第六十話「強者の頂U」
少年がポケモンを手に入れたのは八歳の誕生日の時だった。
両親から与えられたポケモンはホウエン地方でも珍しいポケモンであり、希少種のドラゴンタイプ、タツベイである事が分かった。ゲンジ少年はその頃からタツベイとよく遊びに出ていた。彼はタツベイの遊びに付き合わされる事が多かった。
タツベイは崖っぷちに立って、勢いをつけて飛び降りる習性があった。その時にはどうしてだか分からなかったが、後年調べるとタツベイは空を飛ぶ事を夢見ており、そのために努力を惜しまないポケモンなのだという。飛び降りはそのためだったのだが、ゲンジにはいつも生傷の絶えない自分の手持ちを心配したものだった。ゲンジ少年はゲンジ少年で、生傷の絶えない日々を送っていた。これは身体が弱いために友人達からいじめられる日々が続いていたからだ。ゲンジはタツベイで挑むもタツベイ自身強くないためにいじめは加速する一方だった。そんな時にゲンジはタツベイの飛び降りを眺め、「馬鹿だなぁ」と言って笑うのだ。
「夢見たって叶うはずがないじゃないか」
ゲンジはその点では達観した子供であった。そもそもタツベイのどこに空を飛べる要素があるというのだ。翼もなければエスパータイプのような素養もない。どこを取ったところで空を飛べるはずがないのだ。だというのに毎日飛び降りる我がポケモンを、ゲンジは愛しく思い始めていた。馬鹿だと半分思いつつもしゃにむに夢を追いかける様は素直に眩しかった。
「お前はいつか空を飛べるのかな」
ゲンジは出来るはずがないと思いつつもそうやって傷だらけのタツベイと共に弁当を食べるのが好きな時間の一つになっていた。そんな月日がいつまでも続くと思っていたが運命の力が訪れる事になる。それはそう遠い日ではなかった。ある日、いつものようにいじめっ子達からのいじめを受け、ゲンジは帰り際にタツベイと共にいつもの断崖に寄ろうとした。しかし、その時ホウエン地方を局地的な嵐が襲っていた。暴風が吹き荒れ、ゲンジは帰ろうと思ったがタツベイのためにも、自分のためにも素直に帰る気にはなれなかった。
断崖の傍には海流があり、大時化の様相を呈している。海が全身をくねらせて怒りを体現しているのが分かった。自分もあのようになれれば、と感じた事を思い返す。
荒れくれ者になり、無頼の輩として振る舞えれば。しかし、虚弱体質の自分では何一つ出来ないだろう。ゲンジはタツベイが飛び降りるように自分も崖っぷちに立った。そうすると白い波が弾け飛び、いつもならば顔を出している岩壁が削られているのを発見した。
それを目にした瞬間、崖が崩れ落ちた。崩落する岩と共に身体が投げ出される。ゲンジは牙のように自分を待ち構える痛みと衝撃に備えようとしたがいつまで経ってもそれは訪れなかった。目を開き、顔を上げるとタツベイが岩にその手をついてゲンジの手を掴んでいた。しかし、タツベイは今にも崩れてしまいそうな岩に取りついておりこのままではお互いに落下するのは必至だった。
「やめろ。お前も落ちてしまう」
ゲンジはタツベイに自分を離すように命じたがタツベイは頭を振った。意地でも主人を助けねばならないという決心の光が瞳にあった。だがタツベイの膂力では限界がある。今にも自分とタツベイは落下してしまうだろう。
「お前を巻き込みたくないんだ」
自分が、自分の責任で落ちるだけだ。それにポケモンを巻き込む事はない。そう感じたのだがタツベイは腕に力を込めて必死にゲンジの身体を持ち上げようとする。その力は今までにないものがあった。あまりの必死さにゲンジさえも息を呑んだほどだ。
その時、雷鳴が一閃し、岩が弾けた。近くに落ちた雷の衝撃でタツベイがバランスを崩す。
ああ、終わったな、と確信したその時であった。
タツベイの身体に変化が訪れたのだ。頭部にある岩石のような意匠の鶏冠が発達し、タツベイの姿を包み込んだ。一瞬にして、タツベイは甲殻を身に纏った堅牢な姿へと進化した。甲殻の内側からタツベイは手を伸ばし、ゲンジを抱えて海へと落下した。落下時の衝撃による死は免れたが、タツベイの形状は泳ぎに適しているとは思えなかった。四足で、あまりにも鈍そうだ。ゲンジはタツベイであったポケモンに捕まり叫んだ。
「お前だけでも岸に行くんだ!」
その言葉にそのポケモンは否定の声を出した。鋭く発した声が身のうちから雷鳴のように響き渡り、甲殻がひび割れ、赤い翼が割って出現した。天地を揺るがす咆哮が発せられ、そのポケモンは甲殻から水色の身体を出現させる。
それはタツベイの時とまるで異なっていた。攻撃に適したその姿は禍々しく、また同時に天啓のように感じられた。
「タツ、ベイ……」
ゲンジの声にそのポケモンは応ずる。タツベイであったはずのポケモンは赤い翼を備え、ゲンジの身体を軽々と掴むと岸どころか、空を舞った。
その瞬間、暗雲が切れ、雲間から差し込んだ光が虹を作った。虹の中を飛ぶのは常に飛ぶ事を夢見ていた一体のポケモンであった。ゲンジはそのままそのポケモンの背に乗り、ホウエンを俯瞰した。
嵐が過ぎ去ったホウエンは美しく広大で、ゲンジは自らの小ささを思い知ると共に自身が成長する事の大事さをポケモンから教わった。
ゲンジは命を救われたのだ。安全圏まで辿り着くとそのポケモンは再び甲殻に入り、タツベイへと戻った。驚くべき事にそのポケモンは進化形態とその前後を行き来できたのだ。通常ならばポケモン研究の権威にでも差し出すであろうところをゲンジは自らを高めるために使った。
タツベイはもはや以前までの弱々しいポケモンではない。その瞳に携えたのは強い意志の力だ。
それこそが強者の頂であった。タツベイは小さな身体に進化後の強大な能力を秘めたポケモンとしていじめっ子達へとゲンジの力の誇示を手伝った。傷つけはしない。それは自分が最も忌避するところだったからだ。いじめっ子達に教えたのは強者の頂に達した者には見える世界が違う、という事だった。バトルでは常にタツベイで勝ち進み、ゲンジの眼にはもういじけた光はない。その眼差しは真っ直ぐ頂点を目指していた。
程なくしてホウエンではゲンジの名を知らぬ人間はいなくなった。常勝と圧倒的強さが彼の名を知らしめていた。ホウエン最強とも謳われた彼だが決して驕る事はなかった。むしろ、常に飢えていた。自分より強い敵を。自分を成長させてくれる相手を。
それだけを求めて獣のように彼は戦った。虚弱体質は失せ、彼はタツベイと共に戦い抜いた。だからこそ、今回のポケモンリーグに彼が参戦したのは当然の帰結といえよう。自分より強い相手がいる。自分を成長させてくれる相手が。それだけで彼の心は満ち足りた。
カントーへと渡った彼へと接触してくる組織があった。ある男が彼の常勝成績に目をつけた。
「君よりも強い相手は大勢いる」
彼はそう言ってのけた。ゲンジとてそれは理解していたので、「その強い相手と戦わせてくれるのか」と理解は早かった。
「君は、いずれ自身を大きく成長させてくれる人物と出会うだろう。それはこの私が用意した最強のトレーナーだ。彼との戦いが君を躍進させる」
ゲンジは高鳴る胸の鼓動を抑え、「その人物は?」と名を尋ねた。