第七十二話「極限進化」
ランは指を鳴らし、「ネンドール」と名を呼んだ。
「光の壁を展開。そうだね、三枚だ」
ネンドールの眼前に三枚の金色の壁が展開される。それはすぐに景色に溶けるようになって見えなくなった。
「何をされたの?」
落ち着け、と自分に言い聞かせる。今のは特殊攻撃を軽減する「ひかりのかべ」だ。こちらが物理攻撃に転じれば言いだけの話。だが、いつもならストライクで接近戦を挑むところにゴーストとなれば使いどころが分からない。「ナイトヘッド」を放つべきだろうが、二度も同じ攻撃が通用する相手だろうか。ナツキはネンドールと呼ばれた相手ポケモンを観察する。
全方位を見渡す眼がある点で言えば、どこから攻撃しても同じに思える。先ほどゴーストを封じ込めようとした技は「サイコキネシス」だろう。間接的な攻撃だからよかったものの、直接叩き込まれればまずい。ナツキは歯噛みする。ストライクと違い使い勝手が分からない分不利だ。ランは、「ふぅん」と訳知り顔になる。
「使い方、分からないんだ。いい事聞いちゃったな」
心臓が収縮する。そうだ、相手は自分の考えが読める。だからこそ、いつもならば目配せで攻撃が与えられるのに、と口惜しい。
「いつもはストライクを使っているんだ? 弱点になるからこっちのほうが有利だけれど、でも変わらないかもね。ゴーストも充分に脅威だし」
ランは指を振って何度か考えを繰り返した後、「よし」と纏めた。
「決めた。ネンドール、光の壁を」
ランが手を開いてすっと下ろす。
「直上から叩き落す」
その声に反応したのはゴーストのほうが速かった。ゴーストがナツキを突き飛ばす。尻餅をついたナツキが目にしたのは先ほどまで自分がいた空間がひしゃげた光景だった。
「何を……」とナツキが声を震わせると、「惜っしいー」とランが指を鳴らした。
「トレーナーを直接叩くってのは無理か。そのゴースト、勘が鋭いみたいだし」
ナツキは今の出来事を反芻する。殺されそうになったのだ。光の壁を防御として使わず、物理攻撃として用いた。その事実にナツキは驚愕する。このランというトレーナーは生半可な気持ちで戦って勝てる相手ではない。
「元々勝ち筋は薄いと思うんだけどなぁ。でも、ようやく理解したってわけか」
ランはそれすらも読んで不敵な笑みを浮かべる。ナツキは膝から悪寒が這い登るのを感じ取った。勝てない、という歴然とした事実が眼前に突きつけられる。どうすれば、という後悔の念がない交ぜになる。その時、ゴーストが前に出た。何をするつもりなのか、と怪訝そうに眺めているとゴーストは片手で黒い球体を練り上げた。分散した球体がそれぞれ、幾何学の軌道を描いてネンドールへと撃ち込まれる。ランは慌てて手を振り翳す。
「光の壁、防御に」
三層の光の壁の前にその球体は消え去るかに思われたがゴーストがくいと手をひねると球体の位相が変化し、三つほどが地中に潜った。「何を……」とうろたえたランへと地中から飛び出してきた黒球がランを打ち据えようとする。それよりも素早く動いたネンドールが光の壁を主の前に張った。ランは寸前のところで眼前に迫った「シャドーボール」を受け止める。ランがナツキを睨むが自分は何も指示していない。それが伝わったのか舌打ちが漏れた。
「指示なしの攻撃。ゴーストも事前に命令を受けた形跡もない。完全に自律的な攻撃だ。驚いたよ、そのゴースト、相当育てられているね」
育てられている? その言葉にナツキは信じられないものを見るような目つきをゴーストに向けた。キクコが育てたのだろうか。それとも先生とやらが? 漠然とした不安を拭い去る前に、「でも私のネンドールには及ばない」とランが声を弾かせる。
「ネンドール。光の壁を叩き込む」
光の壁が頭上へと展開されナツキは戸惑う声を出した。
「ゴースト……」
その声に呼応するようにゴーストが漂って動き、シャドーボールを放つ。片手で薙ぐように放たれたシャドーボールはそれだけでも光の壁の威力を減衰したが、三層のうち一層はナツキの頭上へと落ちてきた。ゴーストが影を拡張させ、ナツキの足元を払う。転んだナツキのすぐ脇の地面を光の壁がめり込んだ。
――トレーナーを狙ってくる。
その確信に、「そうだよ」とランが応じた。
「だって不確定要素の多いゴーストを相手にするよりもある程度考えの読めるトレーナーを潰したほうが早い。ゴーストは主を守る事に躍起になって動きにくくなるだろうし、一石二鳥だね」
ゴーストが振り返り様にシャドーボールを撃ち放つ。ネンドールが前に出て光の壁を防御用に展開した。
「無駄だってば。いくらシャドーボールが強くたって万全のトレーナーとポケモンの関係ならまだしも即席じゃあね。ポケモンだけの判断で勝てるほどバトルは甘くない」
ネンドールが身体から思念を纏い、突き出す。すると前面の地面が捲れ上がり、一直線にナツキへと襲いかかった。
「大地の力を使った! ゴーストの特性ならば避けられるだろうけれど、トレーナーはどうかな?」
真っ直ぐに地面を抉って向かってくる不可視の力は確実にナツキへと狙いを定めている。ナツキは後ずさろうとしたが、その前にゴーストが前に出てシャドーボールを両手で練り上げた。歪曲したシャドーボールが黒い泥の壁になり「だいちのちから」とやらの攻撃を相殺する。ランが口笛を吹いた。
「そういう使い方も出来るんだ。前の主人から教わった奴? でも今の主人じゃそれを使うのにも心許ないよね」
地面が再び捲れ上がり、三方向からナツキを狙う地面の蛇が鎌首をもたげた。ランは、「これをどう防ぐ?」と問いかける。ゴーストはそれに応ずるように両手の指先で鬼火を形成し二つの方向に投げた。予め分かっていたのか、二方向の大地の力の頭を押さえた鬼火は拡散する。その残り火が集積し、真正面から襲いかかってきた大地の力へと叩き込まれた。しかし、残り火程度では大地の力の蛇は防ぎきれなかったようだ。
地面から飛び上がりナツキへと大地の力の牙がかかろうとする。ナツキは痛みに目を塞ごうとしたが、それはいつまでも訪れなかった。恐る恐る目を開けるとゴーストが両手で大地の力の蛇を抑え込んでいる。その牙がゴーストの身体にかかっていた。ランが哄笑を上げる。
「本当に当たった! バカだね! ゴーストの特性は浮遊! 地面タイプの技は当たらないのに自ら当たりに来るなんて!」
ゴーストは通用しない技をわざわざ当たりに来た。何のためか。答えは知れている。
「……あたしを守るため?」
ゴーストは顔を伏せた。どうやら大地の力によるダメージは思っていたよりも深刻らしい。霧散した蛇の代わりに青い光がくねってゴーストへと纏わり付いた。
「サイコキネシス。普通に当てようとしたってどうせ避けるだろうし、大地の力の中に混ぜておいたんだ。主人さえ守らなければサイコキネシスの呪縛なんかに捕らえられずに済んだのに。バカなポケモンだ」
ナツキはゴーストへと手を触れようとする。ゴーストは片手でそれを制した。自分の役目はナツキを守る事。それが無言の主張となって伝わった。
これほどまでに忠義を尽くしてくれているのに、自分は何も返せないのか。
トレーナーとして未熟な自分に対してゴーストは内心腹立たしいのかもしれない。それでもキクコの認めたトレーナーならば、と無理を通してくれている。ナツキは情けなさを感じると同時に首を横に振った。
「……駄目ね。あたし、ユキナリに追いつきたいばかりに基礎を見失っていた。ポケモンとトレーナーは信じるところからまず始まるって。あいつに、マサラタウンで分からせてやったって言うのに、あたし自身はちっとも理解していなかった」
ランが片手を振り上げる。サイコキネシスの蛇はゴーストを締め上げる。このままではゴーストが霧散してしまう。その域まで締め付けがきつくなった時、ナツキはすっと立ち上がった。ランが怪訝そうに声をかける。
「何? 今さら降参なんて聞かないけれど」
「降参?」
ナツキは顔を上げる。その瞳には既に迷いはなかった。研ぎ澄まされた刃の輝きを眼光に携え、ナツキは言い放つ。
「笑わせないで」
ゴーストが片手を振り上げ、サイコキネシスの蛇を掴んだ。無理やり引き千切ろうとする。ランは、「無駄だって!」と笑い飛ばす。
「サイコキネシスは毒・ゴーストの相手には効果抜群。それを打ち破る術なんて、主人なしのポケモンには出来るはずが――」
「主人なら、ここにいるわ」
遮って放たれた声にランはうろたえた。先ほどまでの迷いと頼りなさを吹き飛ばした声音に一瞬だけ気圧されるものを感じたがすぐに鼻で一蹴する。
「そんな頼りないトレーナーなんて!」
ネンドールが眼をカッと開き、サイコキネシスでゴーストをひき潰そうとする。だが、その前にゴーストへと変化が現れた。めきめきと後頭部の棘が盛り上がっていき、身体が拡張する。影になっていた部分が補完され、腕が身体へと仕舞い込まれていく。明らかな形状変化にランは狼狽した。
「こけおどしを! ネンドール! サイコキネシスを全開に――」
「ナイトヘッド」
ゴーストから解き放たれた影の反撃の効力は一瞬にしてサイコキネシスの蛇を消し去った。ゴーストは地に足をつけ、赤い眼光を迸らせる。乱杭歯の並んだ歯を見せながらゴーストタイプは静かに嗤った。
「これが、あたしとこの子に相応しい姿」
ナツキの言葉に呼応するようにゴーストであったポケモンは新たな姿を顕現させ、黒い旋風を作り出す。吼えるとその気迫だけでネンドールが気圧されたのが分かった。
「ゴーストの進化系、ゲンガーか! でも、だからって!」
ランが指揮棒を振るうように両手を上げる。すると盛り上がった大地が蛇の鋭さを伴って直進した。
「私とネンドールには敵わない!」
大地の力の牙は的確にナツキを狙い澄まそうそうした。だが、その牙をナツキは最早恐れてはいない。
「ゲンガー。出来るわよね?」
その言葉に無言の了承と共にゲンガーは片手をすっと上げた。その掌からシャボン玉ほどの黒い球体が作り上げられる。シャドーボールをポンと頭上に投げたかと思うと、シャドーボールはたちまち散弾の如く弾け飛び、大地の力の蛇を叩き潰した。ランが驚愕に目を見開いていると、「そのポケモン」とナツキが口を開く。
「エスパーなのよね。じゃあ、ゴーストタイプは効果抜群のはず」
ゲンガーが前に出るがランは調子を取り戻すように鼻を鳴らした。
「大地の力を潰した程度でいい気にならないで! こっちの主兵装はそれじゃない!」
ネンドールが両手を広げる。すると両側に三枚ずつ、黄金の壁が構築された。
「これで六枚!」
たちまち空気に消えた光の壁が移動する。その行き先はナツキの頭上だった。
「まず二枚!」
ランが片手を振るい落とす。それに対応して光の壁が打ち下ろされた。ナツキは一顧だにせず、「ゲンガー」と名を呼ぶ。それだけでゲンガーは指を一本立てた。指から放たれた光線上のシャドーボールが光の壁二枚を突き破る。ランは狼狽こそしたがすぐに持ち直した。
「次! 二枚カケル2!」
ランが両手を広げるとナツキの両側へと光の壁が二枚ずつ出現する。
「叩き潰す!」
ランが両手を合わせる。すると光の壁はお互いが磁力で引き合うかのようにナツキを潰そうと迫った。しかし、ゲンガーが一歩手前に戻って、両手を突き出す。すると、その手が拡張した。ゲンガーの両手がナツキの身長大まで肥大化したかと思うと、光の壁をその手で押し止めたのだ。ゲンガーは赤い眼をぎらつかせ、天に向かって咆哮した。すると、手が鉤爪の形状となり、光の壁を突き破った。
さすがのランも呆然としていた。まさか展開した全ての光の壁が破られるとは思っても見なかったのだろう。
「終わり?」
挑発的に告げたナツキへとランは、「調子に乗らない事ね」と指差す。
「確かに、君を殺す事は限りなく不可能に近くなかったかもしれない。でも、私のネンドールが、どこへでも転移出来て、自爆できるとしたらどうする?」
ナツキがランを睨み据える。「まさか」という声に、「そのまさかだよ!」とランは応じた。
「このシオンタウン、どこにだってネンドールという爆弾を置く事が出来るんだ。長距離テレポートは封じられていても短距離ならば何の問題もない。シオンタウンぐらいの大きさなら、どこにだって爆弾としてネンドールを配置出来る。さぁ、どこがいい? ポケモンタワーか? それとも君の大事な人の下へか?」
その言葉に咄嗟にユキナリの姿が像を結ぶ。一瞬の心の隙をつき、「その子が、君の大切な人だね?」とランが心を読む。
「その子の位置ならば私からでも分かるよ。イワヤマトンネルか。おあつらえ向きだね。ちょっとの爆発で地盤が崩れる」
「やってみなさいよ」
ナツキの言葉にランは面食らった様子だった。ゲンガーは嗤いながら片手を上げる。その手へと影が寄り集まり、シャドーボールを形成していく。
「そんな事をする暇なんて与えない」
ナツキの言葉にランは舌打ちを漏らした。自分の心を読もうとしているのだろう。ハッタリだと。心の奥底では怯えているはずだと。しかし、ランは次の瞬間、瞠目した。
「……怯えがない。君、本気でそう思っているわけ?」
ナツキは答えない。無言を是にしたナツキへとランは睨みを返した。
「気に入らないね。だったら、お望み通りに!」
ネンドールが転移しようとする。しかし、ネンドールはその場から一切動かなかった。何かがおかしい、とランは感じネンドールを見やる。ネンドールの直下の地面にとぐろを巻いた紫色の眼の文様がある事に気づいたようだ。
「あんたにもよ」
その言葉にランは自分の足元にもその眼の文様が刻み込まれている事に気づき後ずさろうとする。だが、それすら自由ではない。ランは情けなくたたらを踏んだ結果になった。
「これは、黒い眼差し……」
名前を聞いた事がある。黒い眼差しは使用すれば相手を拘束する。何があっても、それからは逃れられない。対象を倒さない限りは。
「ネンドール、どこに爆弾をやるっていうのかしら」
ナツキの挑発にランはぎりと歯軋りを漏らした。
「私を侮辱して……! ネンドール!」
ネンドールの眼から青い粒子が噴出する。それをまるで手のように動かし、鎌首を持ち上げた。ネンドールの眼球八つから出た青い光は帯となり、次に展開された光の壁へと接着する。光の壁をそれぞれ頭部のように番えた八つの光の首はさながら大蛇のようであった。
「全包囲攻撃。ネンドールのサイコキネシスと光の壁のコンビネーション。これだけじゃない!」
ランが叫ぶと八つの青い光の首のうち三つが地中へと潜った。残り五つの首と地中を這い進む首をナツキとゲンガーは相手取らねばならない。
「大地の力と組み合わせた。光の壁を攻撃に組み換えた時の破壊力は言わずもがなだよね? ゲンガーの特性が浮遊だろうと、地中からの三つの首がトレーナーを捉え、五つの首を相手にするのは少しばかり不利じゃないかな」
「でも、これではっきりしたわね」
ナツキの余裕ありげな声にランは苛立たしげに口にする。
「何がさ!」
「あんたはあたしを相手にするしかないって言う事。誰かを人質に取ったり、逃げたりする事は出来ない」
「逃げる? バカを言え!」
ランは左胸に留めた赤いRのバッジへと拳を当てて宣言する。
「我らロケット団は相手に背中を向けなどしない!」
解き放つようにランが手を開くと光の壁が青いサイコキネシスの光に包まれて変形した。大蛇のようであった、という印象は間違いではないらしい。光の壁はそれぞれ蛇の頭部へと変形を遂げた。
「噛み砕かれろ!」
大蛇の首と化した光の壁の群れが殺到する。地面から三つ、空中から五つ。ナツキは空中の五つへと狙いを定めた。
「シャドーボールで薙ぎ払って」
ゲンガーが掌からシャドーボールを一つ出し、天高く投げたかと思うと、自身も跳躍しシャドーボールを弾いた。スパイクされた黒球は散弾の鋭さを伴って五つの目標へと突き刺さる。光の壁が霧散し、青いサイコキネシスの首が根こそぎ吹き飛ばされた。だが地を這い進む三つには攻撃は間に合わない。
「地の三つを止める術はない!」
勝った、とランは高笑いする。だが、ナツキの胸中は冷静だった。冷静に事がどう進むのか俯瞰している。ランにも見えたはずである。自分の心の中が。
「……何故だ。どうしてそうも冷静に」
「もう、ゲンガーを信じているからよ」
「だから、地面を走る三つを止めようなんて、もう――」
そこに至ってランは言葉を切った。ナツキの心を読んだのだろう。その顔からは血の気が失せた。
「……最初から、そのつもりはない?」
それを裏付けるかのように跳躍したゲンガーは着地するや否や、ネンドールに向けて駆け出した。ランはハッとする。
「まさか、自分への直接攻撃をあえて無視させて、本丸を潰しにかかるだって?」
今までのナツキならば、自分への守りを集中させようとしただろう。だが、戦っているのはポケモンだ。そして、その背中を見守るのがトレーナーの本分である。ニシノモリ博士に教えられた教訓が今になって生きてきた。ユキナリの模範でありたいのならば、自分は決して逃げてはならない。
ナツキの覚悟を感じ取ったのか、それとも迫るゲンガーの気迫に恐れを成したのか、「ネンドール!」とランは叫んだ。
「光の壁を新たに再展開! 現状展開出来る最大枚数だ!」
その言葉にネンドールの眼前へと五枚の光の壁が形成される。しかし、ゲンガーは速度を緩めない。それどころか両手を脇で合わせ、黒い球体を練り始めた。
「シャドーボール……。だが、特殊攻撃を半減する光の壁を五枚張っている!」
その瞬間、地面から光の壁を頭部に据えた青い蛇が三匹飛び出す。ナツキへと食いかかろうとした、まさにその時、ゲンガーが動いた。ネンドールへと直進し、次の挙動にランが目を瞠った。
「シャドーボールを撃たない?」
ゲンガーは両手に溜めたシャドーボールを放射しなかった。シャドーボールを射撃以外に使う用途がランには思い浮かばないらしい。
「どうする気?」と強気な眼を向けてくるランへとナツキは自身の心のうちを包み隠さなかった。ランはその術中を見たのだろう。そして慄いた。
「……まさか」
「そう。シャドーボールは撃たない。掌に展開したまま、シャドーボールを湛えた拳で、光の壁を打ち砕く」
ゲンガーがシャドーボールを握り締め、指の合間から影が漏れる。紫色の残像を引く拳をゲンガーは光の壁へと叩き込んだ。一発目はさほど強いものではなかったが、手応えを感じ取ったのか、次の攻撃からは鋭かった。紫色の残像を刻み、幾重にも拳の応酬が光の壁を震わせる。ゲンガーのラッシュは速い。瞬く間に空気の壁を破るまでになった拳が一枚目の光の壁を破った。
ナツキへと蛇が食いかかろうとする。それと二枚目、三枚目を破ったのは同時だった。ランの集中がネンドールへと戻っていく。ゲンガーは遂には蹴りさえも使ってきた。
「ゲンガーで、接近戦だと!」
「悪い?」と今にも蛇に襲われそうなまま、ナツキは事もなさげに返した。
「あたしの十八番戦術よ」
ストライクは接近戦を得意としていた。ゲンガーで出来ない道理はない。ランは舌打ちを漏らし、「ネンドール!」と叫ぶ。ネンドールの短い腕の筒先がゲンガーへと向けられる。そこから迸ったのは思念の光線だ。サイコキネシスを短距離の光線として用いたのである。だが、ゲンガーは軽いステップでかわす。
「この素早さ……!」
返す刀で振るわれた裏拳が四枚目を突き破った。あと一枚だ。
「押し切る!」
ネンドールの真正面の瞳がカッと開き、そこから青い光条が放たれる。光の壁を押し出してゲンガーを追いやろうというのだ。ナツキは雄叫びを上げた。
「ゲンガー! 最後の一枚よ! 打ち破れ!」
眼前に迫った光の壁をゲンガーは恐れる事なく、拳を突き上げた。アッパーカットが光の壁をぶらす。その振動に操っているネンドールまでも引っ張り込まれた。
「今よ! 蹴破って接近!」
ゲンガーは逆立ちのような姿勢で両足蹴りを放つ。最後の一枚の光の壁が破られ、ネンドールは丸裸も同然だった。
「ネンドール、サイコキネシス!」
最早策などないのだろう。こちらも同じだった。真正面からの打ち合い。どちらが速いかで決まる。ゲンガーは今まで溜めていたシャドーボールの射撃姿勢に入った。指鉄砲を番え、ネンドールへと照準を向ける。
青い光が上下から纏いつき、ゲンガーを圧搾しようとする。ゲンガーは指鉄砲から凝縮されたシャドーボールを放った。シャドーボールの弾丸は正確無比にネンドールの身体の中心を捉えた。着弾部からねじ込まれ、ネンドールの眼から生気が失せていく。
ネンドールが落下するのと、必殺の勢いを伴った攻撃が中断されたのは同時だった。
ゲンガーは無事だ。それを確かめた後、ナツキは今にも崩れ落ちそうな膝を持ち直す。まだ、倒れるわけにはいかない。極度の緊張に晒された神経が萎えそうになるが、ナツキは最後の最後まで使命を全うすべきだと感じ、その神経だけでランの下へと歩み寄る。
ランはネンドールを倒されたショックか、動けなくなっていた。逃げ出そうとしても、無駄だろう。まだランを「くろいまなざし」が捉えている。
「ポイント? いいよ、くれてやる」
せせら笑うかのようにランは自暴自棄になっていた。ナツキは、「ポイントはもらうわ」と告げてから、その腕を引っ掴む。
「でも、それよりも聞きたい事がある。ロケット団とは何?」
先ほどランが口走った組織の名前。その胸にある「R」のバッジ。新型モンスターボール。シルフカンパニー。聞かねばならぬ事はたくさんあった。
「いいの? 嫌な事に首を突っ込むはめになるよ」
ランの口調にナツキは、「残念だけれどね」とこぼした。
「もう首を突っ込んじゃってる馬鹿がいるのよ。そいつのためにも、あたしはあんたから聞く必要がある」
ランはもう抵抗する素振りはない。「戻していい?」とネンドールへと目配せした。戦う体力はないだろう。頷くと、ランはモンスターボールを向ける。赤い粒子になってネンドールが吸い込まれた。
「どこから話す? 結構派手にやっちゃったから、ただのポケモンバトルじゃないってそろそろ気づく人もいると思うけれど」
胡坐を掻いたランが周囲を見渡す。民家から人が飛び出して何が起こったのかと騒ぎ立てようとしていた。
「場の収拾、私に任せてくれない?」
ランの言葉にナツキは首肯する。今は彼女に従うのが賢明だった。
「いやぁ、驚かせて申し訳ない。ちょっとしたバトルです。ポケモンバトル。さて、ポイントを交換しましょう」
ポケギアを突き出し、ランからポイントを受け取る。4000ポイントを超えるポイントが一気に自分のポケギアへと注ぎ込まれた。
「口止め料」とランが耳元で囁く。ナツキはポケギアを掲げながら、「なるほどね」と口にした。
「言っておくけれど、まだあんたが逃げないとも限らない」
「ゲンガーは出しておく、でしょ。いいよ、私だって敵ならばそうする」
ランは手馴れているらしい。人々へと今のが正当なバトルであったように振る舞った。「すごい熱気だったなぁ」と呑気な人々は言い合う。ナツキはランへと言葉を発する。
「いい? あたしの要求は全て呑んでもらうわよ」
「分かったよ。負けたし洗いざらい喋ろう」
肩を竦めたランは胸元に留めたバッジをさすった。