第六十九話「深淵の人々」
結論として組織はシルフカンパニーと協力して捜査に乗り出す、という話だった。
シロナも一人でうまく立ち回ったと言える。どちらかがこのポケモンリーグにおいて異分子である事を公言されかねない状況でお互いの腹のうちを隠しつつ協力関係を結べたのは僥倖であった。
「我々としても要人誘拐や殺人についてはあってはならない事だと感じています。その防止につながるのならば」
組織に下ったかのように思えるこの台詞は、しかし暗にそれらの事象から自分達は完全に無関係であるという免罪符になった。シルフカンパニーを去る時には中天に陽が昇っていたがシロナは頭を抱えた。
「うー、二日酔いにはきついわ、この晴天は」
「万全の状態でもないのに喧嘩を吹っかけるからだ」
ヤナギが歩きながら忠言すると、「やらなきゃいけなかったのよ」とシロナは言い返す。
「組織から矢の催促でね。シルフカンパニーを洗えって。まったく、こちとらヤマブキについて日も浅いっていうのに」
文句をぶつくさと漏らすシロナへとヤナギは、「この街」と口を開いた。
「監視が行き届いているな」
「分かる?」
シロナとヤナギは他人から分からぬ程度に目配せし合った。
「いつからだ?」
「多分、ヤマブキのゲートを潜った時から。ずっと見張られているわ。監視カメラもそうだけれどあれは追っ手ね。寝込みを襲うつもりがないのは昨夜で明らかだけれど」
「まさか、わざと酔った振りをしたのか?」
そうだとすれば驚嘆に値するがシロナは、「まぁ、半分本気で酔ってた」とこめかみを押さえて頷いた。
「カミツレちゃんには報せていないからね。あたしだけの独断。だから、あなたが付いて来る事も予想外だった」
「あんた一人じゃ危なっかしい」
シロナはフッと微笑む。
「あなた、やっぱり意外とお人好しね」
「利害が一致しているだけだ」
ヤナギは襟の裏を見せる。そこには二つのバッジが輝いていた。
「やるわね。まさかヤマブキのバッジまで手に入れるとは」
「この行動、組織からしてみれば予想外か?」
シロナは考える仕草をしてから、「まぁね」と返す。
「本当なら組織の誰かが取っている予定だったし。カミツレちゃんのサンダーを試験的に使うっていう手もあった」
「扱えるのか?」
「カミツレちゃんはあたし達が思っているよりもずっと器用よ。それこそ、ジムリーダーとしての実力ね」
ヤナギはサンダーというポケモンがどれほどの戦力なのかまだよく分かっていない。ただ、それらの伝説の鳥ポケモンを組織が集めたがっているのはわかっていた。
「他の伝説については、情報があるのか?」
シロナは手帳を取り出し、「もう一体についての情報はある」と口にした。
「聞かれるかもしれないけれど」
「どこで喋っても同じだろう。この街で監視のない場所はない」
「違いないわね」とシロナは応じてから手帳に視線を落とした。
「もう一体の名前は炎の鳥ポケモン、ファイヤー。これの身柄は今、シルフカンパニーが持っていると思われる」
「組織の情報か?」
「三体の伝説については早期から組織を上げて所在地を突き止めたわ。でもその時には既にファイヤーはシルフの手にあった」
「もう二体、いるって事か」
「そのうちの一体がサンダー。無人発電所に現れてくれたのは幸運ね。もっと言えば、戦わずに捕獲出来たのはさらにだけれど」
ヤナギはあの場にキクコがいた事を思い出す。しかし、どうしてオーキド・ユキナリと共にいたのだ。キクコはポケモンリーグに出場していないはずではないのか。
「……大丈夫?」
急に黙りこくったからだろう。シロナが目ざとく反応する。ヤナギは、「何でもない」とその視線を遮った。
「もう一体は? どこにいる?」
「確認された情報では、ふたご島にいるとされているわ」
「ふたご島……、カントーの南端に位置する離れ小島だな」
ヤナギが自分の情報を確認しているとシロナは、「そこに行けっていうのが」と続ける。
「次の指令」
「馬鹿な。ふたご島はタマムシシティを超えてセキチクも超えなければならない。空を飛ぶやテレポートが禁止されているこの大会では地道な作業になるぞ」
「だから組織立って動けるシルフに比べて不利だって提言したんだけれど、聞き入れられなかった」
「あんたらの仲間にヤグルマって言うのがいるだろう? そいつに動いてもらえないのか?」
「無理よ。彼はあたしよりも弱いし、戦闘構成員じゃない。伝説のもう一体を捕まえられるほどの熟練度はないわ」
「ではそいつは今どうしている?」
「内偵を進めている。今回のシルフの写真も彼によるものよ。でも、尻尾は掴めなかったけれどね」
シロナが両手を上げて背筋を伸ばす。ヤナギはヤグルマという男の印象を頭に描いた。あの不気味な男がそれだけのために組織に忠誠を誓っているのか? 何か、自分達でも窺い知れない裏があるのではないのか。
「ヤグルマを呼び出すのは」
「無理、だと思う。彼には一切の強制権限がないから」
「あんたよりも地位が上って事か」
「実力がそのまま地位には繋がらないわ。彼のほうが組織の中であたしよりも立ち回りが上手いって事」
自嘲気味に発せられた言葉にシロナは不器用なのだ、とヤナギは感じる。恐らくは額面通りにしか言葉を受け取れないタイプなのだろう。
「このまま宿に戻るけれど、どうする?」
「チアキとカミツレがいるだろう。あいつらと話を合わせなければならない」
「あなた、よくチアキさんを引き入れたわね」
シロナがヤナギの顔を窺う。ヤナギは素っ気なく、「実力者を遊ばせておくのはもったいない」と返す。
「ならば目の届く範囲に置いたほうが効率はいいだろう。ジムリーダー殺しの一件もある。闇討ちされて惜しいタイプだったからな」
「あなたでも他人の心配なんてするんだ?」
その点に関しては自分でも意外だった。どうしてチアキを気に留めるような発言をしたのだろう。そのまま放っておけばいいものを。
「まぁ、組織があたし達を見限った時、少しでも戦力があると有利だしね」
「そんな恐れがあるのか?」
ヤナギの質問に、「嫌ね、冗談よ」とシロナは笑ったが冗談にしては沈痛な面持ちだった。
「……組織は、あんたらを守ってはくれないのか?」
ヤナギの問いかけにシロナは、「どうかしらね」と答えを彷徨わせる。
「組織からしてみればあたし達なんていくらでも代えの利く駒なのかもしれない。トレーナーなんていくらでも強い人間が出てくるわ。いくら優勝候補だっておだてられても所詮は弱肉強食。そういうものよ」
「俺は、諦めの言葉なんて聞きたくはないがな」
ヤナギはシロナを追い越して宿へと向かう。その背中に声はかからなかった。部屋に着くとチアキが鞘に収めた刀を膝において瞑想していた。カミツレが頬杖をつきながら眺めている。シロナとヤナギを認めると、「助けてよ、シロナ」とカミツレが潜めた声を出した。
「どう接したらいいのか分からなくって……」
カミツレからしてみれば酔っていた最中の事は覚えていないらしい。突然現れた和服の女性が得物を携えていれば恐れるのも無理はないだろう。
だが、これでも伝説を扱えるレベルのジムリーダーなのだ。いざという時にはポケモンでどうにかすればいいものを。ヤナギがそう思っているとカミツレは本気で助けを乞う視線を向けてきた。ヤナギは仕方なく、「チアキ、だったな」と声をかけた。チアキは流麗に振り返ると、「何だ」と不遜そうな声を出した。
「シルフとの交渉は上手くいったのか?」
「いや、ほとんどぼかされた形だ」
ヤナギが応じるとシロナが歩み出て、「あなた、ジムリーダーなのよね」と声にした。
「だからと言ってシルフカンパニーについての情報を問うても無駄だぞ。私とてあの企業に関しては知らぬ事のほうが多い」
シロナが目配せする。ヤナギは頷いた。チアキは嘘がつけるタイプではない。つく必要性すら感じないだろう。
「この街が監視されている事は」
「存じている。が、改めて言われた事はない。一般人は知らないようだ」
「あなたの師のカラテ大王とやらは」
「師匠はそういう気配には疎くってな。あの人らしいが」
フッとチアキは口元に笑みを浮かべる。どうやら師弟関係は勘繰ったところで無駄らしい。シロナとヤナギは無言のうちに了承し、「シルフカンパニーをどうにかして追い詰められないかしら」と提言した。チアキは、「追い詰める?」と疑問を浮かべる。
「何故だ。貴公らに仇なしたわけではあるまい?」
「無益な戦闘は好まない、というわけか」
見た目に反して、と内心に付け加える。チアキは、「そうだな」と何気ない様子で答えた。
「弱い相手を敵に回してもつまらん」
そういった理由か。やはり見た目通りだと訂正する。
「シルフカンパニーとの表では協定を結べた。これでもし、シルフが隠密に動く事になれば張りやすくなった、と考えるべきじゃない?」
カミツレの言葉に、「そう楽観視も出来ないのよ」とシロナは暗い調子で返す。
「逆に言えば相手方からしても組織の行動を追いやすくなった、という事もでもある」
「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている、か」
お互いに監視が行き届いて身動きの取れない状況になっても仕方がない。どちらかが妥協する必要があるだろう。
「一つ質問がある」
チアキの声にシロナは、「どうぞ」と促した。
「もし、これから先、シルフに敵対する者が現れた場合、我々が動かねばならないのか?」
「協力関係なんだから知らぬ存ぜぬ、は通用しないわよね……」
カミツレが心配そうに呟くと、「そうねぇ」とシロナは金髪をかき上げた。今すぐにでも叫び出したい気分なのだろう。それを必死に押し留めているのが分かる。
「仮定の話でしかないけれど、あたし達はヤマブキにいる以上、動けといわれれば動かざるを得ない」
「それを逆手に取れないか?」
ヤナギの発した言葉に全員の目が集まった。「逆手、とは?」とチアキが質問する。
「シルフだって探られてまずい腹があるはずだ。表向き協力する人間と裏から探りを入れる人間に分けよう。そうすれば、戦力を相手に気取られずに済む」
「確かに、カミツレちゃんとチアキさんは組織の正規構成員として数えられていないから、もしかしたらいけるかもね」
チアキへと視線で問いかけると、「私は構わないが」と濁した。
「どう動けばいいのかの指示をもらわなくては。私達だけの独断というわけにもいくまい」
チアキがカミツレに目を向ける。カミツレはびくりと肩を震わせた。どうやら苦手意識が加速しそうだ。
「今日の会談で失ったものも多いが、得られたものも大きい。向こうは少なくとも俺とシロナが同時に動かねば不審に思うだろう。だがカミツレとチアキならば気取られないかもしれない」
もっとも、この会話が聞かれていなければの話だが。監視の行き届いているヤマブキで内緒話は無理な事かもしれない。
「私達が、言うなれば潜入部隊になるわけか」
「不満か? 昨日今日で組織に入れというのも無理があるかもしれないが」
「いや、貴公の言う通り、私の安全を第一に考え、なおかつこの力を振るえる場を用意してくれるというのならば最適だろう」
チアキの立ち振る舞いはまるで血に飢えた獣だ。カミツレはその側面に怯えているのだろう。
「あたしがヤナギ君と一緒にシルフに呼ばれたとしても、あなた達は来なくてもいい。というよりも、その隙を最大限に活かすべき、か」
「だがそれは敵が攻めてきた時、という仮想だ。シルフにとっての敵とは何だ?」
その言葉に全員が沈黙する。シルフカンパニーにとって敵対するだけの組織が思い浮かばない。自分達の組織と協定が結ばれたのならばなおさらだ。
「細かいところは置いておいて、今はその作戦を取るのが最適だと思う。カミツレちゃんはどう?」
急に話を振られてカミツレは戸惑った。
「私は、別にいいけれど……」
何やら含むところがありそうな声はチアキとの連携を気にしているのだろう。ヤナギは、「心配するな」と声にした。
「ヤマブキのジムリーダーなだけはある。戦力としては一級だ」
ヤナギが保障するとカミツレは渋々ながら納得したようだ。
「私はこいつらの手持ちを知らない。連携にはまずお互いの手持ちを明かす事が第一条件だ」
チアキがモンスターボールを翳す。カミツレはシロナへと了承の眼差しを送ってからおずおずと差し出した。
「この子よ、サンダー」
「伝説のポケモンとやらか。使った事は?」
「いえ、まだ……」
「戦力として未知数のものを使う危険性は分かっているな」
「い、言われなくっても」
カミツレが気圧され気味に答える。同じジムリーダーといえども力量の差があれば不安もあるはずだ。
「いいだろう。見たところ、電気と飛行だ。私のバシャーモとは相性がいい。お互いの弱点を補完できる」
「バシャーモ、っていうのは」
カミツレはチアキにではなくヤナギへと説明を求めた。
「炎・格闘タイプのポケモンだ。言った通り、電気・飛行のサンダーとは相性がいい」
ヤナギの言葉にようやくカミツレはホッとしたようだった。
「じゃあ、お互いに調整は任せるわ」
シロナは立ち上がり、廊下へと歩み出した。その背中へと、「待て」と声をかける。
「何?」
「俺もついていこう」
「飲み物を買ってくるだけよ?」
「一人になるのは危ない。ヤマブキ全体がシルフのお膝元だ」
ヤナギがついていくとカミツレが、「いいなぁ」とこぼしたのが耳に入った。部屋を出てすぐにシロナは口にする。
「あなた、やっぱり不思議ね。どうしてだかカミツレちゃんもチアキさんもあなたの事ならば信用している気がする」
「チアキは手合わせしたからな。あれは戦闘において真価を発揮するタイプだ。戦いで信頼を築き上げるのが最も早い。カミツレは自分より強い相手への敬意がある。あんたに懐いている様子なのもそうだからだろう」
「……何でもお見通しか」
ぽつりとこぼしたシロナは、「向いている気がするわ」と出し抜けに声にした。
「何がだ」
「リーダーよ。あたし達を束ねる人間」
「国際警察が上官ではなかったのか?」
「あの人達は会議室の仕事だもの。あなたには現場を纏め上げる素質がある」
「買い被るな。俺とて一トレーナーに過ぎない」
ヤナギはそう口にしてからシロナがいつになく覇気がない事に気づいた。何か懸念事項でもあるのだろうか。
「心配事か?」
「ええ。あたしがやった事は正しかったのかしら?」
「組織の命令だろう。もし上手くいかなかった時の清算は組織に任せればいい」
ヤナギの横暴とも取れる発言にシロナは苦笑する。
「そこまで強く割り切れないわよ」
飲み物を買うシロナの背中には疲労の色が漂っていた。いつも父親の背中を見てきたから分かる。こういう人間は、何よりも自分の仕事と責任に対して真摯である事を。
「あんたは強いさ。俺達を纏め上げるのならば、あんたが正しい。俺は力だけだ」
ヤナギの切って捨てたような言い回しに、「それも強さよ」とシロナは返す。
「あなたには誰かの素質をきちんと見抜いて、その上で冷静に判断を下せる才能がある。あたしは、何だかその部分が駄目みたい」
駄目ではない、と慰めたところでこの大人はまた背負い込んでしまうのだろう。ヤナギは、「強くあろうとするな」と言っていた。
「弱い自分も認めればいい」
「なら、あなたの前では弱さを見せていいのかしら」
何を、とヤナギが声にする前にシロナが自分の胸に飛び込んできた。肩が震えており、ヤナギは戸惑うより先にこの人はまだ無理をしようとしていると感じた。
「……押し潰されそうで、怖い時がある。とてつもなく、怖い時が」
シロナにとって矢面に立たされる事はプレッシャーなのだろう。優勝候補とおだてられる事も、組織の尖兵にされる事も。
ヤナギはそっと肩に手を置いた。その瞬間に思い出される。
――怖いのは、やだよ。
キクコもいつも何かに怯えていた。今のシロナはキクコと同じだ。ヤナギはシロナの呼吸に合わせるように、「大丈夫だ」と声にする。
「怖いものは、全部俺が引き受けよう」
キクコにしか言うまいと思っていた言葉を別の女性に言っている。それは酷く遊離した、遠い出来事のように思えた。
第五章 了