら一撃の重さは段違いだ。一瞬にして接近したハッサムに気圧される前に岩の刀剣へと銀色の光を帯びた拳が叩き込まれる。岩が一撃で削れ落ち、破片がグライオンの視界を邪魔する。その隙をついてさらに一撃、グライオンの鳩尾へと正確無比に打ち込まれた。
「真空破じゃ、ない……」
「これは鋼の拳、バレットパンチ」
真空破が進化に伴って変化したのだ。より相応しい形へと。「バレットパンチ」の直撃を受けたグライオンはストーンエッジを砕かれて呆然としていたが先生が持ち直して命令をする。
「バレットパンチ程度で何が! 所詮は虫に鋼タイプが付与されただけの事!」
グライオンはハサミを振り上げて前進する。ハサミからは必殺の一撃の勢いが輝きを帯びていた。
「ハサミギロチン!」
「ハッサム、電光石火」
瞬時にして掻き消えたハッサムはグライオンの真正面にいた。グライオンがハサミを慌てて振るうが、既にハッサムは眼前にいない。どこへ、と首を巡らせる前に背後から蹴りが見舞われた。グライオンが応戦のハサミを浴びせかける前にハッサムが電光石火の速度で離脱する。
「ちまちまとした攻撃で、グライオンは墜とせませんよ」
ハッサムがグライオンの攻撃をいなして次の挙動に移るまでに、先生が声を発した。グライオンは防御特化型だ。それくらい、キクコでも知っている。
「分かっています。でも、このハッサムの特性は軽い攻撃を連続して浴びせる事が何よりも得意!」
ハッサムが弾丸の拳をグライオンへと撃ち込む。グライオンは岩で固めたハサミで防御の姿勢を取ったが岩はすぐさま砕かれる。明らかに攻撃力が上がっていた。先生が、「何故……」と呟き、ハッサムが踵落としをグライオンに与える。攻撃そのものの重さはさほどではない。先生はようやくそれを見抜いたようだった。
「特性、テクニシャン……?」
「そう」とキクコが手を開く。
「ハッサムは自身の攻撃力の低さを、その技量を持って補っている。これが、ハッサムの攻撃」
ハサミが突き出されるかに思われた。グライオンが受け止めようとするがそれはフェイントだ。本懐は薙ぐように放たれた蹴りだった。グライオンの皮膜の一部が破れる。その一瞬の隙をつき、ハッサムが散弾のように連続してハサミの拳を打つ。
「バレットパンチ……! 一撃の重さはなくとも、連携に持ち込めば」
「その力は無限大に上昇する!」
キクコの声に呼応してハッサムがバレットパンチの応酬を浴びせる。先生が口笛を鋭く吹きつけた。
「グライオン、消耗戦はするものじゃありません」
グライオンは先生の指示に従い、大人しく引き下がった。追撃の攻撃を準備するハッサムとキクコに向けて先生は問いかける。
「何故です? どうしてそうまでして凡俗と共にあろうとするのです。あなたの手はとっくに血に染まっているのですよ」
先生の言葉にキクコは衝撃を受けつつも首を横に振る。
「……確かに、私はもう戻れないのかもしれません。それでも、先生、夢を見るのはいけませんか? ユキナリ君やナツキさんと一緒にいると、ぽかぽかするんです」
キクコは胸元を押さえた。殺しを行う自分の行動は冷徹そのものだっただろう。だが、その部分とは違う、何か一線を画したものが芽生えつつあるのを感じた。
「ぽかぽかして、楽しい。先生は、楽しい事についてはぜんぜん教えてくれませんでしたよね。怖いのは、仕舞っちゃいなさい、って事だけしか」
「それがあなたに必要だと私が判断したからです」
キクコには反論出来ない。世界そのものである先生を否定する事など出来なかった。それもまた、一つの、悲しい感情だったからだ。
「私、間違っていたのでしょうか」
「間違っているというのならば、その同行者と共にいるのが間違いなのでしょう。今からでも遅くはありません。執行者としての使命を全うし――」
「破壊光線!」
張り上げられた声に遮られ、オレンジ色の光条がグライオンのすぐ傍を走った。出力を絞られた破壊光線がグライオンの皮膜を焼く。
「先生とやら。それ以上は、部外者だって黙っていられないぜ」
釣り人の言葉と背後を取っているギャラドスに先生は舌打ちを漏らしてからモンスターボールを掲げた。グライオンが戻り、先生の姿が景色に溶けていく。
「そのうち分かります。あなたは、他の場所では生きられないのだという事を」
どういう意味なのか。問い質すような暇は与えられなかった。先生はその場から消失する。どのポケモンか分からないが恐らくはテレポートで移動したのだろう。
「助かった、のか」
釣り人の声にキクコが目を向ける。緊張を脱した光に頭を下げた。
「ごめんなさい。怖い思い、したよね……?」
釣り人は虚勢を張る事はなく、「ああ。びびっちまった」と呟く。
「情けないところ、見せちまったかな。大人ならばしっと反論するべきなんだが、おじさんは弱くって」
「そんな事はないよ」
キクコは頭を振る。その様子に釣り人はきょとんとした。
「そんな事、ないよ」
少なくとも自分は救ってくれた。ヒーローだという事を伝えようとすると、「よせやい」と釣り人は帽子のひさしを目深に被る。
「男はな、守られるのが仕事じゃない。守るのが仕事なんだ。だから、これも、見せちゃ駄目なんだよ」
釣り人が肩を震わせる。恐怖によるものが今になって出てきたのだと知れた。
「泣いているの?」
「これは、心の汗だよ」
強がる釣り人に微笑みを返し、キクコは消え去った先生の行く末を眺めた。先生はもしかしたらこれからも散発的に自分を襲ってくるかもしれない。その犠牲にユキナリやナツキが及ばないとも限らないのだ。キクコは拳を握り締める。
「させない。私が、二人を守るんだから」
だが先生の言葉も正しい。自分は殺人者だ。そんな人間が見せる優しさや強さは正しのだろうか。迷いの胸中に釣り人が語りかける。
「あの、先生とやらはお嬢ちゃんの事を、もう戻れないだの、人殺しだと言っていたが」
釣り人も自分を糾弾するのだろうか。その恐怖に縮み上がっているとふと温かな手が肩に添えられた。
「俺にはそうは思えない。たとえお嬢ちゃんが過ちを犯していたのだとしても、大事なのは今だ。今もお嬢ちゃんの心は荒み切っているのか、どうか」
キクコは自らに問いかける。先ほど先生に発した言葉を思い出す。
「分からない。でも、ぽかぽかするの。みんなと一緒にいると。これって変なのかな?」
自分でも分からない。この感情が何なのか。楽しい、という気持ちが本当のところでは理解出来ていないのだ。だが釣り人は迷わず口にする。
「変なんかじゃない。人間として、誰かと一緒にいて楽しいのは当たり前の感情なんだ。お嬢ちゃんの心に陽だまりが差し込んでいるのならばそれはもう、あの先生の言葉通りじゃないって事だ」
釣り人の飾らぬ笑顔にキクコはくすぐったさを覚えながら、「これが、楽しい、って気持ち……」と呟く。胸の中に、そっと仕舞うように。怖い感情とは違う。柔らかで自分の内側へと染み込んでくる。
釣り人が盛大にくしゃみをした。どうやら先ほど海に落ちたせいで身体を冷やしたらしい。
「ひとまず、陸に上がるか。戻ろう、お嬢ちゃん」
キクコは微笑んで、「うん」と頷く。釣り人が先行する中、キクコは一瞬だけ立ち止まり水平線を眺めた。
「……先生。私は行きます」