第四十八話「敵と敵」
発電所を出たところでアデクが治療を受けていた。どうやらカスミがポケモンセンターの救命医を呼んだらしい。アデクは担架に寝かしつけられ、鎮痛剤を打たれていた。
「痛みますか? 声が聞こえますか?」
救命医の言葉にアデクは、「……おお、聞こえる」と応じていた。ユキナリに気づいたナツキが顔を振り向けてぎょっとする。
「あんた……、そのポケモンは」
「襲ってきたポケモンをキクコのゴーストが退治してくれた。今は当の本人も眠っちゃっているけれど」
ナツキはユキナリとゴーストの両方に目をやった。「何かあったの?」と目ざとく聞いてくる辺りはさすが幼馴染だ。
「いや、何でも」
この嘘はどうせ意味を失くすのだろう。オノンドが操れない事をどこかで知れば、ナツキは幻滅するかもしれない。それよりもオノンドの傷を診てもらわねばならなかった。キクコもポケモンの技で昏倒したのだ。キクコを抱え、ユキナリが声を振り向けようとしたその時だった。運河が波打ち、一体のポケモンが姿を現した。
乳白色の身体に虹色の美しい鱗に身を包んだポケモンである。思わず感嘆の息の漏れるポケモンに乗っていたのは三人の人影だった。
「誰?」と最初に声を出したのはナツキだったが、カスミが、「来たのね」と因縁めいた声音で口にした時にはその三人は姿を現していた。
そのうちの一人にユキナリは瞠目する。優勝候補と目されていたシンオウのトレーナー、シロナ・カンナギであったからだ。
「どうして、こんなところに優勝候補が……」
ナツキが気圧されたように後ずさる。シロナは、「谷間の発電所に人手が要るって聞いたけれど」と凛とした声を放つ。
「随分と大所帯ね。無人と聞いて殺風景な場所を想像していたわ」
シロナの声音はテレビやラジオで聞くものよりもずっと大人びていて落ち着き払っている。ユキナリはその隣にいる黒髪の女性に目をやった。黄色いファーコートに黒衣という井出達はこのカントーには似合わない。他地方の人間だと知れたがどこかで見たことのあるような気がしていた。
「あれね」
「そうよ、カミツレさん。持っているわよね、ブランクのボール」
カミツレと呼ばれた女性が手に持っているのはモンスターボールだった。何をするつもりなのか全員が固唾を呑んでいるとカミツレはモンスターボールを投擲した。その対象はまさかの鳥ポケモンであった。鳥ポケモンは全く抵抗せずにモンスターボールに収納される。美しい鱗のポケモンが尻尾を器用に払って主人へとボールを返した。
「これが伝説の鳥ポケモンの一つ、サンダー。……すごいわね。今までの電気タイプと全然違う。モンスターボール越しでも伝わってくるわ。その力が」
カミツレが魅せられたように口にした言葉に、「呑まれるなよ」と声にして立ち上がった影があった。ユキナリはその人物を振り仰ぐ。
少年であった。ちょうど年の頃は自分と同じくらいだろうか。青いコートに白いマフラーを身に纏っている。その眼差しからは人間らしさというものがまるで感じられない。冷気の塊のような少年であった。
じっと見つめていたせいであろう。少年は怪訝そうに眉をひそめる。
「何者だ、あいつは」
「検索結果、出たわ。あの少年はオーキド・ユキナリ。ニビシティの事件に関わっているとされた第一容疑者よ」
ニビシティの事件? 疑問符を浮かべる間に少年はユキナリを値踏みするように眺め、やがてキクコへと目線が吸い寄せられた時、その目が見開かれた。
「何で……、キクコ……」
その言葉には全員が視線を向けた。どうしてあの少年がキクコを知っているのか。その疑問に行き着く前に少年は歯噛みした。
「……お前、オーキド・ユキナリ。なに、キクコに馴れ馴れしく触っている?」
怒気を露にした声音はその少年に相応しいものとは思えなかった。同行者であるはずのシロナやカミツレでさえも戸惑っている。
「どうしたって言うの? ヤナギ君」
ヤナギ、というのか、とユキナリが確かめていると、「俺はその殺人犯が!」とヤナギはユキナリを指差して糾弾した。
「どうして汚らわしい手でキクコを抱いているんだと、聞いているんだ!」
激しい口調に全員が息を呑んだ。ユキナリはヤナギの眼を真っ直ぐに見返す。怒りと憎悪がない交ぜになった視線が矢のように突き刺さった。
「……事情は分からないけれど、キクコはオツキミ山の麓で出会った同行者で、僕らの仲間で――」
「そんな下らない事を聞いているんじゃないぞ! 犯罪者は、大人しく口を閉ざしていろ!」
ヤナギがホルスターからモンスターボールを抜き放つ。シロナが止めに入った。
「待ちなさい! 今ここで事を荒立ててもいい事は……」
「いいも悪いもない。キクコは俺が守らねばならないんだ。誰にも、その権利を渡すものか!」
ヤナギは美しいポケモンから降り立ち、モンスターボールから手持ちを出した。茶色い毛並みの小柄なポケモンだった。小刻みに震えている。ユキナリは自分もオノンドを出すべきか、と手を彷徨わせた。先ほど突きつけられたばかりの現実に戸惑う。自分はオノンドに相応しいトレーナーなのか。ヤナギは歩み出そうともせず、すっと片手を掲げ言い放つ。
「瞬間冷却、レベル1」
その言葉が放たれた直後にユキナリは足が一歩も踏み出せなくなっている事に気づいた。視線を落とすと靴底がまるで縫い付けられたように凍り付いている。
「何だ……」
「俺から逃げようとしても無駄だ。今からそっちに行く」
ヤナギがゆっくりと歩み出す。ユキナリは対して全く動けなかった。モンスターボールの投擲しか出来ない。腕に抱えたキクコの体温を確かめ、渡してはならないとだけ決意を新たにした。
「キクコをよくも……」
「何だって言うんだ。君は何だ?」
「下賎なる問いかけに答えるつもりはない。キクコを害するものは誰であろうとも」
どうやら最初から聞く耳を持たないらしい。ユキナリは戦いしかないと確信した。モンスターボールを掴み、マイナスドライバーで緩めようとしてはたと動きを止める。オノンドは言う事を聞いてくれるのか。今、ここで戦って恥を晒してどうするのか。
その迷いが指先を硬直させる。ヤナギはすっと指差した。
「氷柱針」
空気中の水分が渦巻き、凝固して小さな針の集合体を作り出す。氷の針はユキナリへと降り注いだ。襲い来る針の群れにユキナリが思わず手を掲げる。
「させない! ストライク!」
その声と共にストライクが弾かれたようにユキナリの守りに入った。鎌を交差させ針を叩き落す。そのうちいくつかの針がストライクの表皮を傷つけた。ヤナギは指を鳴らす。
「触媒冷却、レベル1」
直後、ストライクの身体に突き刺さった極小の針から冷気が滲み出し、一瞬にしてストライクの動きを奪った。翅が凍てつき、関節が曲がらなくなる。
「ストライク……!」
「虫・飛行で氷に立ち向かうのが無謀だ。触媒冷却はレベル1で固定してある。翅を動かす事も出来ないだろう」
ストライクは離脱しようと脚の筋肉を膨れ上がらせたが、それを予期していたかのように脚についた切り傷から冷却が広がった。飛行する術と地を駆ける術を奪われたストライクが鎌で決死の威嚇をする。しかしヤナギは既に興味がないようだった。
「俺は弱い奴には興味がなくってね。いくらでも吼えているがいい」
「弱いですって?」
ナツキがストライクを侮辱されたと感じたのか声を荒らげる。ヤナギはそれだけで動けなくなりそうなほどに冷たい眼差しを送った。
「弱者は引っ込んでいろと言っている。周りを喧しく飛び回られると面倒だ。今すぐ、ここでストライクの命を奪ってもいいんだぞ」
冷却の根はストライクの胸元まで至っていた。暗にいつでも命を奪えるという言葉にナツキは沈黙する。
「さて、オーキド・ユキナリだが――」
こちらへと顔を向けようとしたヤナギが声を詰まらせた。何故ならば、彼の眼前に踊りかかってきたオノンドの姿があったからだ。
ユキナリはモンスターボールを突き出したまま口にする。
「ナツキに、指一本でも触れてみろ……」
戦いの光を携えた双眸でキッと睨みつける。
「ただじゃおかない」
ユキナリの声に呼応したようにオノンドが牙を打ち下ろす。ヤナギは咄嗟に飛び退いていたが青いコートの一部を削られていた。
「盗人猛々しいとはまさにこの事だな」
ヤナギはまだユキナリの腕の中にいるキクコを見やり、「お前などに……!」と声を出した。
「キクコを触らせるものか!」
ヤナギが手を振り翳すと周囲の空間が歪み、巨大な氷柱が四本、渦を成しながら構築されていく。さながら空気中から引き出されていくかのようだった。
「オノンド、相手は氷タイプだ。出来るだけ、慎重に――」
その言葉尻をオノンドの咆哮が引き裂いた。ユキナリが判断を下す前にオノンドはヤナギに向けて駆け出していた。
「オノンド?」
その瞳には先ほどと同じく凶暴な光が携えられている。もうユキナリの命令など必要とせず、自らの判断で動いていた。その動きに咄嗟に反応したのはヤナギだ。腕を振るい、「瞬間冷却」と声に出す。
「氷壁、レベル1」
ヤナギの前面に氷の壁が展開される。オノンドは一度牙を打ち下ろしたが氷の壁は半分ほどしか砕けなかった。攻撃が加えられた瞬間、氷壁から針が飛び出す。本能的に距離を取ったオノンドは首を震わせて攻撃姿勢を取った。
「言う事を聞いていないのか?」
ヤナギの声にオノンドは腕に力を込めて振るい落とす。青い衝撃波が地面を伝わり氷壁の内部へと攻撃を与えた。しかし、既にヤナギは地面を凍結させていた。オノンドの放った攻撃は地面を少しだけ震わせた程度だ。
「トレーナーの言う事を聞かない。レベルが違い過ぎる場合に起こる現象だな。つまり、オーキド・ユキナリ。お前はオノンドに見捨てられたのだ」
その言葉が絶望的な響きを伴ってユキナリの中で残響した。見捨てられた。自分がパートナーだと思っていたポケモンに。オノンドは再び牙を突き出して氷壁へと突進する。先の戦闘での傷はまだ癒えていない。片目の利かないオノンドが「ドラゴンクロー」の準備姿勢に入る。ヤナギは、「野生を相手にしている気分だな」と呟いてから命じた。
「瞬間冷却、レベル2」
瞬時にオノンドの片足が凍結する。ユキナリには何が起こったのか全く分からなかった。突然に氷がオノンドを襲ったようにしか見えない。
「レベル2程度で充分だな。牙がメインの武器か。ならばその牙、折らせてもらう」
オノンドが激しく鳴いて腕を振るい落とす。腕の力で凍結した脚を解こうとしたが、次の瞬間によろめいた。今度凍結したのは先ほど鳥ポケモンにつけられた傷口だ。激痛にオノンドが身悶えする。傷口を広げられているのだろう。ビシビシ、と氷の擦れる音が聞こえた。
「既にサンダー戦で負傷をしているようだな。最大限に利用する」
傷口から血が噴き出すよりも早く、血液は凍結する。どうやら傷口を触媒にして体内を凍結する手はずを整えているようだった。ユキナリはそれに気づき、オノンドに命令する。
「オノンド、一旦退くんだ! そうでないとやられる!」
ユキナリの声にもオノンドは耳を貸す気配はない。首を振り上げると片方の牙から身の丈ほどの青い光を展開した。「ドラゴンクロー」を撃ち出すつもりであるのは明白だった。ユキナリは決死の声を出す。
「オノンド! もういいんだ! 戦うな!」
ユキナリはモンスターボールをオノンドへと向けて戻そうとする。ヤナギがすっと人差し指を上げた。すると撃ち出された一本の氷柱針がモンスターボールを貫いた。
「これでもう、モンスターボールに戻す事も出来まい」
ユキナリは絶句した。自分の手の中でモンスターボールが分解されていく。オノンドが赤い瞳に明確な敵意を映し、周囲を見渡した。野性に帰ったのだ。オノンドからしてみれば周囲は敵だらけに見えたのだろう。牙を突き出し、ユキナリへと突進しようとする。
「オノンド……、やめろ」
制止の声もオノンドには届かない。その牙に殺意が宿った瞬間、ユキナリは叫んでいた。
「やめてくれ!」
「瞬間冷却、レベル2」
オノンドの両手両足が瞬時に凍り付いた。つんのめったオノンドがしこたま顎を地面に打ちつける。ヤナギはゆっくりとユキナリへと歩み寄ってくる。
「さぁ、キクコを返してもらおうか」
その言葉にユキナリは、「返すとか返さないとか」と声を出した。
「君は何なんだ。キクコの何だって言うんだ」
「こちらの台詞だ。何の権利があって、その手に触れている。汚らわしい殺人犯が!」
ヤナギがユキナリの額へと真っ直ぐに指差す。氷柱の針が撃ち出されようとした。思わず目を瞑る。完全に終わりを感じ取ったその瞬間、炎熱が眼前で弾け飛んだ。
氷柱の針を溶かしたのは炎の車輪だ。回転して地面へと降り立った影にユキナリは目を瞠る。
「メラルバ……」
触手から赤い炎を噴き出させ、メラルバがヤナギの前に立ちはだかった。
「……おう、間に合ったか」
その声に目を向けると額に汗の玉を浮かべたアデクが無理にでも頬を引きつらせて笑っていた。手にモンスターボールがあり、メラルバを繰り出したのだと分かった。
「優勝候補の一角、イッシュのアデクだったか」
ヤナギはメラルバを見やり、指を鳴らした。凍結の手がメラルバを覆い尽くそうとしたが、メラルバは赤い触手を輝かせるだけでその氷の膜を溶かした。
「特性、炎の身体だな。加えて炎タイプ、相手取るには少し分が悪いか」
「お前さんが冷静な人間なら、ここで退く事を勧めるがのう」
アデクの声にヤナギは目をやって、「半死半生の身でよく言う」と鼻を鳴らした。
「だが、腐っても優勝候補だ。俺も全力を出す覚悟がいるだろう。今は、その時ではない」
ヤナギが身を翻す。美しいポケモンが頭を垂れてヤナギを迎えた。シロナとカミツレはヤナギの表情を窺っている。ユキナリはヤナギを真っ直ぐに睨みつけた。ヤナギもまた、ユキナリへと憎悪の眼差しを向ける。
「今度会う時は殺す」
冷酷に放たれた言葉は脅しではない事がよく分かった。ユキナリが唾を飲み下す間に美しいポケモンは運河を溯っていった。
全てが一瞬の幻かと思われたが、サンダーと呼ばれた鳥ポケモンが捕獲されたのと、オノンドが自分のポケモンでなくなったのは紛れもない事実だった。
キクコが起きるまでに事を整理しなければならない。自分の中で起こった出来事を。
ただ一つ、正確に言えるのはヤナギという少年は自分にとって最大の敵となる事だけだった。