第六十七話「マサキの力」
循環器のように曲がりくねった廊下を行くと、あらかじめポケギアに送信されていた部屋に辿り着いた。
しかし、とイブキは天井を仰ぐ。パイプがまるで血管のように並んでいる。ゴゥンゴゥンと低くて重い音が一定周期で聞こえており、イブキにはこの場所が特一級の秘匿回線でしか通じない場所だという事しか聞かされていない。さながら迷路に迷い込んだ心地を味わいながらイブキは部屋の中を見やる。
緑色のウィンドウから漏れる光が密集しており、あらゆる地域の放送、あるいはデータを送受信している。イブキにはその程度しか分からなかった。辺境のフスベの里の出身となれば機械には疎い。備え付けられたディスプレイの数々が何を意味しているのかを解する事は出来ない。
「姐さん、来たんやね」
そのディスプレイを背にして椅子に座りこんでいる人物を視界に入れる。
「ソネザキ・マサキ。私をここに呼び出して、何の用?」
その名を呼ぶとマサキは人差し指を立てて、「姐さんが言ったんやん」と唇を尖らせた。
「出来るだけ隠密に動ける場所が欲しいって。やから、ワイが交渉してこの部屋手に入れたってわけや」
マサキの言葉にイブキは確信する。
「じゃあ、あんたは完全にこちら側に寝返る事を決めたわけ」
「ワイかて長生きしたいもん。長いものには巻かれたほうがお得な時ってもんもあるんや」
組織からロケット団への鞍替え。それがスムーズに行われた事を鑑みるにマサキは元来、柔軟な性格なのかもしれないと思わせられる。あるいはただ単に興味の対象に忠実なだけか。回転する椅子に胡坐を掻くマサキへとイブキは壁に背中を預けながら口にした。
「ここは本当にキシベの情報網からもシャットアウト出来るんでしょうね?」
キシベに全て聞かれていればおじゃんである。マサキは、「その辺、抜かりないで」と答えた。
「そもそもこの施設もそうやけれどヤマブキシティ自体、ちょっと異常や。見てみぃ」
マサキが示したのは一つのモニターだった。そこに十六分割された動画があり、それぞれカウンターを刻んでいる。
「これは?」
「この街の街頭カメラにハッキングして手に入れたもんや。つまりこの街、全体が監視状態にあるわけやな」
その事実にイブキは戦慄する。そのような事が可能なのか。
「いくらシルフカンパニーといえども、そんな横暴が……」
「誰も気づいてないから、横暴には映らん」
マサキの声にイブキはキシベが裏で何を考えているのかますます分からなくなった。
「カメラってのはそんな巧妙に?」
「分かる人間には分かるけどな。たとえば組織なんて、恐らくヤマブキには干渉出来んって理解しとるもん」
「組織が?」とイブキは聞き返した。
「ヤマブキは巨大な要塞や。シルフカンパニーっつう中枢を抱いた、な」
「何のために……」
「そら、姐さん。ロケット団とやらのためやろ」
分かり切ったことであるかのようにマサキは口にする。マサキはどのように交渉したのだろう。そればかりはイブキでも分からなかった。キシベの口車に乗った振りでもしたのか。あるいは交渉材料をこちらからちらつかせ、特権を得たのか。イブキにはそこまで干渉するだけの権限がない。
「ロケット団ってのも、分からない事だらけやな」
「シルフカンパニーの下部組織、って聞いているけれど」
「それにしちゃ、資金繰りを調べてみるとそっちに割いている予算が多過ぎる。尻尾切りするにはちと惜しいくらいにな」
マサキはいつの間にそこまで調べ込んだのだろう。改めて強大さを感じると共にこの男が味方でよかったと安堵した。もし敵ならば恐るべき存在だ。
「それ、組織のやり方?」
「いんや、ワイが走らせているプログラムは自分で改良した奴やさかい、足はつかんはず。問題なのは、このロケット団、どこを調べりゃええんかっつうのが見えてこない事やな」
「内情は?」
「もちろん、最初に調べたで。でも、目的が見えんのや。遺伝子研究の権威を呼んでいるかと思えば、バトルの方面にも力入れとるし、モンスターボールの新型の性能実験なんかにも手を染めとる」
「……ほとんどシルフの実権じゃない」
「だからこそ、シルフカンパニーという企業の下部組織には見えん、って言ったやろ? これはむしろロケット団が頭で、シルフが下やな」
聞いていたのと真逆ではないか。イブキがそのような表情をしていてからだろう、マサキは、「驚くんも分かる」と頷いた。
「ワイも調べりゃ調べるほど、こいつはマズいってのがはっきり分かった。深みにはまると抜けられへん。底なし沼の組織やな」
その底なし沼に既に足を浸している我が身を顧みてイブキは、「どうにか出来ないの?」と尋ねた。
「あんた、組織でも出来るって噂だから拉致されたんでしょう」
「拉致した本人がそれ言うかいな。まぁ、姐さんの不安も分かるで。ワイが言っているのはマイナス方面ばっかりやからな。今のところ、ワイの身柄を手にして一番意味があるのは、姐さんの直属の上司やろ」
「キシベ……」
その名を呟くと、「そのキシベはんから、取引があった」とマサキは天然パーマの頭を掻きつつ答えた。
「何ですって?」
「簡単な事やった。尋問っつうほどの事もされとらんのは素直に取引に応じたからやろなぁ」
「その内容は?」
「……あのなぁ、そう簡単に言えるもんやないから取引材料になるわけ。分かる? 姐さん」
マサキの馬鹿にした口調にイブキは自分の無知さに、内心、顔から火が出るほどの羞恥心を覚えながらも平静を装った。
「じゃあ私にはあんたを御せないってわけ?」
「そうは言っとらへんやん。嫌やな、姐さん。後にも先にも共犯関係になるんは姐さんだけやで」
その言葉がどこまで信用に足るものなのかは分からなかったがイブキにとって頼るべきものはそれしかない。
「実際のところ、ワイもその取引が無事に完遂されたとは思わん。取引内容はワイの名前で預かりシステムを全地方に売る事。それともう一つ。誰よりも早い情報提供を約束する事やった」
「組織の情報開示は?」
「もちろん、せえって言われたよ。でも、正直なところ、ワイも知らん事のほうが多いねん。だからこの取引上で意味を成したのはワイの能力やな。預かりシステム、それにハッキングスキル、っと」
マサキがキーを叩きエンターを押した。何をしているのだろうと窺っていると、「気になる? 姐さん」とマサキがニヤニヤとしまりのない笑みを浮かべた。
「ええ。勝手な事をされては困るからね」
「安心しなや。キシベに密告なんてせぇへんよ。そんな事してもワイの得にはならへんもん。どうせキシベの得点稼いだってワイはハナダの別荘で死んだ事にされたらお終いや。誰もヤマブキの最下層に潜っとるとは思わんやろ」
ヤマブキの最下層。その言葉にこの場所がどのような位置関係にいるのか自覚させられる。
「シルフカンパニー地下三層。こんな隠し部屋があるなんてね」
「実際は隠し部屋というよりかは、シルフからしてみれば捨てておいたサブフレームをワイに譲渡しただけやけれどな」
相変わらずマサキの言葉は半分も理解出来なかったがこの場所がキシベからしてみれば穴になっている事だけが分かれば充分だ。
「ここはシルフのメインフレームから独立したシステムになっとるさかい、いざと言う時には火災警報でも鳴らして逃げられるで」
「そんなちゃちなので騙せるの?」
「シルフは最新鋭設備の塊や。ある意味ではカントーの財産とも言える。そんな場所でトラブルがあってみい。総出で駆けつけるやろ」
そんな事態になれば余計に逃げられないのではないかとイブキは思ったがそうではないのだろう。マサキには秘策があるに違いなかった。いや、マサキからしてみればそれは秘策のうちにも入らない些事なのかもしれない。どちらにせよ、自分のような常人には分かる事でもない。
「せやけどキシベの狸がどこまで考えを巡らせとるか分からん。あれはワイと同じ技術者畑の人間やぞ。こっちの上手を行かれていてもおかしくはない」
「キシベにはばれないって高を括ったのはあんたじゃない」
もう前言撤回か、とイブキが突くと、「せやかて姐さん」とマサキは言い訳をした。
「シルフカンパニーのシステムは組織と何ら遜色ないレベルやけれど、慣れるまでには時間がかかるんや。姐さんかて、いきなりわけも分からんドラゴンタイプ使え言われたら戸惑うやろ?」
その言葉に納得するよりも先に疑念が先立った。
「……私の経歴を洗ったの?」
「洗わんでも姐さんは優勝候補やろ? ドラゴン使いのイブキって囃し立てられてたやん」
その優勝候補の栄光もこうやってロケット団の陰に隠れていてはないのと同じだ。イブキはため息をつき、「正攻法じゃ、もう表舞台には戻れないのよ」と呟いた。
「何とかしてキシベの呪縛から逃れなくっちゃ」
「まぁ、ワイのスキルとキシベのスキル、どっちが上かっつう力比べになるわな。ワイの勝つのを祈っといてくれや、姐さん。勝利の女神やろ?」
調子づくマサキに睨みを利かせる。
「勝利を導くのはいつだって実力よ。少なくとも、女神なんて当てにしちゃいないわ」
「嫌やな、姐さん、冗談やん。怒らんでもええ事やし」
マサキが手を振って打ち消そうとするがイブキの眼差しは真剣そのものだった。
「……借りを返すのにも今の境遇じゃ無理だからね」
「借りっつうんはあれか、勝負の事か?」
「他に何があるのよ」
「シルフの技術使えば、姐さんのポイント加算くらい出来るけれど」
「ふざけないで。そんな事したらただじゃおかないわよ」
「やらんて。姐さんに嫌われるん嫌やもん」
もう充分に嫌われる材料を作っている男がいけしゃあしゃあと抜かす。イブキは呆れ返りながら、「いい? 何としても、よ」と確認の声を被せた。
「キシベを出し抜くんやろ? 任しとき。ワイを仲間に引き入れた事後悔させたる」
マサキはひひひと笑った。イブキは壁にもたれかかりながら随分と遠くに来てしまったものだと俯瞰する。
「……でも、私は戻りたいと思っているのね」
かつての栄光に。表舞台の胸が高鳴る戦いへと。
それが叶うかは自分達の行いにかかっている。イブキは拳を握り締めた。