第六十三話「サカキ」
キシベに連れられて訪れたのは広大なスペースが取られた直方体のバトルフィールドだった。無機質で滅菌されたような白い天井と床が淡く光っている。キシベはゲンジだけ入るように促した。どうやら彼は別の場所から自分達の戦いを見守るらしい。ゲンジの視線の先には黒い椅子に座った少年の姿があった。頭部には何かを計測するための機械が取り付けられており、実験動物のように少年は黙したままゴーグルに表示される数値を見つめているようだった。ゴーグルの側部が点滅し、通信を繋げる。
『サカキ君。彼がゲンジ君だ』
「ホウエンのドラゴンタイプ使いか」
少年の声音は思っていたよりも冷静だった。椅子から立ち上がると、彼は機械を外し始めた。
「シミュレーションばかりで退屈していたところだ」
少年の眼には冷徹な光がある。しかし、同時に闘志も見え隠れした。この少年はただ黙ってモルモットのように扱われているだけではない。このシルフカンパニー、ひいてはロケット団を操ろうという心積もりがある。
「お前が、サカキか」
ゲンジの言葉に、「ナンセンスだ」とサカキは肩を竦めた。
「分かっている事象を確認するなど。この場で聞くべき事はただ一つ。お前は自分よりも強いのか、だろう?」
挑発的なサカキの言葉にゲンジははめ殺しのマジックミラーを見やった。あの場所からキシベは高みの見物だろう。もしかしたら自分もキシベに取ってしてみれば実験動物の一体なのかもしれない。
しかし、それでも意地はある。実験動物ならばそれなりに経験を積ませてもらう。
「悪いが負ける気はない。俺が勝つ」
ゲンジがホルスターからモンスターボールを抜き放つのを視界に入れ、サカキは、「回復は」と訊いた。
「もちろん施してある。優勝候補相手に手加減は出来ないからな」
「結構」
サカキはホルスターから自分のモンスターボールを手にした。シルフカンパニーが製造している新型モンスターボールだった。
「負ける気はない、と言ったな?」
その声に、「それがどうかしたか?」とゲンジは尋ねる。サカキは鉄面皮を崩さずにボールを放り投げる。
「俺も同じだ」
その言葉とボールが割れて中からポケモンが姿を現すのは同時だった。出現したのは水色の表皮を持ったポケモンであった。刺々しい背びれが並んでおり、それでいて柔和な雰囲気をかもし出すポケモンは柔と剛を併せ持つと呼ぶに相応しい。大きめの耳がついており、額からは角が生えていた。
「ニドクイン。俺のポケモンだ」
ニドクインと呼ばれたポケモンが咆哮する。ゲンジは帽子の鍔を押さえ、「なかなかに育てられているようだが」と口にした。
「それでも俺には敵うまい。ゆけ、タツベイ」
ゲンジはタツベイを繰り出すとすぐさま命じた。
「進化、コモルー」
タツベイの頭部から甲殻が伸びて全身を覆おうとする。しかし、ニドクインが動いたのはそれよりも速かった。タツベイの全身が甲殻に守られる前にその鳩尾へとニドクインの拳が入る。
ゲンジは瞠目していた。何故ならば、ニドクインには命令が行き届いた形跡がなかったらからである。
「命令もなしに……」
進化途中のタツベイが吹き飛びフィールドを転がる。「おい、嘗めているのか」とサカキが睨んだ。
「悠長に戦闘中に進化させるなど。馬鹿のやる事だ」
ニドクインは起き上がろうとするタツベイへと腕をすっと掲げる。三つの爪先から水色の光が放射され、一条の光線と化した。「れいとうビーム」だと判じたゲンジはすぐさまタツベイへと命令する。
「タツベイ! 進化の時に使う甲殻を盾にして防げ!」
タツベイは進化途中であったが甲殻をあえて身体から外し、それを盾として使った。瞬く間に凍結した甲殻がひび割れ、地面に落下して粉砕する。
「次は右方向、三時の方角」
サカキの言葉にニドクインは従い、その場所へと的確に冷凍ビームを放つ。進化しようとしていたタツベイは身体の半分が凍らされていた。ドラゴンタイプに氷は効果抜群だ。
「跳躍してその間にコモルーへと進化!」
タツベイが跳び上がり、空中で甲殻を身に纏おうとする。しかし、その軌道を予知したようにニドクインは冷凍ビームを発射した。空中でタツベイが狙い撃ちにされる。
「……どうして。まるで次の行動が予見されているみたいに」
ハッとしてサカキを見やる。サカキは何も特別な指示を出していない。ただ攻撃すべき場所へと目を向けているだけだ。
「分かるって言うのか……」
まさか。ありえない。
ゲンジは怯みそうな心を勇ませてタツベイへと目を向けた。タツベイは奇跡的にコモルーへと進化を遂げたようだ。あとはボーマンダになればこちらのものである。
「コモルーの中で細胞を変化させるのには数分かかる。その間凌ぐんだ! ドラゴンクロー!」
コモルーが駆け出し、甲殻の隙間から水色の手が伸びる。瞬く間に「ドラゴンクロー」の爪先が拡張され、ニドクインを襲うがニドクインは両腕を広げて吼えると地面が揺れた。足裏から放出された茶色い波紋がフィールドを揺らしている。
「大地の力か!」
コモルーが体勢を崩した隙を突き、ニドクインが冷凍ビームを一射する。動きの鈍いコモルーでは避けきれない。コモルーは甲殻の一部を凍結させられた。
「甲殻を捨てろ! すぐに再生させてドラゴンクローを当てるんだ!」
コモルーが甲殻を捨て去り、ニドクインへと肉迫する。しかし、ニドクインもサカキも焦る事は全くなかった。
「ニドクイン、さばいてやれ」
応じたニドクインがコモルーの「ドラゴンクロー」を咆哮だけで蹴散らした。霧散した隙を狙い、ニドクインの拳が甲殻の隙間を打ち据える。ゲンジは舌打ちを漏らした。このままではボーマンダに進化する前にやられてしまう。
「コモルー、一旦離脱! 火炎放射で距離を取れ」
コモルーは陰になっている前面から火炎放射を使ってニドクインから逃れようとするが、ニドクインは炎など恐れていなかった。火炎を引き裂き、ニドクインの手がコモルーへと伸びる。コモルーを下段から殴りつけ、距離を取るのを許さなかった。圧し掛かり、拳で滅多打ちにする。甲殻が剥がれ、まだ細胞の変化の途上である内部が露になる。
「……こうなってしまっては仕方がない。ボーマンダ!」
ボーマンダはまだ不完全であったが赤い翼を広げてニドクインへと飛びかかった。翼で羽ばたき、赤い光弾を撃ち出す。ユキナリ戦で使った「ドラゴンクロー」の応用であった。一瞬にして囲い込んだ光弾に、しかしニドクインは怯まない。光弾を掴むと、なんと握り潰してしまった。これにはさすがのゲンジも目を見開く。
「馬鹿な、ドラゴンクローと同威力の攻撃だぞ……」
それに千の刃が掌を襲ったはずである。だが、ニドクインの手は健在だった。ボーマンダの前足を掴んで引き寄せようとする。ゲンジは最終手段に出た。
「逆鱗だ! 触れればダメージを負う!」
ボーマンダの内部骨格が赤く輝き、逆鱗状態へと移行する。逆鱗状態では全身が武器だ。さしものニドクインといえど、触れるだけでも凶器と化するポケモンに対しては無力だろう。
しかし、それが驕りであった事をゲンジは思い知った。ニドクインはボーマンダの首根っこを引っ掴んだかと思うとゼロ距離で冷凍ビームを撃った。逆鱗の光が薄らぐ。一発ではない。何度も、何度も、同じ箇所へと撃ち込まれる。精密射撃はそのうちにボーマンダの余力を削いでゆき、逆鱗状態の維持が難しくなる。そうでなくとも不完全な進化だ。これ以上は持たない、と判断したゲンジは声を張り上げた。
「火炎放射! こっちもゼロ距離だ!」
ボーマンダが喉の奥を赤く輝かせ、今に火炎放射の紅蓮が包むかに思われたが、あろう事かニドクインは開かれた口腔へと迷わずに手を突っ込んだ。
「ゼロ距離は、こっちのほうだな」
口腔内部で冷凍ビームが放たれ、ボーマンダの顔面から冷気が噴き出した。ゲンジは思わずモンスターボールに戻す。これ以上の戦闘継続は不可能だと判じたからだ。
「賢明だな。退き際を理解している。だが、真に賢ければ俺に立ち向かうべきですらなかった」
ゲンジはモンスターボールを握り締めながら肩で息をする。全く敵わなかった。その事実に歯噛みする。ニドクインを観察すると胸の中心に紫色の宝玉が埋め込まれていた。
「命の珠……。追加効果を発揮しない代わりに攻撃力を底上げする道具か」
だがそれだけでは説明出来ない事象もある。どうしてニドクインとサカキは、自分達の行動の先読みのような真似が可能だったのか。
「俺がどうして、お前のような雑魚と戦おうと思ったと考えているな。なに、ただ暇潰しをしたいだけだ。それ以外の何者でもない。未来の事象とばかり戦っていても退屈なのでな」
「未来の事象……?」
理解出来ない単語に首を傾げると、「おっと、これ以上は機密だったか」とサカキはマジックミラーの向こう側へと視線をやった。
「戻れ、ニドクイン」
ニドクインを戻し、サカキは、「これでいいんだろう?」と声を出した。恐らくはキシベに向けたものだったのだろう。間もなく扉が開き、キシベが現れた。
「ああ、充分だよ。やはり君は素晴らしい逸材だ」
「俺にくれてやる賛美など必要ないと考えているはずだ。どうせ解っているのだからな」
何を、とゲンジが質問する前にキシベが制した。
「これ以上の追及は無駄だと理解したはずだが」
暗にロケット団には底知れぬ闇があると言われているようなものだった。その闇に踏み込むには自分では力不足なのだと。
「大人しくホウエンの四天王の座に甘んじているのが関の山だ」
サカキの言葉に反発しようとするとキシベが、「それ以上は言ってやるな」とサカキをいさめた。
「もう戦力差は誰の目にも明らかだろう」
サカキは鼻を鳴らし、再び椅子へと座った。キシベに連れられ、ゲンジは部屋を出て行く事になった。
「これで、理解出来たかな?」
サカキというトレーナーを擁立する意味。それは充分に身に沁みた。もう立ち向かう気力など残ってはいなかった。
「あれでもまだ実力の半分ほどしか出していない。気づいていたかどうかは分からないが、ニドクインに彼は二つの技の指示しか出していなかった」
冷凍ビームと大地の力だろう。その二つだけで自分の自慢であったポケモンは再起不能寸前まで追い詰められた。
「……これが、玉座に上る人間の力か」
「分かってもらえて助かるよ。なに、君だけが珍しいわけじゃない。サカキ君の力については懐疑的な人間のほうが多いんだ。納得させるのには実際にバトルさせれば早いんだが、彼の性質上、相手を殺してしまいかねないのでね」
それは肌に感じられた。サカキのあれはポケモンバトルという生易しいものではない。殺し合いに近かった。
「何者なんだ……?」
余計に深まった疑念に、「追及はお勧めしない」とキシベは返す。
「君の命のためにもね。今日はここまでにしよう。タツベイはきちんと回復させておくから渡しなさい」
ゲンジはキシベにモンスターボールを手渡す。別れてから、ある事に気づいて立ち止まった。
「四天王とは何だ? 今のホウエンにそのような役職はない……。俺が約束したのは国防の矢面だ。一体、何の事を言っていたんだ?」
それを確かめるためにもう一度サカキの下へと行こうとは思わなかった。