第六十八話「暗雲」
早朝から訪れた来客に社員達が瞠目した様子だった。思わず気後れした笑みを浮かべ、それぞれ鉄面皮に戻ってから一礼する社員達へと手を振るのは金髪に黒衣を纏った女性だった。社員達はここぞとばかりに声を潜める。
「あれ、優勝候補のシロナだよな?」、「何でこんな場所に?」、「何でも上との謁見の用事を取り付けているんだと」、「俺達には窺い知れないことさ」
それらの言葉の後に、「にしても何で」と同じように声が重ねられた。
「どうして子供が連れ立っているんだ?」
全員が同じ疑問を共有したのをヤナギはシロナの後ろに続きながら感じ取る。衆愚、というのはこういう手合いの事を言うのだろう。
シロナはエレベーターに辿り着くなり監視カメラの角度を調べてから壁にもたれかかった。額を押さえ、「うー……」と呻く。
「頭、痛い……」
「馬鹿が。飲み過ぎるからだ」
ヤナギが冷たくあしらうとシロナは、「だって昨日はこんなに後を引くとは思わなかったんだもん」と子供の抗弁が発せられた。
「いい大人が。ヤマブキのジムリーダーは愕然としていたぞ」
シロナ達は朝になってヤマブキシティのジムリーダー、チアキがいる事に気づいた。頭の巡りが悪いのかそれを言及するよりも先に取り付けておいた予定を彼女は確認し、僅か十五分でのハイペースメイクをこなしてシルフカンパニー本社を訪れたのである。ただし、自分も連れ立つ事を提案したのは他ならぬヤナギだ。
「あんた一人じゃ危なっかしい」
それが表向きだったがヤナギはシルフカンパニーと組織のメンバーが会談するという事実に因縁めいたものを感じ取ったのである。何か、自分の与り知らぬところで事が動くのだけは避けたい。
「あたしは、一応大人ですぅー」
シロナの言葉には大人の品性の欠片もなかった。
「……きちんとした大人は自分の事を大人なんて言わないんだよ」
うっ、と声を詰まらせるシロナにヤナギは心底呆れていた。
「どうして酒盛りなんてしたんだ」
「それは……」
「言えない事か?」
「ヤナギ君、何だか保護者みたいよ」
「俺がジムに挑戦している間に馬鹿みたいに飲んでいたのだと分かれば怒りたくもなるだろう」
シロナは言い返そうとして口を噤んだ様子だった。エレベーター内で口論するわけにはいかない、というくらいの理性は働いているらしい。
「大丈夫だろうな」
ヤナギは歩み寄ってシロナの額に手を触れた。シロナは不意をつかれたのか、「ひゃぁっ!」と短い悲鳴を上げた。
「何を驚く?」
ヤナギは逆に辟易して聞き返す。
「だってヤナギ君、急に近づいてくるから……」
「熱でもあって途中で倒れられたら困るんだ。顔が赤いぞ。まだ酒が残っているのか?」
「もう残っていない! 断じて!」
その部分だけを強調してシロナは言い放つ。ヤナギは、「だったらいいのだがな」とため息混じりの声を出した。
「しかし、会談なんていつの間に設けていたんだ? そんな暇はなかったろう」
「組織のコネでね」
「におうのか?」
エレベーターの天井を仰ぎながら発した言葉に、「随分ときな臭いわ」とシロナは返す。
「今、確認しただけでカメラはエレベーターだけで三台はあるわよ」
その言葉に今度はヤナギが瞠目する番だった。二日酔いが抜け切っていないと思っていたのだが、シロナは既に万全らしい。
「俺も、この街は妙な気配が凝っているような気がしてならない」
「その話は後にしましょう」とシロナは階層表示を眺めた。エレベーターはようやく地上八階へと辿り着いた。扉が開くと社員達が既に待っており、深々とお辞儀をした。ヤナギは居心地の悪さを感じたがシロナは意に介さずに歩き抜けていく。どうやら場違いなのは自分のほうらしい、とヤナギはシロナの後に続いた。
「シロナ・カンナギ様。お待ちしておりました。お連れの方は……」
秘書官らしい女性が歩み寄る。ヤナギへと視線が向けられ、「信頼出来るボディガードです」とシロナは応じた。自分の身分が明かされれば不利になる事をシロナは気づいているのだろう。気が回る辺り、大人ではないと言った事が若干悔やまれた。
「そうですか。では会談の席を設けております。こちらへ」
秘書官に促されて入ったのは応接室だった。高級そうな調度品と、暖色に囲まれた部屋には向かい合わせのソファがある。挟んでテーブルがあり、奥には執務机があった。よく父親のいた部屋に似ている、とヤナギは感じた。
「これはこれは、シロナ様」
ソファから立ち上がって迎えたのは一人の男だった。若いようにも、中年のようにも見える不思議な男だ。ヤナギが観察の目を注いでいると、「こちらへどうぞ」と男はシロナをソファへと招いた。
「社長。おいでになられました。シロナ・カンナギ様です」
男の言葉に執務机の奥にいる男が振り返った。仕立てのいいスーツに身を包んだのは壮年の紳士である。社長と呼ばれた紳士は立ち上がると、「申し遅れました」と形式だけの挨拶を交わす。シルフカンパニーの社長である、という身分を明かした紳士は男と並ぶと、やはり男のほうが若く見えた。社長がまず上手に座り、ソファを示す。シロナは一礼してソファに座った。男がヤナギへと目を向け、「君も座るといい」と促す。ヤナギは腰のホルスターを意識しながらソファに腰かけた。体重を包み込むような体感した事のないソファであった。
「紹介が遅れましたが彼は私の信頼する側近でしてね。名前をキシベと言います」
「キシベです」と名刺が手渡される。キシベ・サトシという名前の上には赤い「R」の文字があった。ヤナギは気になったが自分から口にするべきではないと判じた。
「それで、ご用件というのは?」
社長が切り出すと、「先に申し出た通りですわ」とシロナが余裕を持って応じた。
「我々の組織に、あなた方が加わらないのか、という提案です」
その言葉にはヤナギも驚愕した。組織の存在を公にしてどうする。まさかまだ酔っているのか、と思ったがシロナの目は真剣だった。
「組織、というものが何なのか、まだ具体的に明言されていませんよね?」
シルフカンパニーの社長は目ざとく声にする。あくまでもこちらの口から言わせたという既成事実を作るつもりだ。乗るな、とヤナギは感じたがシロナは迷いなく告げた。
「組織とは、超法規的措置を取る事も辞さない各地方に跨った大規模なものです。あたし個人の言葉で言い表すことは不可能に近いのです。なにせ末端なもので」
うまくかわしたか、とヤナギが息をつく間もなく社長が口を差し挟む。
「末端構成員が我がシルフカンパニーへと接触してくる理由は何です? それが一切不明でならない」
社長が首を横に振ると、「そうですわね……」とシロナは言葉を彷徨わせた。
「事件が、いくつか頻発している事はご存知ですか?」
「事件?」
寝耳に水だ、とばかりに社長はとぼけてみせる。
「殺人、あるいは要人の誘拐」
ヤナギはその段になってマサキ誘拐に関与した話である事を察した。この場でシロナが口火を切ったのはジムリーダー殺しの一件もシルフカンパニーが噛んでいるのではないかという推測だ。しかし、推測は推測でしかなくこの場で彼らを追い詰める決定打にはならない。
「面白い事を仰る方だ。そうですね、このポケモンリーグ、これほど大規模な競技となれば殺人や誘拐もあり得るでしょう。しかし、それが我が社と何の関係が?」
下手に勘繰れば藪を突くはめになる。ヤナギは、落ち着け、とシロナに目線で送ったがシロナは徹底抗戦の構えだった。
「シルフカンパニー。御社は随分とこのポケモンリーグの恩恵を得ているようですわね。新型モンスターボールの開発。ポケモン関連用品の規格の統一」
「それは、我が社もスポンサーの一つですから」
「新型のモンスターボールの噂は」
「噂は噂レベルですよ。ただ開発はしております。まぁまだ試験用で一般には一切出回っていないのですが」
「一切、ですか?」
「ええ。一切」
手馴れた様子で社長がかわす。その方面からでは洗い出せないぞ、とヤナギは感じたがシロナは動じる気配もない。
「ここに、数枚の写真があります」
シロナが懐から取り出した写真に写っていたのは黒服とその連中が持つ新型と思しきモンスターボールだった。黒服はヤナギも初めて見るものだ。当然、社長はそれを突きつけられて知らぬ存ぜぬを通すつもりだろう。首を傾げて、「これは?」と訊いた。
「このポケモンリーグにて暗躍する人々を我が組織が撮影に成功したものです。奇妙ですわね。新型のモンスターボールはまだ出回っていないのではなかったのでは?」
社長は自らの首を締め上げたことになる。壮年の社長は驚くほど簡単に陥落した。しかし、その隣にいるキシベという男は動じない。
「これは我が社の社員です」とまで言ってのけた。その言葉に社長が慌てふためく。
「き、キシベ! それは――」
「今さら隠し立てしても何のためにもなりません、社長。彼らは知っていて我が社へと接触してきた。その勇気に、まずは敬意を称しようではありませんか」
狼狽する社長に比べてキシベは驚くほど冷静だった。淡々と物事を俯瞰している人間の持つ怜悧さだ。
「シロナ様。あなた方の持ってきた写真。新型モンスターボールが我が社の物である事はいずれ公然の事実となる。その時に、この写真を引き合いに出されれば面倒な手違いが起きます。我が社としては、トラブルを避けたい」
写真を封印しろ、と言っているのだ。しかし、それで折れるシロナではない。
「この写真が出回ればまずい、という事をお認めになられるんですか?」
「キシベ。否定しろ」
「社長、火のないところに煙は立ちません。一度疑られればもうそれまでです」
社長の命令を無視してキシベは続ける。どうしてだか、その目には野心めいた光があった。
「私としてはこの写真、よく撮影に成功したと褒め称えたい。一応隠密に動いているものでしてね」
「その方の隠密行動を認められるんですか?」
社長は戸惑っていたがキシベは落ち着き払って、「認めます」と答えた。
「ただ、隠密行動ぐらい、どの企業もやっている事です。私達はこのポケモンリーグに際し、新型モンスターボールの機能実験を行っておりました。その写真でしょう。性能試験はある点ではポケモン保護派の方々からしてみれば行き過ぎな面もあります。その部分を糾弾されては困る、という話です」
ヤナギは内心、やられた、と感じた。キシベはあくまで性能試験の最中の写真である事を確定しようとしている。黒だった戦局が一気に真っ白になった。シロナは焦り過ぎた事を今さら感じ取ったのか歯噛みしている。
こちらのカードがこの写真にかかっていた事を全て見透かした上での対応だった。社長ならばあるいは情報を引き出せたかもしれない。だが、このキシベという男にかかれば情報を紙くず同然の価値まで引き下げる事など容易なのだろう。社長は色を取り戻して、「そうなのですよ」と同調した。
「穏健派の方からしてみればこれも充分なスキャンダルです。どうか、内密にお願いいたします」
首の皮一枚で繋がった事に社長は安堵しているのだろう。キシベはこの写真の見方を百八十度変えて見せた。新型モンスターボールの試験時の写真だと断定されればこちらは攻める手立てをなくす。どうするのだ、とヤナギは目で問いかけるとシロナは、「ある要人の誘拐にも、彼らと同じモンスターボールが使用されました」と新たなる札を切った。
「して、その要人とは誰です?」
「それは……」とシロナは口ごもる。マサキ誘拐の件は一般には出回っていない。キシベに優先権が譲渡された以上、下手な事を口にすれば不利に立たされるのはこちらだった。
「では誘拐現場を捉えた写真でも出していただきたい。この写真はまさしく性能試験のものです。それ以上でも以下でもない」
シロナや組織からしてみればこの写真だけで殺人と誘拐を立証しようとしていたのだろう。ヤナギからしてみればそれは相手を嘗め過ぎている。腐っても天下のシルフカンパニーだ。そう簡単には陥落しない。
「他にもご用命があれば何なりと」
キシベの口調にはどのような質問でも受け流す柔軟さが見て取れた。この場でこちらの情報を与えるわけにはいかない。ヤナギはシロナの代わりに声を発した。
「サカキ、という少年トレーナーがいますよね?」
シロナが肩をびくつかせ、その話題に触れるのか、という風に目を丸くした。シロナからしてみてもこれは奥の手だったのかもしれない。それを自分が口にした事に驚いているのだろう。社長とキシベもお飾りかボディガードに過ぎない人間の言葉に驚いているようだった。
「ええ、我が社が後押ししているトレーナーですが」
「彼に関する資料を検分したい」
ヤナギの声に、「越権行為です」と応じたのは社長だった。
「あなた方とて一トレーナーであるはずだ。相手の力量は戦ってはかるものでしょう?」
「では戦わせてください。その準備は出来ています」
ヤナギは迷わない瞳を社長とキシベに向けた。ホルスターのモンスターボールに手をやり、本気である事を示す。
「今、ですか……」
「ええ、今すぐに」
社長がキシベへと目線を向けた。どうやら社長には決定の権限がないようだ。キシベは、「今は無理です」と言ってのけた。
「何故?」
「ポケモンの回復が万全ではないのです。あなた方とて万全でない相手と戦っても疑念を膨らませるだけでしょう。ただ一つだけ言わせてもらうとすれば、我が社はサカキ少年を買っています。それほどまでに強力な選手である事だけ、肝に銘じていただければ」
ヤナギはキシベを睨みつける。キシベは風と受け流し、シロナに話を振った。しかし、ヤナギはこのキシベと言う男こそ、底知れぬ何かを持っている。そのような気がしてならなかった。