第七十三話「大人の役目」
「おーし、釣れるぞー」
釣り人の声にキクコはぱあっと顔を輝かせた。釣り人は先ほどから魔法のようにヒットを連発している。ただし、釣れているのはコイキングばかりだが。
「おじさん、すごいね」
はしゃぐキクコの様子がおかしいのだろう。釣り人は笑った。
「コイキングばかりでお嬢ちゃんにはつまらないもんを見せちまっているかもだけれど」
「ううん。私、釣りって初めて見るから、面白いの」
その言葉に釣り人が怪訝そうな顔をした。
「今どき、釣り初心者か? マサラタウンでも海には通じているだろう?」
「えっ、私、マサラタウンから来たんじゃないよ?」
キクコの言葉に釣り人は呆然としていたが、「ああ、そっか」と後頭部を掻いて訂正した。
「そりゃそうか。今回のポケモンリーグはほぼ全地方だ。海のない地域から来ていてもおかしくはないよな」
どうやら釣り人は自分を他地域の人間だと思い込んだらしい。キクコは正直に、「カントーだよ?」と答えた。
「カントー、なのか。まぁ、さっき持っていたポケモンはゴースト。ちょうどシオンタウンに出るポケモンだし……。でも今は」
釣り人はキクコの後ろにいるポケモンへと目をやる。ストライクが腰につけた鉄の塊で鎌を研いでいた。
「交換したの。ナツキさんと」
「ああ、さっきのポニーテールのほうのお嬢ちゃんね。へぇ、交換。でも次の街はヤマブキか、タマムシか、クチバ、あるいはセキチクだろ? この局面で交換するってのはちょっとどうなんだい?」
釣り人はバッジも後半に折り返した辺りで他人と交換するのは解せないと感じているのだろう。普通ならばそうだ。
「でも、私は大丈夫だから」
「大丈夫って言ったって、やっぱりゴーストのほうが慣れていたんじゃないのか?」
「先生の下で、色んなポケモンの扱い方は習ったよ? 虫タイプはあまり得意じゃないけれどストライクはとても正直な子だから、言う事を聞いてくれると思う」
ストライクと目線を交わし合うとストライクのほうが照れたように顔を背けた。
「そうは見えないけどなぁ……」と釣り人が言うが自分にはストライクの気持ちが手に取るように分かる。
「先生って言うのはポケモンの博士? それともスクールの先生の事?」
キクコは小首を傾げる。ユキナリも似たような事を言っていた。
「違うよ? 先生は先生なの。博士とかスクールのほうは分からないけれど、多分、別だと思う」
「……まぁ、俺も今の制度には詳しくないし、そうそう口出しも出来ないけれど。じゃあお嬢ちゃんはどこから?」
「えっとねぇ、トキワ」
「トキワか。あの街はいい。活気に溢れていて」
その言葉にキクコは首を横に振った。
「街のほうじゃないよ?」
今度は釣り人が疑問符を浮かべる番だった。咄嗟に場所が思い浮かばないのだろう。思案を持て余すかのように顎をさする。
「街じゃないって、じゃあまさか森だとか言わないよな?」
半分冗談で放たれた言葉にキクコは、「森なんて住めないよ」と唇を尖らせた。
「うーん、お嬢ちゃんみたいな気品のある子が住むんならどこだろうなぁ。おじさんみたいにその日暮らしってわけでもないだろうし」
「教えてあげようか?」
「いいのかい?」と釣り人は気安い笑みを浮かべた。キクコは、「本当はあんまり言っちゃ駄目って言われているんだけれど」と笑顔で口にする。
「セキエイだよ」
発した言葉に釣り人が目を見開いた。今の言葉を咀嚼するように繰り返す。
「セキエイ……、セキエイ高原かい?」
まさか、とでもいうような口調だった。キクコは嘘偽りはないので頷くが、釣り人は信じられない様子だった。
「だったらお嬢ちゃんは政府高官の娘か何か……、いや、セキエイに人は住む事を許されていない。何かの間違いだろ?」
笑い話にしようとする釣り人にキクコは、「何で?」と疑問に思った。
「セキエイには私以外にも人が住んでいるよ? たとえば、先生とか」
口にした言葉に釣り人の笑顔が硬直した。難しい顔になって釣り人は口を閉ざす。何か、まずい事でも言っただろうか。確かに先生からこの事実は言いふらしてはならないとは常々言われていた。だが、それほど驚愕に値する事だろうか。自分がずっと住み続けていた場所が。
「……ありえないんだよ、お嬢ちゃん。何かの間違いだ、そりゃ」
キクコの肩を掴んで釣り人が自分に言い聞かせるように言った。しかし、キクコは今さら訂正する気もない。
「間違いじゃないよ? どうしてセキエイに住んじゃいけないの?」
「当たり前だろう!」
張り上げられた声にキクコはびくりと肩を震わせる。見れば釣り人も歯の根が合わないのかがたがたと震えていた。
「だって、セキエイは王の領域だぞ……」
発せられた意味が分からなかった。王の領域とはどういう事なのか。問い質そうとする前に、「こんなところに」と耳朶を打つ声があった。
聞き慣れた声にキクコは振り返る。何日振りだろう。そこにいたのは馴染みのある人物だった。
「先生!」
キクコが喜んで歩み寄ろうとすると、「止まるんだ!」と釣り人が声を発した。その声の尋常ではない響きに思わず立ち止まる。
「何なんだ、あんた……。いつからそこにいる?」
キクコには何ら不思議はない。いつだって先生は突然現れた。今も――たとえその姿が海上にあっても驚くべき事は何もなかった。
「あなたは、もう少し立場を弁えるべきでしたね。俗物に私達の事を言って聞かせたところで」
先生が海の上を歩き、波紋を生じさせる。しかしキクコにはその事実よりも先生の口調に恐怖を覚えた。この言い方はいつも自分を怒る時の響きだ。
「ご、ごめんなさい、先生。でも、私……」
キクコが釈明の言葉を口にしようとすると釣り人がキクコの身体を引き寄せた。
「やめろ。何なんだ、この子も変だがあんたは異常だぞ」
釣り人の言葉にも先生は表情を崩さない。そもそも先生には顔がない。七つの眼が刻み込まれた仮面を被っており、その唇には紫色の紅が引かれている。
「離しなさい、俗物。私達の崇高なる目的に、あなたのような人間は不要なのです」
「崇高なる目的? あんた、この子を使って何をしようとしている? さっきからこの子の言い分はおかしい。もし、あんたがこの子の言っている先生なのだとしたら、一体何を教え込んだ?」
キクコは狼狽した。自分の言い分がおかしいなど露ほども思わなかったからだ。
「答える必要がありますか?」
先生がすっと手を差し出す。その手にはモンスターボールが握られていた。釣り人がぐっと奥歯を噛み締め自身のモンスターボールを抜き放つ。
「おじさん……?」
「ちょっと我慢してるんだ、お嬢ちゃん。この先生って言うのは間違っているんだ」
「で、でも先生は絶対なんだよ?」
キクコの言葉に釣り人は、「絶対なんてないさ」と首を振った。
「誰だって、絶対なんて押し付けられないんだ。それがたとえ親だろうとね」
釣り人がモンスターボールのボタンをドライバーでひねり、ボタンを押し込もうとする。先生は、「無駄な足掻きですよ」と忠告した。
「あなたが守ろうとしているのは鬼の子供です。それには破滅への導き手以外に生きる価値などないのですから」
「……やっぱり、あんたは気に入らないね。子供の未来を奪うもんじゃないよ、先生とやら」
釣り人が繰り出したのは水色の鱗を持つ巨大な龍だった。よくよく目を凝らせば、背びれや髭などにその名残を見つける事が出来るがほとんどの人間は別物だと感じるだろう。際弱と呼ばれるポケモン、コイキングを育てなければ到達出来ない高みである、そのポケモンの名は――。
「ギャラドス。俺はもう枯れ果てた性分だけどな。これから先の未来を担う子供の芽が摘み取られようとしているのを大人が黙っちゃいられないよな」
ギャラドスは大口を開けて咆哮する。その特性は威嚇。相手の攻撃を下げるほどの気迫が約束されているが先生は全く動じる事はない。
「俗物が私に」
先生はモンスターボールを投擲した。出現したのは巨大な両手バサミを誇る紫色のポケモンであった。サソリを思わせる外観だが、空気を纏った皮膜は蝙蝠のそれでもある。猫のような黄金の眼と耳を有していた。このポケモンは自分の身体のうちに異なる生物の意匠を複数取り入れた存在だ。
「グライオン。分からせておやりなさい」
グライオンは両手の巨大なハサミを提げてギャラドスへと獲物を狙いつける目を向ける。釣り人は乾いた唇を舐めて、「久しぶりだな」と呟く。
「お前とポケモンバトルをするのは。言う事を聞いてくれよ。お前は、そうでなくとも血の気が多いんだ。そのせいで、ろくにバトルもさせてやれなかったからな」
ギャラドスは釣り人の命令を待たずにグライオンへと直進する。海上に佇む先生が、「なんと愚策」とこぼした。
「直進しか能がないとは。グライオン、回り込みなさい」
グライオンはギャラドスの突進を難なくかわし、背後からハサミで狙いをつけようとする。だが、その前にギャラドスは口腔を開いてオレンジ色の光を充填させていた。球体を成した光が放射され、弾け飛ぶ。キクコには分かる。今の攻撃は破壊光線だ。その破壊光線を相手にではなく、海面に放った。津波が生じ、先生は舌打ちを漏らして波止場へと引きずり出される。釣り人がにやりと笑った。
「ようやく同じ足場に立ったな。見下されているようで気に入らなかったんだ」
今の攻撃はどうやら先生をこちら側に引き寄せるための策だったらしい。ギャラドスは暴走していたのではなく、釣り人の命令をきちんと忠実に守ったのだ。
「つまらぬ事をするのですね」
先生は衣服に付いた雫を拭いながら口にする。釣り人は、「つまらないわけがない」と断じた。
「これで対等だ」
発せられた声に先生は唇の端を下げた。キクコはよく知っている。その仕草はこちらの挙動をいさめる時に使うものだと。
「対等、ですか」
先生が口元に人差し指と親指を持ってくる。口笛が鋭く鳴らされ、グライオンが急降下してきた。そのハサミがギャラドスの首筋を狙って輝く。ハサミが開かれ鋭い一撃がギャラドスを射抜いた。ギャラドスが口を開けたまま仰け反ったかと思うと波間に倒れ伏す。釣り人は何が起こったのか分からないのか、「何を……」と戸惑っていた。
「ハサミギロチン……」
キクコが代わりに技の名前を呟く。命中した相手に一撃必殺をお見舞いする技だ。命中率は限りなく低い。だが先生のグライオンはそれを確実に当ててくる事は、キクコならば知っていた。
「馬鹿な。そんな命中の低い技、いくら俺のギャラドスが久しぶりの戦闘だからって」
「だから言ったでしょう。凡俗には、何も理解出来ないのですよ」
ギャラドスが身を起こそうするが、今のハサミギロチンは急所をついた。脊椎だ。麻痺した身体を動かす事はギャラドスの巨躯では出来ないだろう。
「大きなポケモンを操ろうと無駄な事。ポケモンでも人間でもたった一つの急所をつけば簡単に死に至る」
グライオンが空気を纏いつかせ、皮膜で風を受け取りながらハサミを振り下ろす。すると衝撃波が生まれ、波止場の脆い足場を突き崩した。瞬く間に迫った衝撃波を避ける事は叶わず、釣り人は破壊の波に呑まれていく。悲鳴が木霊する中、すぐ傍の地面が抉れた様をキクコは目にしていた。
「おじさん!」
「俗物に触れるから、このような事になるのです」
冷たく断じる先生にキクコは首を横に振る。
「先生、こんなのあんまりです!」
「あんまり? だというのならば、あなたはその命綱を切るべきです」
ハッとしてキクコは身構えた。今の一瞬、瞬間的な判断でストライクを走らせ、釣り人を引き上げようとしている。それさえも見透かされているというのか。
「その大人を助けようとしても無駄ですよ。言ったはずですよね? 悪い大人がこの世界にはうじゃうじゃいると。そのような些事に構っている暇はないのです。キクコ。あなたはまだバッジを手に入れてないのでしょう?」
その言葉にキクコは心臓が収縮するのを感じ取る。先生から命じられたただ一つの事柄。それが脳裏に思い起こされる。
――怖いものは仕舞ってしまいなさい。外はあなたの怖いものしかないのですから。
「奪うために、殺し、引き裂き、八つのバッジを手にする。そのためにあなたのような愚図を外に出したのです。あなたは鈍いですが、センスはあなた方の中でも随一。ポケモンをそのために与えてやったというのに、そのポケモンを他人に貸すなど愚の骨頂」
先生は見抜いている。自分のゴーストをナツキと交換した事を。自分の下にはストライクしかいない。ストライクでは万全な命令が行き届かない。
「思惟を飛ばしてポケモンを操る。あなた方に出来るそれは、他の大多数と同じようにポケモンバトルなどというままごとに利用するためにないのです。崇高なる目的のために野に放ってやったのに、恩を忘れこのような辺ぴな土地で時間を浪費するとは」
先生が睨んだのが分かる。仮面越しでも先生は自分の心の奥底にある弱さを射抜く光を灯している。キクコは耳を塞いだ。
「いや、先生、許してください……」
「いいえ、許しません。俗世に甘んじるだけではなく、使命さえも忘れるとは。もう一度、叩き込む必要がありそうですね」
グライオンが身を返し、キクコへと飛びかかろうとする。だが、それを遮った影があった。立ち塞がったのは釣り人だ。
「おじさん……」
「拾ってもらって格好つかない命だけどな。俺は言えるぜ。大人として、あんたは間違っているって。子供の未来を束縛するのが大人じゃないんだ」
ギャラドスが身じろぎする。その身体にはまだ熱い生命の息吹きがあるのが感じ取れた。先生は鼻で笑い一蹴する。
「何になるのです、そのような抵抗。それに私はその子の未来を束縛しているのではありません。長い目で見れば、その子にとってきっとよりよい未来が訪れる。そのために叱責しているだけです」
「あなたのために怒る、ってわけか。でもよ、子供にはそんなお題目を掲げた大人の思惑なんて通じないんだよ」
「理想を掲げないで誰が規範となるのですか」
「規範となるのなら、大人が先んじて危ない橋だって渡ってやる気概を見せてやるもんだ! あんたのやっている事は遠巻きに子供を眺めて、形式で叱っているに過ぎない!」
先生が仮面越しの視線を振り向け、「キクコ、よく見ていなさい」と手を振り上げた。
「このような大人が、道を踏み外す要因となるのです」
グライオンが釣り人へと狙いを変えた。釣り人は、「まだ動けるよな!」とギャラドスに声を飛ばす。ギャラドスは応じて吼えた。尻尾で飛沫を巻き起こし、津波のように直進してくる。先生はしかし、落ち着き払ってグライオンに指示を飛ばす。
「どうやら先ほどの攻撃は甘かったようですね。瀕死レベルで諦めないのならば、殺すしかないようです」
キクコは確信する。先生は本気だ。本気で釣り人とギャラドスを殺すつもりである。覚えずその袖を引いた。
「おじさん! 私はおじさんに傷ついて欲しくないよ!」
釣り人はしかし、首を横に振って鼻筋を擦った。
「心配してくれているのは嬉しいが、違うな、お嬢ちゃん。傷つくのは、間違った大人のほうだ! 俺は間違っていない!」
ギャラドスが口腔内に再びオレンジ色の光を凝縮させる。破壊光線は通じないのだと先ほど悟ったばかりだろうに。
「ほとほと呆れますね。前時代的な猪突猛進攻撃。それが子供の規範たる大人の姿だとでも言うのですか」
「真正面から向かってやれば、子供は応えてくれるんだよ」
釣り人の言葉通りにギャラドスはグライオンに向けて破壊光線を一射する。グライオンはハサミを振り上げあろう事か真正面から破壊光線を弾いた。釣り人が瞠目する。
「分かりませんか? 真正面から向かおうが後ろから騙まし討ちをかけようが、全く縮まない差があるのだという事を」
グライオンは破壊光線をただ弾いたのではない。ハサミを開き内部へと破壊光線の余剰エネルギーを吸収している。次の一撃が決定打になるのは明らかだ。キクコは釣り人を退かせようとした。
「もういい! もういいよ! おじさんが死んだら、悲しいよ」
キクコの言葉に釣り人は引き下がろうとしたが、それでも代えられないプライドがあるのだろう。雄叫びを上げ、「ギャラドス!」と声にした。
「アクアテール!」
ギャラドスが尻尾を振るい上げ、波そのものと同化した攻撃を放つ。突風か、はたまた津波の勢いを伴った水の攻撃はしかし、グライオンが懐に潜り込んだ事で中断された。
「グライオン、躊躇う事はありません。ハサミギロチンで首を落としなさい」
グライオンの一撃は今度こそギャラドスの太い首を断ち割ったかに見えた。事実、銀色の一閃は迷いなく放たれたのだが、それを防いだ銀色があった。空中で断ち割られたのはギャラドスの首ではなく、鉄の塊の一片だった。先生がハッとしてグライオンの攻撃を遮った影の名を忌々しげに口に出す。
「ストライク……!」
波間から飛び上がったストライクが鉄の塊を盾代わりにしてグライオンの攻撃を防いだのだ。呆然としていた釣り人がキクコへと目を向ける。
「お、お嬢ちゃん……」
「キクコ、何のつもりなのです」
先生の問い質す声にキクコは応じる。
「おじさんを殺させたくありません。私は、そう決めました」
今にも膝が崩れ落ちそうだ。それほどまでに先生に歯向かうというのは身体全体が拒否している。だが、それ以上に今は目の前の命を消される理不尽から救いたかった。先生は、「そう……」と呟くとグライオンへと視線を振り向ける。
「対象が変わりました。グライオン、ストライクを戦闘不能にしなさい」