第五十話「仕組まれた出会い」
天窓から差し込む月光は静かに時を刻んでいた。
希望を待ち望むかのような沈黙が降り立っている。しかし、ここで顔をつき合わせる事になった二人に関して言えば、希望とは正反対の居場所にあった。プールの水面が揺れている。青い光を湛えた水の原を一瞥したユキナリは、目の前で背中を向けたままの人物へと声をかけた。
「カスミさん」
その声にカスミは振り返る。後悔の念も、懺悔の言葉もなく、彼女はただ淡々とユキナリを見つめた。ここで言うべき事は一つだけだった。
「カスミさんは、あの連中と繋がっていたんですね」
あの連中、とユキナリが指したのは優勝候補のシロナ、カミツレと名乗る女性、そして自分へと敵意を向けてきたヤナギという少年だった。彼らが何者なのか。それも問い質せねばならない。
「谷間の発電所には最初、彼らが行きつくはずだった。でも、僕がイブキさん達のいる可能性を追って向かうのをあなたは止めなかった。何故です?」
サンダーと呼ばれるポケモンの仕業だという断定が出来なかったからなのか。そう言って欲しい心境があったが、カスミの言葉はその期待を裏切るものだった。
「一つの可能性として、あなた、オーキド・ユキナリを彼女達に会わせる必要があった」
カスミの言葉にユキナリは疑問符を浮かべる。
「どういう意味です?」
「ニビシティでの事件を、あなたは知っているかしら?」
「事件?」
あの場所での事件といえばジムトレーナーが出すぎた真似をしたことだろうか。そう考えていると、全くの予想外の言葉が飛び出した。
「あの殺人事件を」
ユキナリはハッとする。ヤナギは自分を見るなり「人殺し」と判断した。それはどうしてなのか。その背景に、殺人に繋がるようなものがあったからに違いない。
「誰かが、死んだんですか……」
ニビシティで。では一体誰が、と考えたがそれこそ野暮だ。ジムリーダーであるカスミに行き渡っている情報ならば一般人であるはずがない。
「まさか、タケシさんが?」
信じられない言葉であった。タケシが、そう簡単に死ぬはずがない。自分ともう一度戦う事を誓ってくれた、あの真っ直ぐな男が。しかし、カスミは陰鬱に顔を伏せて、その予感を決定付けた。
「その通りよ。ニビシティジムリーダー、タケシとジムトレーナーの死、いいえ、殺人ね。これは公にはされていないけれど、組織に属しているジムリーダーならばみんなが知っている。自分が次の標的になりかねないからね」
カスミの言葉にユキナリは眉をひそめる。
「組織、ってのは……」
「今さら、隠し立てする事でもないか」
カスミは呟き、ユキナリへと言葉をかける。
「わたしはある組織に属している。それは人種、地方の枠組みを超えた、超法規的な組織よ。今回のポケモンリーグにおいて、カントーがどうしてこれを開催しなければならなかったのか。そもそもその時点からわたし達は疑っている」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
さすがに思考が追いつかない。組織、と言われてもその全体像がぼかされていて焦点を合わせる事すら困難だった。
「理解の必要はないわ。ただそういうものがある、という事を認識しておいて欲しい」
つまり、いちいち自分の言葉に過剰反応するな、と言う事か。ユキナリは了承の首肯を返し、「でもだからって」と口を開く。
「その組織が何なんです? ジムリーダーの、タケシさんの死はショックですけれど、それが何か――」
「ジムリーダーを殺す理由は、思いつくかしら?」
遮って放たれた言葉にユキナリが口を噤む。ジムリーダーを殺す理由。それは一つしか思い浮かばない。
「ジムバッジの奪取」
それがもっとも現実的にジムリーダーを殺す理由だろう。カスミは深く頷いてから、「ニビシティのタケシ」と目を伏せた。
「彼は、残念だったわ。ジムバッジを奪われ、これからトレーナーとしての再出発をしようという時に襲われた」
「犯人の目星はついているんですか?」
ユキナリの質問にカスミは、「ナンセンスね」と笑い、怪訝そうな目を向けてきた。その眼差しの意味が分からず、ユキナリが言葉を彷徨わせていると、「トレーナーカードには」とカスミがジャケットからトレーナーカードを取り出した。
「更新すれば最後に戦った相手の名前が打ち込まれる。ポケギアと同期しているシステムだから、ポケギアでポイント交換した相手こそが最後に戦った相手」
「じゃあ、その人物を当たれば」
ユキナリの言葉にカスミは無言を返した。その意味するとことをようやくユキナリは思い浮かぶ。しかし、いやまさか、と何度か考えた末に、ヤナギの「人殺し」発言の意図が読み取れた。
「……トレーナーカードに刻まれていた名前は、僕だった」
そうとしか考えられない。だからヤナギは自分がタケシを殺したのだと思い込んでいる。カスミは、「そのはずはない、と思っている」と顔を伏せ気味に応じる。
「真正面から見た限り、あなたは人を殺しそうには見えない。だからこうして二人っきりで喋っている」
しかし、カスミの手がそっとモンスターボールに添えられているのを、ユキナリは見逃さなかった。もしもの時は即座に判断する。カスミの事だ。人殺しも厭わないのだろう。
「……僕は殺していない」
抗弁のようだったが、ユキナリが出来る精一杯の誠意でもあった。カスミはその言葉に、「分かっている」と返す。
「でも、わたし達はあなたを第一容疑者と見て調べを進めた。その過程で、出てきたもう一人の容疑者があなたの出会った少年」
ユキナリは白いマフラーをなびかせた少年の相貌を思い返す。憎悪に染まった眼差しが凍てつくような厳しさに細められていた。
「ヤナギ……」
「彼の本名はカンザキ・ヤナギ。カンザキ執行官の息子よ」
思わぬ返答にユキナリはうろたえた。カンザキ執行官の息子。つまり、権力を利用出来る立場という事か。無言のユキナリがそのような顔をしていたせいだろう。カスミは、「シロナからの報告では」と前置きする。
「彼にはそのような心持ちはないとしている。彼は純粋に、自分の強さのみで玉座を目指している。血も、親も関係なく、ただ純粋な強さだけ。だからこそ、分からない。どうしてあの時、彼があなたに対してあれほどまでに敵意を抱いたのか」
肌を刺すような殺気。憎悪と侮蔑の混じった視線。あのような攻撃的な眼を初対面の人間に向けられるものなのだろうか。ユキナリには理解出来なかった。
「彼と僕は、面識はないです」
そのはずだ。カスミは、「調べでは、そうなっているけれど」と濁した。
「もしかしたら、彼はあなた達の同行者に目的があったのかもしれない。その、キクコちゃんだっけ?」
あの時、ユキナリはキクコを抱いていた。それが原因だったのだろうか。しかし、だとすれば何故。キクコとヤナギが顔見知りであったとすれば、全く経緯が分からない。
「そもそもキクコちゃんは何者なの? 彼があれほど感情的になるのはシロナも初めて見たのだと言っていたわ。キクコちゃんに、何かがあるんじゃないの?」
だとすれば自分達は時限爆弾を抱えているようなものなのだろうか。キクコは何の目的で、どうして自分についてきている?
「……キクコは、本当に何でもない、ただの同行者なんです。オツキミ山の手前で、悪い商売にかかろうとしていたところを僕が助けて」
「それが仕組まれたものではないのだと、言える?」
ユキナリは返事に窮した。キクコがそこまで視野に入れて自分達との邂逅さえも計算のうちだったとしたら。それはとても恐ろしい可能性であった。
「キクコが、何かしたって言うんですか?」
その具体的な内容を避けたのは自分の中で、もしや、という感情があったからなのかもしれない。あるいはサンダー戦で見せた冷静さが普段のキクコとかけ離れていたから、自分の知らない彼女がいるのだと直感的に分かったからなのかもしれなかった。カスミは、「何の確証もないわね」と応じる。
「張本人であると言う事も。あるいは赤の他人であると言う事も」
暗にどちらとも言えるとカスミはにおわせているのだ。しかし、とユキナリは頭を振った。キクコが殺人? 信じられない。
「ありえないんです。キクコに、そんな事は出来ない」
「オツキミ山の手前で出会ったんでしょう? 随分と信用しているのね」
ユキナリは痛いところをつかれたように息を詰まらせた。どうしてキクコだけは安全だと考えているのか。少女だからかもしれない。しかし、それだけではない。キクコは本来、戦うような人格でないのは見れば分かる話だ。
「キクコには、そんな事出来ない」
「オツキミ山でも殺しがあったらしいわ」
不意に飛び出したカードにユキナリは何を言われたのか一瞬分からなかった。しかしすぐに理解を迫られる事になる。それはつまり、道中で殺しがあった事。その件にキクコがかかわっていないとは言えない事を示している。
「キクコちゃんはずっとあなた達の監視下にあったのかしら?」
カスミは酷な事を訊いている。キクコが殺人犯であるというのか。馬鹿な。
「ありえません」
「ではずっと一緒に」
ふと、キクコが離れたのを思い返す。ラムダの強襲に遭って、その直後だ。キクコがいなくなった。だがほんの数分だぞ。その間にキクコは人殺しをしたというのか。自分達に気取られる事なく、まるで片手間のように。
ユキナリは頭を振って声に出した。
「……はい。ずっと一緒にいました」
これはもしかしたら大きな間違いを犯しているのかもしれない。キクコに問い詰めれば分かる事だろうか。キクコは隠し立てせずに出頭するだろうか。
いや、それ以前に、キクコにそのような罪を背負わせたくなかった。まだ出会って三日前後だが、既に情が移っていた。
「そう、ならいいんだけれど。彼も恐らくは、そんな事はありえないと言うでしょうね」
ヤナギの事か。彼とキクコはどのような関係にあったのか。それも問い質せば分かる事なのだろうかと自問して、ユキナリは無粋だと額を拭った。
「彼、カンザキ・ヤナギは、次はどこへ?」
「ヤマブキシティのはずよ。あくまで、彼の目的はポケモンリーグ制覇、玉座だからね」
ヤマブキシティ。大都会と呼ばれる街のはずだ。そこにもジムバッジがあるというのか。
「それに優勝候補のシロナと、あともう一人が協力しているんですか」
「カミツレの事ね。彼女達はカンザキ・ヤナギに協力はしないわ。むしろ、カンザキ・ヤナギもわたし達も共通しているのはお互いを利用するという目的」
「利用……」
そういえばまだ組織の目的を聞いていなかった。ジムリーダー殺しの抑圧だけに動くにしては大仰な組織だ。
「何なんです? あなた達の組織の目的は」
「このポケモンリーグに暗躍する影を暴き出すためにいる」
その言葉にユキナリは眉根を寄せた。
「影?」
「不自然だと思わない? このタイミングで全地方の人間を集めたポケモンリーグだなんて。だって一応、イッシュとは仮想敵国の間柄よ」
「そうですけれど、これはスポーツ競技のはずです」
ユキナリの甘い思考をカスミは否定する。
「スポーツというお題目ならば納得する人間がいるのも事実。でも、これが国家の威信をかけた競技である事は誰の目にも明らか。質問が飛んでいたはずよ。もし、他地方の人間が玉座に収まったのならば」
ユキナリがハッとする。
「純血派……」
王の血統は守られるべきだと主張する団体がいるのは知っている。しかし、それがこのポケモンリーグに濃い影を落としているとは安直には結べなかった。
「分かっているのは、彼ら――ここではそう呼ぶけれど、必ず事を起こそうとしているという事実だけ。何者かがこのポケモンリーグを仕組み、そしてコントロールしようとしている」
ありえない、とは言えない。国家の威信をかけた競技だ。何者かの手が加わっていないと考えるほうがどうかしている。
「……その組織と、あなた達の組織は対立している」
「表立っては対立していないけれど、どちらかがどちらかの尻尾を掴むまで、この見えない水面下の戦いは続くでしょう」
その一部がジムリーダー殺し、だというわけか。ユキナリはようやく事の次第が理解出来そうだった。
「……カスミさん。あなたは、彼らの概要は?」
カスミは首を横に振る。
「知らない。知っていたとしても、あなたは一般トレーナー。これ以上の情報を知る権限はないはず。大人しく旅に戻るのが吉ね」
ここで退けというのか。ユキナリは我慢ならなかった。
「ふざけないでください!」
自分でも意外な声が飛び出し、カスミは目を見開いた。
「僕のオノンドは」
モンスターボールへと手を添える。拘束用のボールによってオノンドは封じられていた。それもこれも、ヤナギに敗北し、野生であるサンダーに翻弄されたせいだ。
「僕も含め、もう易々と牙を仕舞えるような状態じゃないんですよ。ここで食いかからなければ僕は一生後悔する。それだけは分かる!」
自分も、既に状況の一部なのだ。そう主張したユキナリにカスミは微笑みかけた。その笑みの意味が分からずユキナリは硬直する。
「な、何です?」
「いや、やっぱりトレーナーなんだなって思ってね。大人しい顔していても戦いから身を引くような甘ちゃんじゃないって事か」
カスミは、可愛いと付け加えた。心外だと言わんばかりにユキナリは眉をひそめる。
「可愛いとか、そういうのって……」
「そうね、オノンドに関してはわたしも責任を感じている。あの状況で彼を止められていたら、って。でも、そうじゃなかったのは、相対したあなたの印象通り」
ユキナリは声を詰まらせる。あの殺気は本物だった。ヤナギは本気で自分を殺すつもりだったのだ。誰であろうと、易々と状況に割り込む事は出来なかっただろう。その点で言えば、アデクはやはり傑物だった。あの状況で戦いを挑んだのだから。
「ジムリーダーでさえも、呑まれかねない相手だったってわけですか」
「実際、彼は強いそうよ。シロナからの報告だけれどね」
カスミはプールサイドに腰かけて膝まで水に浸した。バシャバシャと足先で水面を叩く。その指先が月光に照らされて神秘的な光を帯びた。《お転婆人魚》の看板は伊達ではないのだと、ユキナリは自分の身体の火照りを伴って思い知らされた。覚えず目を背ける。
「じ、じゃあ……」
声が上ずってしまったがユキナリは確認の意を込めて口にした。
「マサキさんの件も」
「いや、あの件に関してはわたしにも分からない」
ユキナリは思わず二の句を継げなかった。カスミも自信なさげに首を振る。
「全く分からないのよ。ただ、彼らの仕業にしてはお粗末過ぎる、という印象ね。彼らならば、既にわたしの手が届く前に状況を終了させているはず」
自分がマサキと出会えた事こそが、彼らの仕業でない事の証明、というわけか。ユキナリはそう了解すると共に予感に口を開いた。
「マサキさんの事も、仕組まれていたんですか」
もしやと感じた事だったが、「ゴメンなさいね」とカスミは謝った。それで確信に変わった。
「……どうして」
「マサキが狙われていたのは分かっていた。だから、あなた達に護衛の意味も込めてあの場所へと赴いてもらった」
「一両日中に何かが起こるって確信は……」
「女の勘よ」
悪戯っぽく笑って見せたカスミにユキナリは、「真面目に答えてくださいよ」と唇を尖らせる。
「組織の事だからね。詳しくは喋れないけれど、でも、どこかの誰かがマサキの身柄を確保するっていう不確定情報だけが漂っていた。発信源がどこであれ、マサキだけは組織に置いておかねばならない駒。失う事は重大な損失だった」
カスミが頬杖をつきながら口にする。しかし、マサキは誘拐されてしまった。それは痛手ではないのか。
「重大な損失って」
「マサキの技術は革新的なものになる。カントー地方だけの恩恵じゃないわ。それこそ全地方、全地域において、マサキの技術の基礎が応用され、実践される。多分、十年もすれば定着するんじゃないかしら」
それだけの頭脳をマサキは有していたというのか。だが、それを奪われたのは自分の失態だ。ユキナリが謝ろうとすると、「あなた達を責めているんじゃないのよ」とカスミは柔らかく笑んだ。
「仕方がない。何らかの第三勢力が動いていて、それにマサキを掠め取られた」
「でも、イブキさんを止められていれば……」
自分にイブキを止めるだけの力と意思があれば、もしかしたら、という気になる。カスミは、「あまり思い過ごしをしないほうがいい」と忠告した。
「思い過ごしって……」
「自分は特別だとかいう気持ちよ。そういう悲劇のヒーロー気取りってのは好きじゃないわ」
いつの間にか自分本位の考え方になっていたのか。ユキナリはいさめられたのだと感じ、恥じ入るように顔を伏せた。
「……ユキナリ君。ちょっと泳いでみない?」
だから不意打ち気味のその言葉に全く対応出来なかった。「へ?」と間抜けな声を出すと、カスミはユキナリの手を引き寄せた。
二人はそのまま、盛大な水飛沫を上げてプールの中に吸い込まれた。