第四十七話「疾走する本能」
無人発電所までは青く染まった水道があり、ユキナリ達は二人ずつカスミのスターミーに引っ張ってもらう事になった。まずユキナリとナツキが木造の船に乗って無人発電所の前庭に訪れた。
「……なかなか、雰囲気あるわね」
発電所の放つ異様な存在感にナツキは唾を飲み下す。ユキナリはポケギアの電波を試したがどうやら無人発電所周辺では圏外のようだ。
「妨害電波でも出ているのか?」
ユキナリの疑問に、「ねぇ」とナツキが声をかける。
「どうしてアデクさんとキクコちゃんも呼んだの?」
手はずではアデクとキクコは次にスターミーに運ばれてくるはずであった。ユキナリは、「戦力は多いほうがいいと思う」と告げる。
「もしかしたらイブキさん達が逃げ込んだのかもしれない」
ユキナリの頭にはその可能性があった。イブキや黒服が逃げ込むには最適の場所だ。ハナダシティからそう離れていない上に無人となれば何をしても外には漏れない。
「あんた、まだイブキさんの事を心配しているわけ」
「そりゃ、そうだろ。それにマサキさんの安否も気になる。ここで止められるのなら、僕は止めたい」
決意の言葉にナツキは、「だからこそ、アデクさんも呼んだわけね」と納得した様子だった。自分だけでは迷いが生じるかもしれない。その場合、アデクやナツキに戦ってもらわねばならない。
「本意じゃないけどね。出来ればアデクさんの邪魔はしたくないし」
アデクとて自分の旅を達成せねばならないのに、ユキナリ達に巻き込まれればいつまで経っても進めないだろう。
「それでも引き受けちゃうのが、アデクさんなのよね」
スターミーが波を掻いて船を引っ張ってきた。アデクとキクコが地面に降り立つ。キクコを呼んだのは彼女一人にするのも不安だったからだ。戦力としては期待していないが、出来れば近くにいて欲しかった。
「じゃあ、わたしはここで待っているわ」
スターミーに跨ったカスミが声をかける。既に水着に着替えており、ユキナリは出来る事ならばカスミにも手伝って欲しかったが無理は言えないと諦めた。
「発電所のブレーカーが落ちているかどうかを確認すればいいんですよね?」
「そう。多分システムダウンだから、その作業一つで復旧すると思う」
緊急用の手動ブレーカーを上げればユキナリ達の任務は完了だ。そんなに構える事はないと思っているが、寂れた発電所は否が応でも緊張をはらんでいる。
「……何か出そうね」
入るなり、赤色光で塗り固められた廊下が目に入り、ナツキがそうこぼした。ユキナリは、「脅かすなよ」と返す。
発電所の内部機構は止まっており、地表から入れるのは二階層部分であるのが知れた。吹き抜け構造で、下階へと降りられるようになっている。階段の幅は狭く、何かに出くわせば逃げる事は難しい。
「緊急用ブレーカーは地下一階にあると言っていたのう」
アデクの声にユキナリは、「だったらすぐそこだ」と努めて明るく口にした。リノリウムの床を踏み締めながらユキナリは前を行く。ちょうど黄色と黒で塗られたレバーが目に入り、「あれだ」と口にする。
「そんなに難しい話じゃなかったな」
ユキナリが駆け寄ろうとすると、その刹那、「危ない!」とアデクの声が飛んだ。それを確認する前に覆い被さってきたアデクの身体と、網膜に焼き付いた青い雷撃が同時に視界に入って転がった。ユキナリはしこたま背中を打ちつけたが、上に被さっているアデクが呻き声を上げた。その背中に手をやるとぬるい液体が掌にべったりとこびりついた。赤色光の中でも、それが血である事は容易に知れた。
「アデク、さん……」
「抜かったわ……!」
アデクは苦悶の表情を浮かべて起き上がろうとする。その時、突如として発電設備が動き始めた。ユキナリは狼狽する。
「どうして……。まだブレーカーを上げていないのに」
発電設備からは電流が迸った。青白くのたうつ光にその場にいた全員が息を呑む。
「何が……」
その声に甲高い鳴き声が被さった。天井から降りてきたのは尖った翼を持つ巨大な鳥ポケモンであった。黄色と黒の警戒色を身に纏い、全身から電流を逆立たせている。それに呼応したように設備が明滅した。
「この、ポケモンは……」
ユキナリの声に正体不明の鳥ポケモンは敵意を剥き出しにして電流を放った。まるで刃のように電流が走った箇所が焼け爛れていく。アデクはこれに近い攻撃を受けたのだと分かり、ユキナリは顔面から血がさぁっと引いていくのを感じた。
「アデクさん? 聞こえますか?」
「聞こえ、とる……。だが、ちょっと、まずい、な。この痛みは」
アデクの意識は朦朧としているようだ。すぐにでも発電所から出なければ危ないだろう。
「ナツキ! ストライクでアデクさんを抱えて! 発電所を出よう!」
頷いたナツキがストライクを繰り出し、アデクを抱える。ユキナリは駆け出そうとしたが、その行く手を電流の刃が一閃する。どうやら鳥ポケモンは逃がす気がないらしい。この場に迷い込んだ自分達を確実に仕留めるつもりのようだ。
「……ナツキ。僕がこいつを引き寄せる。その間に、アデクさんを地上へ」
ユキナリはホルスターからボールを抜き放った。ナツキが戸惑う声を出す。
「無茶よ! 相手はそう易々と倒せるレベルじゃない!」
自分でも分かっている。あまりに分の悪い戦いだと。しかし、アデクの傷は一刻を争う。このまま静観しているわけにもいかない。
「オノンドなら落とせるかもしれない。こいつが、停電の元凶だ」
どちらにせよ相手をせねば誰もここから逃げ出せないだろう。ユキナリはマイナスドライバーでボタンを緩め、前に投擲した。
「いけ、オノンド!」
オノンドが両方の牙を突き出して威嚇する。しかし鳥ポケモンは怯む様子もない。鋭く尖った嘴を開き、全身から青白い電流を集束させた。来る、という予感にユキナリは声を張り上げた。
「早く! アデクさんが危ないんだ!」
ナツキは一つ頷いてストライクにアデクを抱えさせたまま階段を駆け上る。鳥ポケモンの注意が逸れた瞬間を狙い、ユキナリは声にしていた。
「オノンド、ドラゴンクロー!」
青い粒子を扇状に纏い、オノンドは牙からの一閃を鳥ポケモンへと向けた。鳥ポケモンは臆する様子もなく、羽ばたきながらそれを見下ろしている。オノンドは馬鹿にされていると感じたのか、両脚にばねを込めて一気に跳躍した。オノンドの跳躍力が並外れていたからだろう。鳥ポケモンが威嚇の声を出すが既に遅い。振り下ろされた「ドラゴンクロー」の一撃は正確に鳥ポケモンの翼の付け根を狙いつけた。恐らくは飛行に支障が出るはず、と踏んでいたユキナリは次の瞬間、驚くべき光景を目にした。
鳥ポケモンにほとんどダメージはない。それどころか稲妻の鎖が幾重にもオノンドを絡め取っている。空中に捉えられたのは自分のほうだった。鳥ポケモンが首を振るうとそれに同期した稲妻の鎖が振るい落とされ、ぐんと地面が近くなった。
「オノンド、頭からは落ちちゃ駄目だ! 宙返りして不時着!」
ユキナリの指示が行き届いたのだろう。オノンドは赤い眼をカッと見開き宙返りして足裏で地面を踏み締めた。しかし稲妻の鎖は解ける気配がない。どうやら向こうも手錠デスマッチをお望みのようだ。
「そっちがその気なら! オノンド、引きずり落とすぞ!」
気高く吼えたオノンドが両腕と牙に絡みついた鎖を打ち下ろす。鳥ポケモンが僅かに傾いだ。ユキナリは視界の端に発電装置を見つけた。オノンドへと命令を飛ばす。
「こっちだ! 走れ!」
ユキナリが駆け出すとオノンドも同じように走り出した。鳥ポケモンは抵抗するでもなくオノンドとユキナリを見下ろしている。まるで絶対者の眼差しだ。その勢いに気圧されぬようにぐっと息を詰め、ユキナリは発電設備を指差した。
「叩きつけろ!」
オノンドが牙を大きく動かし、首を下ろした瞬間、鳥ポケモンへと重力が圧し掛かってきた。鳥ポケモンが羽ばたき雷撃が四方に放たれるが、その攻撃を契機にして発電設備に火が灯った。急に動き出した発電設備に鳥ポケモンは挟まれる形で拘束される。ユキナリが確かな手応えに、「よし」と拳を握った。
「このまま発電設備に拘束して、動けない状態で攻撃してやれば……」
その拙い計画はしかし、鳥ポケモンが発生させた電磁の嵐によって遮られた。ユキナリが狼狽している間に四方八方へと電流が放たれ、閾値を越えた発電設備からショートの火花が散った。ゴン、と重い音を立てて発電設備の動きが止まる。安全装置が働いたのだろう。過剰電流を逃がそうとしている発電設備は沈黙し、鳥ポケモンは再び舞い上がった。ユキナリは舌打ちを漏らす。
「この程度じゃ、やられてくれないか」
鳥ポケモンは今しがたの攻撃が尊厳を叩き潰したとでも言いたげに嘴を広げて鳴いた。青い火花が散り、鳥ポケモンを電流の皮膜が守っている。ユキナリは再びオノンドへと攻撃を命じた。
「ドラゴンクローを今度こそ急所に当てる」
オノンドは身を沈め、ぐんと跳躍した。鳥ポケモンは避ける気配がない。そうするまでもないという判断なのか。オノンドの打ち下ろした牙の一撃が鳥ポケモンに吸い込まれたと思われたその時、青い皮膜が弾け飛んだ。一時的に膨れ上がった青い皮膜がオノンドの攻撃を受け流す。ほとんど相殺の形となり、オノンドに展開されていた「ドラゴンクロー」の光が消失した。降り立ったオノンドへと、「大丈夫か?」と声をかける。オノンドは首を震わせて再び鳥ポケモンを睨んだ。相殺だと感じたのは一瞬だけだ。再び展開された青い電流の皮膜はシャボン玉のように鳥ポケモンを押し包んでいる。打ち崩せるようにも見えるが、同時に絶対の守りを約束しているようにも見えた。
「あれが相手の攻撃か……」
ユキナリは思案を巡らせる。攻撃の属性から相手のタイプは電気だという事は分かる。だが電気タイプはここまで強いのだったか。オツキミ山で対峙したレアコイルを思い出すがレアコイルの電流はこれほどまでに強力ではなかった。
むしろ、今までに感じた事のない種類の重圧がこの場に降り立っていた。同じポケモンを相手取っているとは思えない。トレーナー戦よりもなお濃い空気に全身が総毛立つ。
だが躊躇していればこちらがやられる。先ほどのアデクへの攻撃も自分を狙ったものだった。このポケモンはどうしてだかトレーナーを狙えば無力化出来る事を知っている。だからこそ、攻撃の手を緩めるわけにはいかなかった。たとえ策がなくともぶつかっていく事でしかこの鳥ポケモンと拮抗できない。
「オノンド、ダブルチョップ、いけるか?」
問いかけるとオノンドは頷き、両方の牙を突き出してから鳥ポケモンに向けて駆け出す。青い皮膜から唐突に雷の刃が飛び出し、オノンドを焼き切ろうとした。オノンドはステップを踏んで回避し、鳥ポケモンへと身を投げ出す。青い皮膜が再び膨張し、オノンドの攻撃を無力化しようとした。オノンドの一度目に振るった攻撃は青い皮膜と共に相殺される。
しかし「ダブルチョップ」は二度の攻撃を約束する技だ。怯まずにオノンドは鳥ポケモンへと突き進んだ。むしろ驚愕の様子を浮かべたのは鳥ポケモンのほうだ。青い皮膜が消えたところを狙われるとは思っていなかったのだろう。オノンドは片方の牙に青い光を纏いつかせ鳥ポケモンへと攻撃を加えた。初めてまともなダメージが入り、鳥ポケモンがうろたえる。ユキナリは、「叩き込め!」と命令した。
「そこから宙返り、尻尾で叩きのめしてドラゴンクローへと繋ぐ!」
オノンドは宙返りをして尻尾を木槌のように打ち込む。鳥ポケモンの身体のバランスが崩れる。空中で青い光を纏いつかせ、必殺の一撃への伏線を張った。「ドラゴンクロー」が決まればこちらの勝ちだ。ユキナリの確信に、暗い影が差し込んだ。鳥ポケモンは青い皮膜を一瞬だけ顕現させると、それを尖った翼に纏いつかせ、針の鋭さを伴わせた。オノンドの攻撃が突き刺さる前に、鳥ポケモンの羽ばたきが電流の針となって空中の無防備なオノンドの表皮を突き破る。オノンドは堅牢かと思われた外皮に傷を多く作った。
「オノンド!」
ユキナリの叫びにオノンドは「ドラゴンクロー」の気を霧散させながら落下する。辛うじて床に落下したオノンドは両手で立ち上がろうとしたが、鳥ポケモンから青い稲妻が一射された。その攻撃がオノンドの頭部を焼く。ユキナリが思わず後ずさった。オノンドの額には斜めに焼け爛れた傷が走っていた。刃で斬られたような傷口が蚯蚓腫れを引き起こしている。オノンドは最早片目を開けるのも困難な状態であった。
「オノンド……」
戦わせられない。それは直感としてあった。この状態では一刻も早くポケモンセンターへと連れて行き、緊急措置を取らねばならないだろう。だが、足が竦んで動かなかった。
鳥ポケモンの放つ圧倒的なプレッシャーの波がユキナリの肌を粟立たせる。
ここから逃げられない。一歩でも動けば自分が今度は焼かれる。
鳥ポケモンはユキナリへと攻撃の視線を向かわせた。覚えず首を横に振る。
「い、嫌だ……」
モンスターボールを出してオノンドを戻すという頭も働かない。目の前の鳥ポケモンは他のポケモンとは次元が違う。地面を這う虫が人の一足でさえも太刀打ちできないように。その現実が自分と鳥ポケモンとを隔てている。
――勝てない。
オツキミ山の時とは違う。これは恐れだ。恐怖に囚われている。オノンドを失うのでは、という恐怖。自分の命が危ういという恐怖。何よりも、純粋に怖いという感覚が這い登り、ユキナリは指の筋一本ですら自由ではなかった。
「僕、は……」
その時、かすかな鳴き声が耳朶を打った。目を向けるとオノンドが額から血を滴らせながら立ち上がっていた。片目に至った傷のせいでほとんど視界はないはずなのに、オノンドはそれでも果敢に立ち向かおうとしている。ユキナリは、「やめろ」と声にしていた。
「あいつは違う、違うんだ。勝つとか、そういう次元じゃない」
通常のポケモンが戦う相手ではない。敵う次元を遥かに超えた存在である。ユキナリの声が聞こえているはずなのだが、オノンドは再び鳥ポケモンを睨み据えた。主を守ろうとするかのように両足ですくっと立ち上がる。膝が笑っていたがそれでもオノンドの姿勢は「戦闘」のものだった。
――戦おうと言うのか。
ユキナリは鳥ポケモンを見やる。一瞥すら既に畏れ多いレベルの光芒を身に纏い、鳥ポケモンはオノンドを睥睨している。あれからしてみれば、オノンドは地を這う虫だ。一足で簡単に踏み潰されてしまう。
「駄目だ」
ユキナリの声にオノンドは逆に踏み出した。立ち向かってはならない。絶対に。それが声になる前にオノンドは指示を受けたでもなく駆け出して跳躍した。鳥ポケモンは守りからの攻撃に転ずるよりも最初から攻撃したほうが賢明だと踏んだらしい。雷撃を纏いつかせた羽ばたきが再びオノンドを襲った。ドラゴンタイプの表皮ですら焼く旋風にオノンドは怯む様子もない。それえどころか戦士の背中をユキナリに見せつけ、鳥ポケモンへと勇猛果敢な一撃を見舞おうとしている。
ユキナリの指示を無視し「ドラゴンクロー」の光を牙に纏いつかせた。球状に皮膜を展開し、鳥ポケモンは雷を放つ。刃の鋭さを帯びた一閃をオノンドはあろう事か牙で切り裂いた。二つに割れた雷が発電施設の天井を切り裂き、床を焼き切った。ユキナリはすぐ傍を駆け抜けていく雷に怯む事しか出来ない。オノンドは独自に判断し、鳥ポケモンと一進一退の攻防を繰り広げている。
ならば自分は何だ? とユキナリは不意に疑問を感じた。
トレーナーの指示を必要としていないオノンドと鳥ポケモンとの戦闘において自分は異物以外の何者でもないのではないか。オノンドへと直進する雷を牙の一撃で偏向させる。既にオノンドはトレーナーであるユキナリの安否など気にしている様子ではなかった。曲がりくねった雷の一つがユキナリへと降り注ごうとする。ユキナリが思わず手を翳し、終わりを意識した。
しかし、その一撃はさらに偏向され、周囲の床を焼いた。ユキナリは自分の前に立っている影を目にする。まさか、という思いに当惑の声が漏れた。
「キクコ。どうして……」
逃げていなかったのか。ユキナリは今の今まで彼女の気配に気づかなかった。それほどまでに戦闘に集中していたのもあるのだろう。だが、彼女の纏う空気は異質だった。
普段ならば大人しい少女であるキクコは赤い瞳を細め、手を振り翳す。
「ゴース。サイコキネシスでユキナリ君を守って」
その言葉にキクコの傍に黒いガス状の何かが展開しているのが分かった。ガスは球状を成し、鋭い双眸と裂けた口腔を開いて哄笑を上げる。ゴースと呼ばれたらしいポケモンから青い光が滲み出しユキナリの周囲を思念の皮膜が覆った。
「キクコ、これは……!」
「あの状態は先生から何度か聞いた事がある」
キクコはオノンドと鳥ポケモンの戦闘を眺めながら呟いた。ユキナリが唖然としているとキクコは事もなさげに言い放つ。
「ワイルド状態。ほとんど野生の本能にポケモンが負けた状態の事を指す。手持ちとはいえ、早くモンスターボールに戻さないと手遅れになる」
ユキナリは聞いた事のない言葉に狼狽するしかなかった。その思案を他所にキクコは手を振るう。
「ゴース、止めに入る」
ガス状のポケモンは卑屈に嗤うとキクコの周囲にも同じように思念の壁を展開した。
「あのポケモンは直感的に操っている対象を攻撃しようとしている。相当に警戒度が高いポケモン。ああいうのは、怖い、ね」
キクコの言葉を咀嚼する前にユキナリはオノンドと鳥ポケモンとの戦闘が激しさを増している事に気づいた。オノンドが自分の身の丈以上の「ドラゴンクロー」を放ち、鳥ポケモンを追い詰めている。オノンドの身のこなしは自分の指示している時の比ではない。あらゆるフィールドを利用し、多面的、立体的に鳥ポケモンを攻めている。人間の指示出来る範疇を超えた動きだった。それこそ野生のポケモンの動きに近い。しかし、ただの野生にしては戦い慣れている動きだ。ユキナリと共に戦った日々を学習し、自分のものとして吸収しているのが分かった。
「オノンド……」
「ユキナリ君。モンスターボールを」
キクコが肩越しに振り返り、手を差し出す。赤い眼がオノンドのものと重なった。
「どうするって……」
「オノンドをボールに入れる。もしかしたらボールの束縛程度では意味がないかもしれないけれど、このままじゃ野生に帰ってしまう」
キクコの言葉には迷いがない。するべき事を見据えている言葉にユキナリは、「この状況は」と声を出した。
「どうなっているんだ。僕に、何が出来るんだ?」
「何も」
断じた声は冷たかった。眼を戦慄かせるユキナリに対してキクコは冷静だった。
「この状況ではトレーナーは足枷。ポケモン本来の力を引き出すにはトレーナーが不可欠だけれど、もうこうなってしまったら邪魔なだけ」
キクコの言葉は突き放すような響きを伴ってユキナリの中で残響する。
――僕は、足枷……。
身体に空洞が空いた気分だった。そこから必要なものが抜け落ちていく。キクコは手で急かした。
「早く。オノンドを止めなければ」
いつものキクコとはまるで別人だ。戦闘を前にしてどうしてこうも冷静でいられるのか。それとも、と視線を配ったのはゴースというポケモンだ。今まで一度として出した事のなかったキクコの手持ち。何タイプなのかさえも分からない。もしかしたらこのポケモンが手招いているのではないのか。何を、という確証を欠いた言葉にユキナリは頭を振った。
「オノンドは……」
ユキナリが振り仰ぐとオノンドは鳥ポケモンの電撃をいなし、空中に身を躍らせて青い残滓を刻み込む一閃を放つ。鳥ポケモンは球状の皮膜でそれを防御するがほとんど防戦一方だった。押している、という事実が先ほどのキクコの言葉を証明する。
「今は勝っている。でも危ない」
キクコは事の次第を見極めているようだった。まるで精密機械のように、赤い瞳孔が戦闘の一挙一動を見逃すまいと忙しなく動く。
「オノンドの状態もそうだけれど、鳥ポケモンには秘策がある」
キクコの観察眼にユキナリは、「どうして、そんな」と声を漏らす。
「見ていれば分かるもの」
キクコの言葉は短かったが、同時に自分にはそれがないのだと突きつけられているようだった。
「鳥ポケモンはオノンドの戦闘中の急激な変化に戸惑う一方、大した相手ではないという判定を下している。その証拠に雷撃がトレーナーであるユキナリ君を狙わなくなった」
その声でようやくユキナリは自分へと雷が襲ってこない事に気づく。
「オノンドは回り込む。左」
キクコの声が届いているはずがないのだが、オノンドは発電機械を蹴って鳥ポケモンの左へと回り込んだ。即座に対応した鳥ポケモンの雷撃は矢のようにオノンドへと突き刺さろうとする。
「脚に力を込めた。下方、三十度」
オノンドはがっしりと足の爪でスロープをくわえ込み、脚部に力を充填させ、下方へと跳んだ。キクコの予想通り、それはちょうど三十度ほどの角度だ。
「反射するように躍り上がって突き上げるドラゴンクロー」
オノンドは蹴った力を減衰させず、牙に攻撃の判定を込める。地面が迫った瞬間、オノンドは牙の一撃による衝撃波で難なく反転を決めた。その衝撃波が上向きなのを利用してオノンドは再び鳥ポケモンへと襲いかかる。まるで槍のような反応速度だ。突き上げられた牙に青い光が纏いつく。キクコの予想通りの「ドラゴンクロー」を加えようとしている。
「しかし、鳥ポケモンは弾く。羽ばたき、電気の旋風でオノンドの右半身の麻痺を狙う。オノンドは攻撃する際、右側から攻撃する癖がある」
ユキナリは初耳だったがそう言えばキバゴの時に片牙から攻撃するように仕組んだのは自分だ。当然、進化系であるオノンドにその癖は引き継がれているだろう。
「鳥ポケモンは戦闘慣れしている。的確に右半身を麻痺させる技を放つ」
キクコの宣告にユキナリは判断を迫られていた。モンスターボールにオノンドを戻さねばこのままでは一生癒えない傷を残す事になる。
「決めて」
キクコが自分へと振り返った。ユキナリは苦渋を噛み締めながらモンスターボールをキクコに手渡した。
「ゴース、可能な限り接近。モンスターボールにオノンドを戻す」
キクコの言葉には、出来るか、という了承は一切ない。そう断じれば、ポケモンにも自分にも出来ると考えている冷静な頭がある。
ゴースは青い思念の光でモンスターボールを掴んでふわりとオノンドと鳥ポケモンとの戦闘に割って入ろうとする。しかし、鳥ポケモンが先に気づいた。戦いを邪魔しようとする無粋な輩に腹を立てたのか、刃の輝きを誇る雷が落ちる。しかしキクコは動じず、ゴースへと指示を飛ばした。
「催眠術」
ゴースから波紋状の光が放出される。見る見る間に広がった波紋が鳥ポケモンの視野へと侵入したようだ。鳥ポケモンが僅かに傾ぐ。その隙をついてオノンドが攻撃を加えた。牙による一撃がまともに鳥ポケモンを打ち据えた。しかし、それは逆効果だったようだ。
「さいみんじゅつ」によって眠ろうとしていた鳥ポケモンはその一撃で覚醒した。羽ばたきの残像すら刻んで返す刀の一撃が放たれる。オノンドへとそれはまともに突き刺さったように映った。
「オノンド!」
「まだ、大丈夫」
キクコの声にゴースがモンスターボールを弾丸の如く撃ち出した。その軌道上にオノンドが収まり、モンスターボールの収納機能が働いてオノンドをボールに戻す。落下しかけたボールを再びゴースの思念が掴み取った。
「これでオノンドの症状はこれ以上進行しない」
ふわふわとモンスターボールがユキナリの下へと戻ろうとする。しかし、その進行方向を鳥ポケモンが塞ぐように雷を撃ち放った。キクコは、「ゴース、急いで」と口にする。
「モンスターボールを破壊されれば、それだけで野生に帰る可能性がある」
キクコの言葉にゴースは動きを速めるが、鳥ポケモンは翼を広げて狭い吹き抜け通路を突き抜けていく。目標は既にオノンドではなく、その戦いを妨害したゴースとキクコだ。ユキナリが声を出す。
「キクコ!」
「騒がないで。大丈夫、ゴースで問題があるのなら」
その声と共にゴースの身体が固定化された。ガス状なのは相変わらずだが、その輪郭が鮮明になる。背部が尖り、逆立った。ガスの形状が変化し、人間のような両手を形作る。裂けていた口元がさらに裂けた。それだけでまるで別のポケモンだった。
「――進化すればいい。ゴースト」
ゴーストと呼ばれるらしいポケモンは片手を薙いだ。それだけでボールの移動速度が変わり、瞬時にユキナリの手の中にあった。
「一瞬で、ボールを瞬間移動させた……」
信じられないがそうとしか考えられない。それだけのパワーへと瞬時に変化したと言うのか。
「手の中のボールをきちんと握っておいて。オノンドが暴れて出るとも限らない」
キクコの声はハナダシティに至る道に苦戦していたどんくさい少女のそれではない。訓練された、トレーナーのそれだった。
「君は一体……」
「来るわ」
思案の声をキクコの明瞭な声が遮った。一瞬で目標が移動した事に驚いているのか、鳥ポケモンは羽ばたいたまま首を巡らせていた。やがてゴーストとキクコを見つけると、鋭角的な眼に敵を見る光が宿った。
翼を極限まで縮め、雷撃の推進力を得て鳥ポケモンが直進する。螺旋を描き、削岩機のような鋭さを嘴に帯びた。
「あれは?」
「ドリルくちばし。どうやら刺し違えてでも、って考えみたい」
的確に技の名前を言ってのけたキクコはゴーストへと目配せした。
「でも、前からやってくるのは好都合。ゴースト」
了承の声もなしに、ゴーストは波紋状の光を広げた。先ほどと同じ「さいみんじゅつ」だが波紋の広がり方がよっぽど大きい。ミキサーのような波紋の渦の中心地へと鳥ポケモンは吸い込まれるように向かい、キクコとゴーストを貫くかに思われた寸前でその動きを止めた。
「……止まっ、た」
ユキナリは呆然とするしかない。腰から力が抜けて尻餅をついた。鳥ポケモンが地面へと転がる。眠っているのか、眼を閉じていた。
「キクコ、君は一体……?」
ユキナリは聞かねばならなかった。どうしてキクコにこれほどまでの技量があるのか。どうしてポケモンを自律進化させるなんて芸当が出来たのか。何よりも的確な命令と心得たようなポケモンとの呼吸は一朝一夕で身につくものではない。二ヶ月の特訓でそれぐらいは分かっていた。
しかし、当の本人はその場に横たわった。ユキナリはキクコへと駆け寄ろうとする。その進行方向をゴーストが阻んだ。ユキナリが、「何だよ」と睨みつけるとゴーストはまるで人間のするように指を一本立てて「静かに」と示した。
「まさか、眠ったって言うのか? 自分のポケモンの技で?」
ゴーストはもちろん答えないがそれが何よりの肯定でもあった。
「何だよ……」
ユキナリは聞かねばならぬ事がたくさん出来たのに保留された気分だった。横たわるキクコと鳥ポケモン。どうするべきか、と迷っているとゴーストは指揮棒を振るうように片手を上げた。すると青い思念の光で鳥ポケモンとキクコが浮かび上がった。
「便利だな」
ユキナリの言葉にゴーストは何の反応も示さない。まるでそれが当然だと言うかのように。
「トレーナーの手持ちなら、それも当たり前、か」
今しがたトレーナーとして失格の烙印を押された身となれば素直には受け取れない。オノンドの入ったボールを掴む手に、自然と力が篭った。