第五十九話「強者の頂T」
一階にいたのは神父であった。この時間に訪れた自分に不信感を抱くか、と思われたが神父は懇願するようにユキナリへとすがりついた。
「お願いです、どうか……」
その言葉にはユキナリも戸惑った。一体何を言っているのだ。その疑念が視線で伝わったのだろう。神父は恭しく頭を下げ、左側の顔をさすった。そこには鞭で打ったような傷痕があった。
「つい三時間前からなのです」
神父の言葉にユキナリは耳を傾けた。どうしてだか彼は心の奥底から困っている。それが理解出来たからだ。
「何だって言うんです?」
「黒服の連中がやってきました。そいつらの名目ではこの共同墓地に眠るとあるポケモンを突き止めたいと、つまるところ墓荒らしです、それを公然と言ってのけたのです」
黒服の連中。その言葉にユキナリはすぐさまマサキを拉致した集団を思い出した。神父は、「お願いがあるのです」と続ける。
「その黒服の連中を、この場所から追い出して欲しい。ここは昔から静謐に包まれてきました。これからもそうでしょう。墓荒らしは許されてはならない行為なのです。たとえどのような高貴な身分であれ、魂を穢す行為だけはこの世で最もあってはならぬ事。どうか、ポケモン達に眠れる安息を……」
神父は右目から涙を流しつつ懇願する。ユキナリは、「でも僕には」とヤドンへと目線をやった。ヤドンは自分のポケモンではない。言う事を聞いてくれるのか。神父は、「追い出してくれるだけです」と口にする。
「誰か人を呼べば、恐らく黒服達は退散するでしょう。あなたがそのきっかけになってくれるだけでいい」
それならばヤドンは適任だ。念力でいつでもガンテツが呼べるはずである。
「じゃあ、僕はそいつらを確認して、大声で人を呼べばいいんですね」
「ああ、ありがとう、ありがとう」
礼を言う神父を他所にユキナリは階段を上り始めた。そういえばどうして神父は一階にいたのだろう。
「どうしてあなたが人を呼ばなかったんです――」
その声は、視界に飛び込んできた光景によって遮られた。
誰もいなかった。神父がいたはずである。だというのに、足音も立てずに彼はこの場から忽然と姿を消していた。
――幽霊っていると思う?
ポケモンタワーに入る前に問いかけられた事が思い起こされユキナリは嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
「……まさか、な」
ヤドンと共に二階に上がると数人の黒服達が一つの墓標を囲っていた。神父の言う通り、墓荒らしか、と身構えていると一人がユキナリに気づき歩み寄ってきた。
「ああ、ちょっとした地質調査の一環でね。このポケモンタワーは随分と古いから、調査を定期的にしないと崩れてしまう恐れがあるんだ。君は、お墓参りかい?」
柔らかい物腰で尋ねてくる男はユキナリの事は知らないようだ。「ええ」と曖昧に濁しながらユキナリは尋ねる。
「何をやっているんです?」
「だから地質調査ですって。やましい事なんて何一つない、お上からのお達しでね」
「だったら、人を拉致するのとかもお上からのお達しですか?」
身を翻しかけた男はユキナリの言葉で足を止めた。その顔から笑みが消え、現れたのは能面であった。
「……何を知っている?」
「何も。ただハナダシティであなた方によく似た人々が人を攫うのを見たんです」
男は口元に貼り付けたような笑みを作り、「あまり勘繰っちゃいけないなぁ」と口にした。
「たとえそういう大悪人と我々が似ていたとして、君はどうする? ここはただの墓地だ。やましい事など何一つ――」
「墓荒らしをしていると言われました。あなた方が」
男は再び頬を硬直させ、仲間へと振り返った。目線で無言の了承を交わし合い、男はユキナリを見下ろす。
「何を知っているのか分からんが、大人の世界に子供が単身探りを入れるのは賢いとは言えないな」
「何者なんです、あなた達は」
男がユキナリの胸倉を掴んだ。
「あまり嘗めていると、痛い目を見るぞ」
脅しつけた男へと、「やめたほうがいい」と声がかかった。その声は黒服の中心から放たれたものだった。
「ああ?」と凄んだ男へと怜悧な声が差し込まれる。
「ヤドンを連れている。もし、そのヤドンが外に思念を飛ばせるのだとしたら、我々の行動は既に筒抜けという事だ」
「ヤドンごとやればいいだろう」
男の言葉に声の主は、「そのような短慮ではこれから先生きていけない」と告げる。
「いつだって、人の運命はその決断力によって試されている」
歩み出てきたのはまだユキナリとそう歳も変わらない青年であった。青年は船長が被るような立派な帽子を被っている。黒いコートを纏っており、厳しい空気が漂っていた。
「ゲンジ君。我々は君を招いたが、下につくとは言っていないのだ」
ゲンジ、と呼ばれた青年は、「だとしても、お前らに彼を害する権利はない」と応ずる。
「彼の眼を見よ」
その言葉にユキナリの眼を男が窺う。しかし、何も得られなかったようで、「何だ?」と声を飛ばした。
「……分からないか。まぁ、お前ら程度では無理もないな」
「ゲンジ君。あまり年上を嘗めないほうがいい。組織はいつだって君を見限れるんだ」
「やれるものならやってみるがいい」
ゲンジは一歩も退く気配はない。ユキナリを構っていた男が歩み寄りゲンジへと頤を突き出した。
「ゲンジ君よぉ、あまり賢いとは言えないな。実力者だからと言ってこれだけの人数相手に」
黒服の男が周囲を見渡す。同じような服装の男達がゲンジを取り囲んでいた。
「人数など、問題ではない。どうせなら一斉に襲ってくるといい。俺のポケモンは、お前らを一瞬で無力化する」
ゲンジがいつの間にかモンスターボールを突き出している。その形状にユキナリは声を上げそうになった。赤と白の球体、黒服達の持つモンスターボールであり、先ほどガンテツから見せられた新型の形状と合致した。
「いけ、タツベイ」
中央のボタンを押し込むと、ボールが割れ、中から光に包まれた矮躯が飛び出した。水色の表皮に、未発達の手足を持つ小型のポケモンだ。頭部は岩石のような形状をしている。
「未進化ポケモンで、嘗めてくれる!」
男達がモンスターボールを抜き放つ前に、タツベイと呼ばれたポケモンは素早く動き、男達へとその短い指先で額に触れただけだった。それだけで男達がまるで糸が切れた人形のように崩れ去った。ユキナリには何が起こったのか分からない。ただタツベイというポケモンが仕出かした事だけが理解出来た。
「お前の事は報告に上がっている。オーキド・ユキナリだな?」
ゲンジが自分の名を呼びユキナリは心臓が収縮した感覚を味わった。一体、この青年は何者なのだ。どうして自分の名を知っている?
「あのお方はお前の成長を見たがっている。だからこそ、分かっていて俺をこいつらに組ませたな。まさに、運命の歯車を動かしているかのごとく、これから起こる事象が必要だと判じているのか……」
ゲンジの言葉は半分も分からなかったがユキナリはゲンジから目を離せなくなっていた。逃げなければ、という思考は働くのに足が言う事を聞いてくれない。
「運命の強さの前では個人の意思などちっぽけだ。それこそ虫けらのように。あのお方は、それを理解した上で個人として立ち向かおうというのか。そのために俺達のようなカードを揃えている」
ゲンジが踏み出す。ユキナリはヤドンを通じてガンテツに思念を送るべきだと感じた。
「ヤドン――」
「ドラゴンクロー」
タツベイの手が拡張し青い光を帯びる。瞬く間に肥大化したタツベイの爪がヤドンを打ち据えた。ヤドンの身体が転がる。
「ドラゴンクロー? という事は、ドラゴンタイプ?」
タツベイはヤドンへと「ドラゴンクロー」を突きつける。ヤドンは呑気な顔のまま尻尾を揺らしていた。その尻尾の先端から青い光が走る。ゲンジが舌打ちを漏らした。
「既に知らされたか。まぁ、いい。その前にお前を倒せばいいだけの話」
ゲンジは顔を上げ、「ポケモンを出せ」と命じた。
「ポケモン、を……」
「そうだ。一対一の決闘である」
ゲンジの思惑は分からない。ただ、今オノンドを出しても勝てる可能性が低い事だけは理解出来た。
「僕、は……」
「どうした。出さないのか?」
ユキナリが怯んでいると、「まだ名乗りも儘ならなかったな」とゲンジは佇まいを正した。
「俺の名はゲンジ。ホウエンのドラゴンタイプ使いである。改めてよろしくお願い申し上げる。使用ポケモンはタツベイ。ドラゴンタイプだ。技構成は逆鱗、火炎放射、ドラゴンクロー、地震」
ユキナリは瞠目していた。まさか自分の手の内を丸々明かすような人間がいるとは思えなかったのだ。ゲンジは、「俺はフェアプレイが好きでね」と口にする。
「男ならば正々堂々とやるべき。だからお前のポケモンについて知っている事も教えよう。所持ポケモンはオノンドと呼ばれる一進化ポケモン。タイプはドラゴン。確認されている技はドラゴンクロー、ダブルチョップの二つ。これが俺の知りうる全てだ」
「どうして、わざわざ僕に」
「戦うつもりだからだ。正当なる決闘において相手の武器を知る事は当然の摂理。男は、そうでなくては超える事など出来ない」
「超える? 何を」
「相手をだ。それこそが強者の頂。そこに至れる人間は眼の色が違う。お前がまさにそうだ」
思わぬ言葉にユキナリはたじろいだ。ゲンジは構わず続ける。
「お前の眼の中には闘志がある。それこそ、誰の力でも消せない男の闘志。俺は顔写真からではあるが、それを知ったからこそあの方に協力する気になれた。強い闘志は俺を成長させる。俺は、俺をさらなる高みに連れて行ってくれる人間と出会いたいだけだ」
ゲンジは一歩踏み出す。タツベイが展開した「ドラゴンクロー」をそのままに構えを取った。ユキナリには何一つ理解出来ない。ゲンジが何を言っているのか。そして何故、戦わねばならないのか。
「あなた達は何です?」
「その答えを教えるのにも力が必要である。力づくで聞いて来い」
ゲンジの変わらぬ物言いにこの場で情報を得るには戦うしかないと感じたが、オノンドの入っているボールへと手を伸ばしかけて硬直させる。オノンドがこのような場で制御を離れたらどうする? もし、サンダー戦の再現になったら。
「どうした? 何を迷う」
ゲンジの声にユキナリは首を横に振った。
「……やっぱり、駄目だ。僕には」
戦わせられるだけの覚悟がない。オノンドが暴走した時が怖くて何も出来ない。
「ポケモンと人間、その本当の強さを解していないな。だからこそ、迷うのだ」
ゲンジの知った風な口にユキナリは歯噛みした。しかしその通りなのだ。今の自分にはオノンドを信頼出来ていない。二ヶ月前に逆戻りしたかのようだ。ポケモンの扱い方の基礎すら知らなかった頃に。いっその事全部忘れられればよかったのに。自分は忘れる事も儘ならずオノンドとの関係性を惰性の中に漂わせている。
「タツベイ」とゲンジが呼ぶとタツベイは攻撃の光を仕舞い込み、一瞬にしてユキナリへと肉迫した。その短い手が鳩尾へと打ち込まれる。ユキナリは膝を折って胃の腑へと落ちてくる痛みを感じた。
「それがポケモンも感じている痛みだ。お前は、それが恐ろしくって戦いを避けているのか? それとも御せないのがそれほどに恐怖か?」
ゲンジの言葉に、「何を知った風な……」とユキナリは口にしていた。奥歯を噛み締め、痛みを押し殺す。
「知った風も何も、制御の利かない力を使う事ほど人間にとって毒となる事はない。制御出来ないからこそモンスターボールを進化させた。このモンスターボールは言うなれば支配の象徴。人間がポケモンを屈服させてきた証なのだ」
ゲンジがモンスターボールを翳す。ユキナリはオノンドを出そうとしたが、やはり踏ん切りがつかなかった。ゲンジが鼻を鳴らし、「ならば」とタツベイに命じる。するとタツベイはユキナリのホルスターからモンスターボールを引っ手繰った。
「な、何を……!」
「不戦勝は趣味ではないが、致し方ないな」
タツベイが再び手から青い光の爪を顕現させ、モンスターボールを押し包む。それだけでモンスターボールが押し潰されかねない膂力があるのが分かった。
「やめろ!」
ユキナリは制止の声を出すがタツベイが手を緩める気配はない。
「お前の眼ならばもしや、と思ったが、やはり強者の頂に登れるのは一人だけ。この世でただ一人の特権。それを持て余すというのならば、俺がいただくまでだ」
タツベイの手によってモンスターボールが圧迫される。みしり、と亀裂が走った。決断を迫られている事がユキナリには理解出来た。
オノンドを出して戦うか。ここでオノンドもろとも死ぬか。
拳をぎゅっと握り締める。制御出来ないオノンドは怖い。だが――。
「ここで逃げるのは、もっと怖いんだ。もう、逃げたくないと誓った」
ユキナリはタツベイへと飛びかかっていた。タツベイの展開する「ドラゴンクロー」の熱線に晒され手を焼きかねない熱さがモンスターボールの表面に宿っている。ユキナリはタツベイからモンスターボールを奪い取り、ボタンを押し込んだ。
「いけ、オノンド!」
亀裂の走ったボールが砕け、中からオノンドが飛び出していた。牙を突き出しタツベイへと押し出そうとする。タツベイは青い光の爪で受け止めたがそれでも減衰出来ない衝撃波で仰け反った。衝撃波が墓石を打ち砕いていく。
「これがオノンドの能力か」
ゲンジの呻きにタツベイが「ドラゴンクロー」を突き出してオノンドへと攻撃を仕掛けるがオノンドはそれよりも速く牙から青い光を扇状に展開させた。「ドラゴンクロー」同士がぶつかり合い干渉のスパークを弾けさせる。均衡を破ったのはオノンドのほうだ。すかさず発達した腕でタツベイへと掴みかかる。タツベイは喉元を押さえつけられ「ドラゴンクロー」の展開が薄らいだ。
「気を抜くな。火炎放射!」
タツベイの喉が赤く明滅したかと思うと、次の瞬間火炎が吐き出された。熱が周囲を取り囲みオノンドが一瞬たたらを踏んだ。その隙を逃さず、タツベイが腕を下段に構える。
「ドラゴンクロー」
ゲンジの声にタツベイが突き上げた爪がオノンドの顎を揺らした。オノンドが覚えず後ずさる。着地した瞬間、ゲンジは命じた。
「タツベイ、地震」
タツベイが片足を持ち上げてしこを踏む。足裏から放たれた茶色い光の波紋が空間を満たした時、周囲がにわかに揺れ始めた。オノンドがバランスを崩す。それに乗じてタツベイが再接近した。
「もう一度、ドラゴンクロー」
タツベイが龍の爪でオノンドを切り伏せようとする。しかし、それを受け止めたのはオノンドの両手だった。
「白刃取りだと?」
ゲンジがうろたえる。オノンドは赤い瞳に野生の光を宿し、雄叫びを上げた。直後に受け止めた「ドラゴンクロー」を破り、硬質の牙を振り上げる。
「ダブルチョップか。離脱だ、タツベイ」
即座に地を蹴ったタツベイが離れる。その空間を引き裂くように二回牙が打ち下ろされた。ゲンジが息をつく。
「トレーナーの命令を聞かずに攻撃……、いや、違うな。これは暴走だ」
見抜かれたユキナリは心臓が収縮した感触を味わった。ゲンジは帽子のひさしを掴んで、「ワイルド状態、という奴か」と冷静に分析する。
「ボールが砕かれた事も影響しているのだろう。目に映る全てのものが攻撃対象だ。これでは勝負にならないな」
オノンドが雄々しく叫び、両方の牙から剣のような青い光を突き上げる。オノンドはそのまま打ち下ろした。タツベイがステップを踏んで回避する。
「トレーナーとしては失格だな。ポケモンは操らねばならない。だというのにただ野生の状態と同じく戦うのではトレーナーの存在意義がない」
ユキナリは歯噛みしてオノンドへと命令の声を飛ばした。
「オノンド! 僕に従え!」
しかしオノンドは聞き入れる様子はない。タツベイへと狙いを定めると地面を蹴って飛びかかった。タツベイが「かえんほうしゃ」で行く手を遮る。オノンドは壁を蹴り、墓石を叩き潰してタツベイへと距離を詰めようとするがタツベイは牽制の「かえんほうしゃ」で一定の距離を保っている。
「いくら叫んだところで、ポケモンとの間に信頼関係がなければ何も意味を成さない。無駄な事だ。分からせてやろう」
ゲンジがタツベイの名を呼ぶと、タツベイの頭部にある岩石のような鶏冠が引き伸ばされた。分割し、体表を覆っていく。タツベイが四足になると、長大になった鶏冠は全身を包んだ。まるでさなぎのようにタツベイの姿が完全に消え、そこにいたのは全く別のポケモンであった。四足で堅牢そうな甲殻に身を包んでおり、内部が僅かに窺えるのは中央の暗がりだけだ。そこから黄色い眼差しがこちらを睥睨する。
「進化、コモルー」
その光景にユキナリは息を呑んだ。
「進化、した……」
ありえない、と判ずる神経が一方でありながら一方ではキクコのゴーストを見ている分、不可能ではないと感じていた。
「俺はタツベイを自由自在に進化させる事が出来る。これぞ、強者の頂。ポケモンとトレーナーの関係の極み」
コモルーと呼ばれたポケモンは四足で蹴ってオノンドへと肉迫する。その甲殻の一部が剥がれ、中から水色の手が飛び出した。青い光を纏い、攻撃が放たれる。
「ドラゴンクロー」
不意打ち気味の一撃にオノンドが傾いだ。コモルーは一撃離脱戦法を取っているのか、オノンドの脇を走り抜け、制動をかけたかと思うと背後に回った。
「もう一度、ドラゴンクロー」
甲殻から水色の手が覗く。ユキナリは叫んでいた。
「オノンド、後ろだ! 回避を」
しかし、オノンドは言う事を聞かず、振り返り様の「ドラゴンクロー」で相殺させた。両者が後ずさるがコモルーのほうが動きは鈍い。オノンドはすかさず飛びかかり、牙で甲殻を打ち破ろうとする。しかし、灰色の甲殻はそう簡単には破れなかった。逆にオノンドの牙にダメージがあるほどだ。
「コモルーは次の進化の前に細胞を作りかえるため、このような形態を取っている。伊達に硬いだけではない。そして安易に近づいたな」
甲殻の一部が剥がれ、水色の手が飛び出す。ユキナリが気づいて命令するよりも早く、水色の手が青い光の爪を帯び、オノンドの腹部に突き刺さった。オノンドが呻き声を上げる。
「そろそろ落ちるか?」
ゲンジの声にオノンドはよろめきながら後ずさった。赤い瞳が爛々と輝き、獲物を探している。ユキナリが声をかけようとしたその時、オノンドの目が細められた。
狙われた、と硬直した細胞が告げる。今すぐにここから逃げなければ。しかし足が動かない。オノンドが牙から光を放出させ扇状に固定する。「ドラゴンクロー」だ。今すぐにでもここから踏み出さねばオノンドの牙にかかって自分は死ぬだろう。それはお互いにとって禍根を残す。オノンドは主人を殺めたという罪の意識を。自分は手持ちに殺されたというトレーナーとしては失格の烙印を。
オノンドが身を沈めた。来ると確信した神経が粟立つ。その時であった。
「……ユキナリ?」
その声に視線を振り向ける。ナツキが階段から上ったところに立っていた。どうして、という声が喉から漏れる前にオノンドがナツキへと標的を変える。赤い瞳が敵意の眼光を携えてナツキへとオノンドが飛びかかった。既に敵味方の区別はない。オノンドは野生と同じなのだ。だからナツキであろうと誰であろうと簡単に襲いかかる。そこに分別はない。
しかし、ユキナリは叫んでいた。
「やめろ! オノンド!」
自分ならばまだいい。しかし、自分以外を傷つける事だけは許せなかった。その声にオノンドの牙が止まった。少しでも動けば扇状に展開した光が首を落とそうと迫っている。ナツキは腰が砕けたのか、その場に尻餅をついた。オノンドがユキナリへと振り返る。ユキナリは自分の胸元を叩く。
「やるのなら僕をやれ。そうすれば、お前は後悔しない。少なくとも僕の大切な人を傷つけるよりかは」
ユキナリの言葉が通じているのかいないのか、オノンドは首を振って呻いた。ユキナリは声を張り上げる。
「お前は! 僕のポケモンだ、オノンド!」
オノンドが右目を押さえる。額から瞼にまで至った傷痕をなぞり、必死に思い出そうとしているようだった。ユキナリは一歩、踏み込んだ。
「危ない!」
ナツキの声が飛ぶと同時にオノンドが牙を打ち下ろす。近くの墓石が削れ、その破片が飛び散った。
「この瞬間に分かったんだ。オノンド。僕もお前を恐れていた。サンダー戦で、制御不能になったお前から距離を置こうとしていたのは誰でもない、この僕だ。制御不能になるのが怖いんじゃない。その牙が僕に向く事が怖かった。でも、もう恐れない。誰かを傷つけさせるくらいならば僕は甘んじて受け容れよう」
その牙が誰かの血で汚れる事のないように。オノンドは右目が疼くのか喉の奥からか細い声を漏らした。誰よりも寂しかったのはオノンドのはずなのだ。主人である自分から見離されたような真似をされた。強敵と戦わせられ死の恐怖に直面した。その中で慰められず、ただ放置された。それがオノンドにとっては何よりの恐怖であったのだ。ユキナリにはようやく理解出来た。身が竦み上がるほどのオノンドの殺気を感じ取ってようやく、その心が望む方向性が分かった。
「オノンド」
もう牙がかかる距離だ。オノンドは牙を打ち下ろそうとする。しかしそれは霧散した。攻撃色を失ったオノンドは項垂れてユキナリへと寄りかかってきた。きっと一番に戸惑っているのはオノンドなのだろう。進化して強くなったと思い込んでいた。それでも至らぬ領域があり、主人とどう接すればいいのか分からなくなっていた。
「ちょっとずつだ。ちょっとずつ強くなっていこう。僕らは、それが出来るんだから」
一気に成長出来なくてもいい。一緒ならば強くなれる。
「どうやらきっかけを掴んだようだな」
ゲンジの声にユキナリは振り返った。モンスターボールの束縛がない今ではいつ暴走の危険性があるか分からない。それでもオノンドを信じよう。そうする事がきっと一番いいはずだ。
「だが、モンスターボールなしで言う事を聞くと思うのか?」
「誰がないやって?」
その声にユキナリは目を向けた。すると肩で息をしているガンテツの姿が目に入った。ガンテツは額の汗を拭い、「ヤドンのSOSの思念、伝わっとった」と口にする。
「でも、これが完成するまでは行くわけにはいかんかった。オーキド。これがお前とオノンドを繋ぐ、次の段階のボールや!」
ガンテツがそれを放り投げる。ユキナリが手に掴むとそれは上部が黒く、崩れた象形文字で「GS」と刻まれていた。形状は新型のモンスターボールと同系統だ。
「GSボール! 未完成やが、今のお前らには必要やろう」
ユキナリは頷き、「ありがとう、ガンちゃん」とGSボールをオノンドへと向けた。
「入ってくれるか?」
その了承の声にオノンドは気高く鳴いた。ユキナリがボールを向けるとオノンドが赤い粒子になってGSボールへと入っていく。
「改めて、オノンドが手持ちになったわけか」
ゲンジの声にユキナリはボールを翳し、「ああ」と応じた。
「僕にはオノンドがいる。これまでも、そしてこれからもそうだ」
ユキナリはボールを投擲した。ボールが割れ、中から光に包まれたオノンドが出現する。コモルーを視界に入れるとオノンドは咆哮した。理解出来る。オノンドが今、自分のポケモンである事を。ゲンジは、「来い。強者の頂へ」と呟き、身体を開いた。