第五十一話「氷結の意志」
「何するん――」
ユキナリはそこで気づく。水の中なのに水圧も、息苦しさも感じない。それどころか普通に会話が出来る。異様な状況にユキナリは周囲へと視線を巡らせた。薄い空気の被膜があり、それが自分達と水を隔てている。ユキナリがそれに触れようとすると、「少しだけ秘密の話をしましょう」とカスミの声が耳元で弾けた。
ユキナリはその段になって、自分とカスミを覆うように張られた被膜がプールの中を漂っているのが自覚させられた。目の前にはカスミの手持ちであるスターミーが全身を広げて念力を放っている。
「スターミーに水中でも話せる空間を作ってもらった」
カスミの突然の行動に、「どうしてこんな」とユキナリが声を出すと、「見られているわ」とカスミは天窓を振り仰いだ。ユキナリが視線を振り向けると水面越しに何者かの影が天窓の傍に立っているのが窺えた。
「唇を読んでいた。恐らく組織の手の者ね。わたしが余計な事を喋らないように監視していたんでしょう」
カスミはさも当然の事のように受け止めているが、ユキナリには狼狽の対象だった。どうして自分達が監視されているのか、と思い直して、先ほどのカスミの話に繋がった。
「……僕らは、最初から監視されていた?」
いつからだろう。マサキの別荘に訪れてからか。あるいはそれよりも前か。ジムリーダー殺しに自分の名前が挙がったところからと考えればオツキミ山辺りからか。
「そうね。わたしが教えるわけにはいかなかった。だって組織は絶対だもの」
カスミは人魚さながら水中を自在に漂う。ユキナリは横転しないようにするのが精一杯だった。
「だからこの場を……」
「水の中をわたしが勝手に泳ぎ回っているように見えているはずよ。それでも充分に不自然だけれど、あなたに伝えるにはそれしかなかった」
カスミがユキナリの手を取る。ユキナリは息を詰めてその行方を見守った。
「何です?」
「ここからはわたしの勝手な推論。事実とは異なるかもしれない。それに、もしかしたら組織の情報の禁に触れる可能性がある。だから、隠密にあなたと話をする必要があった」
前置きを飲み込み、ユキナリは頷く。
「キクコちゃんじゃない」
その言葉にはさすがに瞠目した。先ほどまでキクコをさも犯人のように扱っていた人間の言葉とは思えなかった。
「どうして」
「あの子には出来ない。それは見れば分かるわ。何人のトレーナーを見てきたと思うの?」
カスミの自信にユキナリは閉口するしかない。「でも」と彼女は口調を翳らせた。
「その可能性は大いにある。組織は、多分キクコちゃんの動向を監視すると思う。それに、これは結構希望的観測も入っている」
「何で庇い立てしてくれるんです?」
「あなたも信じたんでしょう? だったら信じ抜きなさいよ。男の子なんだから」
理論も推論も全て捨て去った、カスミの本来の言葉に思えた。カスミは、「犯人の情報は」と続ける。
「血液を急速に冷やす事の出来るポケモン。氷タイプも視野に入れていた」
「だからヤナギを」
カスミは首肯し、「でも彼じゃない」と伝える。
「彼は、恐らく殺しは厭わない性格だろうけれど、闇討ちでバッジを手に入れるような人間じゃない。シロナから聞き及んでいる。その性格は非情でありながら強烈なカリスマを持つ。目的のために手段を選ばない氷結の意志がある」
「氷結の、意志……」
「全部シロナの感想になるけれど」とカスミは前置きする。
「彼にならば、利用されてもいいという気分にさえ陥る。それでさえトレーナーとしての実力と見なせば強大な相手よ。しかも、彼はあなたを敵視している。オーキド・ユキナリ君。あなたと彼は、遠からず戦う運命にあるでしょう」
カスミの予言めいた言葉にユキナリも自分の中の感情を整理した。ヤナギと相対した時の緊張感、どちらかが倒れなければ決しない平行線の眼差し。恐らく、次に会う時には命を賭した戦いになるだろう。それは想像に難くなかった。
「わたしはあなたにヤナギを倒すポテンシャルがあると踏んでいる」
それは先ほど自分の事を思い過ごすなと言ったのと同じ口だろうか、とユキナリが怪訝そうに見やっていると、「こっちが本音」とカスミは微笑んだ。
「でもそういう自分勝手な理想を押し付けるのは、迷惑かしら?」
カスミの声にユキナリは、「いや」と首を振った。拳を握り締める。ヤナギを超える。キクコを守る。そのために強くなる。どれも達成しなければならない事だ。いずれ玉座につくつもりならば。
「やります。やらなきゃいけないんだ」
カスミは、「そうでなくっちゃ」とユキナリへと指鉄砲を向けた。ユキナリは、「素直なあなたのほうが、ずっといいですよ」と笑ってみせる。カスミはすると、少しだけ呆けた顔になった。どうしたのだろう、と呼びかけると、「ああ、ゴメン」とカスミは前髪を掻いた。
「ちょっと前に言われた事を思い出しちゃって」
「言われた事?」
「君は素直に喋るほうが似合うって。それも、確かあなたと似たような人だったわ。一年くらいだけれど、その人と、タケシとカントーを旅した事があるの」
その話は初耳だった。カスミは天窓を気にする。どうやら他には聞かせたくない話なのだろう。
「じゃあタケシさんとは」
「ええ、顔見知り。あいつ、堅気に見えて意外にナンパな奴でさ。綺麗な女の人には目がないの」
タケシの意外な側面にユキナリは驚いていた。カスミは笑いながら続ける。
「わたしはそいつのツッコミに回るのが常だったわね。あいつったら、いい女ならここにもいるってのに。それをあいつと言い合っていたのよね。タケシは仕方のない奴だって。でもいざという時には頼りになったし、三人ともとても強くなった」
「あの、もう一人ってのは」
「もう、会っていないわ。彼がどこにいるのかも分からない」
カスミはどこか後悔を浮かべるように吐息をついた。ユキナリはそのため息の理由が分からずにただ見つめる事しか出来ない。
「どうしているのか……、わたしの事なんてもう忘れたのかもね。相棒がピカチュウで、とても、とても強いトレーナーだった」
その名前を口にしようとして、カスミは首を振った。まるで憚られるかのように。
カスミにとってタケシの死は旧友の死でもあったのだろう。だからこそ、犯人に対する憎しみは深いはずなのに、それをおくびにも出さない。
「カスミさんは、悲しくないんですか?」
聞いてみてからしまった、と感じた。あまりにもデリカシーに欠ける一言だ。カスミは、「いいのよ」と呟いて空を仰いだ。
「水の中なら泣いても分からないから」
その言葉にユキナリは覚えずカスミの手を引き寄せていた。「ユキナリ君?」と声がかかる前に、その手を強く握り締める。
「絶対に、僕が犯人を見つけ出す」
それは固い決意だった。カスミは、恐らくはもう旅をする気はないのだろう。それは先ほどから言葉の節々に表れていた。もう何も失いたくない。カスミの目からこぼれ落ちた涙が、無重力空間のように水泡の中を漂う。カスミは目元を拭いながら、「バカ……」とユキナリの額を小突いた。
「女の子泣かせるなんて、駄目よ、ユキナリ君」
カスミは顔を伏せて嗚咽を漏らした。今この瞬間だけ、カスミはジムリーダーの重責も、組織の一員という重石も捨て去り、ただの少女として咽び泣いた。
カスミが泣いていたのはほんの短い間だった。時間にすれば一分もない。それだけで持ち直す彼女の強さにユキナリは感服していた。
「そろそろ出なくっちゃ。不自然に思われるわね」
カスミが水の中でスターミーを戻したせいでユキナリは水泡から開放された代わりにびしょ濡れになった。カスミは中に着込んだ水着のお陰で濡れても全く問題ないようだ。
「わたしに勝った、ナツキちゃんに見つかる前に、きちんと服を乾かしてから行きなさい」
ユキナリはそこで小首を傾げる。
「どうしてナツキに?」
ユキナリの疑問にカスミはため息をついた。
「……本当、分かっていないのよね。世の男共は」
呆れ果てた、というカスミの言い分にユキナリは反抗の口を開いた。
「失敬な。僕とナツキは幼馴染ですよ」
「そういう事じゃないのよ」
そういう事じゃ、とカスミは繰り返した。その問いだけは、今まで積み重ねてきた疑問の中でも特大に解答の難しいものに思えた。