第五十五話「男のけじめ」
ゴールデンボールブリッジから望める視界の中に洞窟がある。ハナダの洞窟と呼ばれる巨大な鍾乳洞で、その内部には強力なポケモンがひしめいているのだと言う。立て看板がしてあり「洞窟に注意! 凶暴なポケモンが出ます!」とある。その下には小さく「ハナダ警察は一切の責任を負いません」とあった。勝手なものだ。
「キクコ。話ってのは」
ユキナリが切り出すとキクコは、「うん……」と顔を伏せた。話しづらい事なのかもしれない。特に先生というのが何を示しているのか。ユキナリはそれを知る事が、キクコという少女を知る事だと感じていた。
「先生は……」
そこで一陣の風が吹き抜けた。青々とした草原を緑色の風が撫でていく。キクコは、「綺麗……」と声を漏らしていた。当たり前の光景でありながら、キクコという少女の感性に触れたようだ。
「キクコは、どんな家で育ったの?」
草むらにそよぐ風を綺麗だと言える人間がどういう環境で育ったのか。ユキナリには興味があった。
「うん。大体、いつも暗い感じだったかな。空から差し込む光も、一定で、こういう空しか見た事ないの」
キクコは親指と人差し指で丸を作った。その円で収め切れないほどの青空が広がっている。キクコは手を広げ、空を振り仰ぐ。
「知らなかった。こんなに世界は広いなんて」
特殊な条件で育てられたのは言動から察知していたが、もしかしたらキクコはその先生とやらに自由を奪われていたのかもしれないとユキナリは感じた。
「キクコ以外の、家族は?」
家族、という言葉にキクコは首を傾げた。まるでそのような言葉は頭に存在しないかのように。
「ほら、家族だよ。お母さんとか、お父さんとか。そういうの」
ユキナリの説明にキクコは両手を合わせて、「ああ、それが家族って言うんだ」と口にした。
「私は、お母さんとかお父さんとか、よく分からないの」
「よく、分からないって……」
「いない、って言うのも変かな。先生が言うには、あなた達にはお父さんもお母さんもいるんですよ、って事だったけれど」
「その先生って言うの、どういう人なの?」
当初の論点に戻り、キクコはまたも口を噤んだ。自分からそれを話すと切り出しておいて、いざとなるとどこから話せばいいのか分からないらしい。
「……先生ってのは、キクコにとって大事な人なの?」
「うん。すっごく大事な人。多分、ヤナギ君よりも」
それを暗に家族と呼ぶのではないのだろうか。ユキナリの疑問を他所にキクコは、「でもとっても厳しいの」と続けた。
「本当は、ヤナギ君とも会っちゃ駄目って言われていたの。他人は怖いから。怖いものは仕舞っちゃいなさい、って教えられていたから」
「キクコは、怖いものって何なの?」
その問いにキクコは少しの逡巡を浮かべた後、「色んなものが」と答えた。
「最初、先生にポケモンリーグを戦い抜きなさい、って言われた時は全部が怖かった。だって、何も知らない場所へと突然放り込まれたみたいなものだから」
「先生は、助けてくれなかったの?」
キクコは首を横に振る。
「先生は、私を助けないよ。何があったとしても。きっと死んじゃったって、代わりはいるって言っていたもの」
そんな馬鹿な事がまかり通ってきたのか。ユキナリはキクコが思っていたよりもずっと過酷な場所にいたのでは、と想像を巡らせたが自分がいくら考えたところで答えはキクコの中にしかないのだ。
「僕は、キクコの代わりなんていないと思うよ」
ユキナリの言葉に、「どうかな……」とキクコは微笑んだ。寂しい笑みだった。
「先生が何を考えているのか、今でも分からないの。もしかしたら、先生は私なんか愚図でのろまだって分かっていたから、わざとこういう場所に連れ出したのかもしれない。いつだって、みんなとはぐれていたから」
「兄弟がいたの?」
みんな、というのが何を示すのか分からなかった。先生、という言い回しからクラスメイトか、と思ったが、それにしてはキクコの口調には重たいものがある。
「ううん。みんな、っていうのは、何て言えばいいのかな、私だったり、私以外だったりした」
キクコの言葉は要領を得ないものだったが、その言葉はある意味では正しいと感じた。他人は自分だったり、自分でなかったりする。そういう事なのだろう。
「……そうか。キクコも大変なところで育ったんだね」
その苦労は推し量る事しか出来ないが、少なくとも自分よりかは大変だっただろう。ユキナリはつい二ヶ月前までの自分を顧みた。
「僕は、絵描きになりたかったんだ」
「なれるよ。だってユキナリ君、絵が上手いもん」
「あんなの、まだまだだよ。僕は、世界の広さも、何も知らずに、ただその夢を追っていれば誰かに置いていかれずに済むと思っていた」
キクコと同じだ。世界の広さを知らず、見える景色も同じままならば、それは鎖に繋がれているのと何ら変わりはない。
「戦ってみて、分かった。自分に何が出来るのか、何を成せるのかって言うのが」
世界に挑んでみて、ようやくはかれる自分もある。二ヶ月前まではその物差しすらもなかったのだ。
「ナツキに言われちゃったんだ。軟弱者、って。全く、その通りだ。……今も変わらないな」
自嘲気味にユキナリは呟く。戦うだけの勇気も持たず、ただ安寧と惰弱の日々を過ごしているのならば、それはでくの坊と同じ事だ。
「ここに来て、進む道が分からなくなった。僕ってその程度の人間だったのかな、って思うよ。まだ二つ目のジムなのに、もう諦めに入っている」
橋の手すりにもたれかかりながらユキナリは首を振る。アデクも自分の不手際で傷つけてしまった。これ以上、誰も傷つけたくない。
「私は、行くよ」
キクコの言葉にユキナリは視線を振り向けた。キクコは自分と違う、どこか遠くを眺めている。
「まだ何も成していないもの」
話を聞く限り、キクコのほうがいつ諦めてもおかしくないのに、彼女は自分にないものを見据えている。その眼差しの光は衰えを知らない。挑戦者の眼だ、とユキナリは直感的に感じ取った。今まで戦ってきた、イブキやタケシ、それに様々なトレーナーと同じ眼をしている。何かを成そうとする人間。それこそ、前を向く人間のみが持つ光を湛えている。
「……キクコは、最後まで旅を続ける気なの?」
「うん」
「それは、先生に言われたから?」
「それもあるけれど、でもユキナリ君たちに会えたから。そう辛いものばかりじゃないんだって、思えるもの」
ユキナリはその言葉に目を見開く。自分の存在が誰かの支えになる。戦ってきた人々が、自分を形作る。
「そう辛いものじゃない、か」
繰り返し、ユキナリは自分の頬に張り手を見舞った。突然の行動にキクコが狼狽する。
「大丈夫? すごい音がしたけれど……」
「誰かに期待してばかりじゃいられないんだ。自分で進まないと」
心配するキクコを他所にユキナリはハナダシティへと戻ろうとした。キクコが、「今のは……」と呟く。
「何でもない。ただの、男のけじめって奴だよ」
そう呟いてユキナリは街へと踵を返した。