第四十話「アデクという男T」
手紙を取り出して掲げていると、「やはり、気になるか」と背後から声がかかった。ユキナリは文字通り飛び起きて部屋に入ってきた人影を見つめた。
「アデクさん?」
「さっき語らおうと言ったばかりじゃろうが」
忘れたのか、という声に、「いえ」とユキナリは返す。アデクはでんと座り込んで、「その手紙」と顎をしゃくった。
「マサキ、とか言ったか」
ユキナリは手紙を裏表確認しながら、「ええ」と頷く。
「ご存知なんですか?」
「ソネザキ・マサキの事だとしたら、思い当たる節はある」
アデクは顎をさすりながら、「もう二年ほど前になるかのう」と中空に視線を投げたまま呟いた。
「そういう名前の研究者がある画期的なシステムを考案したとタブロイド紙に載っておった」
「画期的なシステム、ですか」
ユキナリには思い当たる節はない。カントーの話ではないのかもしれない。
「預かりシステム、というんじゃが、聞いた事は」
ユキナリは首を横に振った。アデクは、「よくは知らんが」と前置きする。
「何でもポケモンがデータ生命体である事を利用した、理論上はポケモンをデータ容量の限り保存出来ると提唱したシステムじゃな」
「それはトレーナーの管理で?」
「もちろん、トレーナーそれぞれに振り分けられた固有識別番号、IDに基づいて個人識別を行い、さらに内部のポケモンと手持ちの入れ替えも可能じゃという、まぁ眉唾な代物だな」
アデクは腕を組んで難しそうにうなる。どうやらアデクとてその方面には疎いらしい。
「博士に聞けば、分かるかもしれませんね」
「博士、というのは?」
「ニシノモリ博士です。ポケモンの権威の」
「ああ、聞いた事のある名じゃな。その博士にキバゴをもらったのか」
アデクがモンスターボールを眺める。そういえば、アデクは一度説明しただけできちんと紹介していなかった。ユキナリはモンスターボールからオノンドを繰り出す。
「もう進化してしまいましたけどね」
苦笑するとアデクは、「進化は悪くないと思うぞ」とフォローを入れてくれた。ユキナリは山男から手に入れた鋼の塊をオノンドへと差し出す。思った通り、オノンドはそれを使って牙を磨き始めた。すかさずユキナリはスケッチブックの片隅にオノンドの姿をスケッチする。そのあまりの早業にアデクは目を奪われたようだ。
「よくそんな隅っこに描けるの」
感心した様子の声に、「いえ、慣れっこですから」と答えた。
「と、言うと?」
「うちってそんなに裕福じゃないですし、今はそれなりに技術が向上したからいいですけど、昔は勉強のノートの切れ端に描いていたんです。これを職業として目指すんだ、って言う前はもちろん憚っていました」
両親はその道を止めなかった。それどころか応援してくれた。今回のポケモンリーグですら、ユキナリに一度としてやめろとは言わなかった。
「いいご両親を持ったのう」
アデクの声に、「いえ、アデクさんは?」と聞き返す。
「オレか。オレの両親は、まだ奴隷の身分じゃったからなぁ」
その言葉にユキナリは声を詰まらせた。一瞬、何の事だか分からなかったのだ。アデクは、「ちょっと前までイッシュはそういう場所じゃった」と何でもない事のように説明し始めた。
「先住民族が虐げられていてな。最近、ようやく自由の身分になれたんだと、オレはよく爺様や、その子供である親父から聞いた」
ユキナリはようやくその言葉の意味するところを理解出来た。イッシュ地方では先住民族は未だ肩身の狭い思いをしているのだと歴史で習った事がある。それを授業で聞いた時にはまるで対岸の火事のように感じたものだが、まさかその現実が目の前に突きつけられるとは思ってもみなかった。思わず、言葉が続けられない。
「そう構えるな。オレは気にしてない」
ユキナリの心中を見透かしたようにアデクが口にする。気を遣われているのは自分のほうだと感じて、「すいません……」と謝るしかなかった。
「謝るなよ! オレが悪い事をしているみたいじゃろ!」
快活に笑ってみせるアデクだがその胸中に何が渦巻いているのかユキナリには分からなかった。思えば勝手にシンパシーを抱いていたがアデクに関しては分からない事のほうが多いのだ。しかし容易に踏み入る事の出来ない事情である事もまた理解していた。ユキナリが二の句を継げないでいると、「まぁ、ちょっとばかりデリケートな問題かもしれんのう」とアデクは頬を掻く。
「今でもそういう風潮はある。だがな、だからと言ってオレは決して卑屈にはならん! そういう気持ちが人の心を歪める。歪んだ心が虐げる気持ちを生むのだとオレは親父から教わった。だから決して、他人と話す時、オレは相手を歪めない! そのために真っ直ぐ前だけを向いている!」
その時になって気づいた。アデクはいつでも自分の目を見て喋るのだ。隠す事、恥ずべき事など一切ないとでも言うように。事実、アデクはその真っ直ぐな心で自分の心の鍵を解いてくれた。
「……すいません。僕、そういうのが顔に出てしまって」
「分かっている! そういうのが現実じゃ! だからこそ、人は強くならねばならん。だからと言って強さを強制する事が正しい事ではない」
アデクはしっかりと教えを守っている。教えを自分のものとして吸収出来るのもまた才能か。ユキナリは胸の内に少しばかり湧いた嫉妬の念を消し去った。それもまた歪みを生じさせる一因だからだ。
「僕は……、えと……」
言葉が足りない。それでもアデクは待ってくれている。自分が自分の言葉で歪みを消し去るのを。ユキナリはたどたどしく言葉を紡いだ。
「僕は、そういうの一切気にしないとか、そういう強さはありません。だから、今聞いた時、ちょっとびっくりしてしまって……。でも!」
ユキナリはアデクの眼を真っ直ぐに捉えた。精悍な顔つきがユキナリの言葉を待っている。
「でも! 僕とアデクさんは、ライバルです」
放った言葉が正解かどうかの確証はなかった。もしかしたら余計にアデクを傷つけたかもしれないと後悔を浮かべかけたのも束の間、アデクはそれこそ明朗快活に笑った。その笑い声に気圧されたほどだ。
「いや、面白い! やっぱりお前さん、面白い!」
アデクは膝を叩く。ユキナリはその反応に困惑していたがアデクは、「正解なんてないんじゃ」と見透かした声を出した。
「だがお前さんの思い、見させてもらった!」
どうやら自分の気持ちは伝えられたらしい。ユキナリは安堵の息を漏らした。
「そう構える事はない。それこそ、ライバルじゃろ!」
アデクの言葉に、「そうですかね」とユキナリは迷いを浮かべたが、「そうじゃ!」とアデクの声で掻き消された。
「惑う事もある。正解か分からん道もある。それでも前を向いて進むのが人生! それが面白いから人生は面白い! そう、親父から教わったからのう」
「アデクさんの、ご両親は」
「もう他界しとる。今頃は雲の上から見守ってくれとろうて」
アデクは天井を仰いだ。ユキナリは聞いてはいけなかった事かもしれないと思いつつもそこで壁を作りたくなかった。
「きっと、見てくれていますよね」
「おお! それにしてもニシノモリ博士、ちょっと会いたくなってきたな!」
アデクは話に出てきた博士に会いたいらしい。しかし、今はマサラタウンから遠く離れたハナダシティだ。会う手段がない。
「あ、パソコンなら出来るか」
ポケモンセンターに行けばパソコンがあるはずである。アデクは、「よし、善は急げじゃ!」と立ち上がった。ユキナリも立ち上がり、部屋から出ようとすると人影がすれ違った。アデクが道を譲る。ナツキがブルーバッジを手に廊下を歩いていた。向こうも俯いていたせいで気づかなかったらしい。肩がぶつかりかかってようやくこちらの動きに気づいた様子だ。
「な、何?」
「おう! お前さんも、ニシノモリ博士にポケモンもらったのか?」
アデクの大声に、「ちょ、ここ廊下……」とナツキが周囲を気にする。ユキナリは訊いていた。
「キクコは?」
「部屋にいるわよ。……何よ、キクコキクコって」
「うん? 何か言った?」
アデクが前に立っているせいで聞き取りづらい。ナツキは、「何でもない!」と声を張り上げた。今の声のほうがよっぽど目立つ。
「で、アデクさんは何の用?」
「ニシノモリ博士に会いたい!」
「はぁ?」
ナツキにはアデクの言葉の意味が分からなかったらしい。ユキナリは説明する。
「博士とパソコンで通信出来るからポケモンセンターに行こうと思って」
「そういう事」と表面上では納得した様子だったがやはりアデクと行動を共にする事を快く思っていないようだ。
「アデクさんは博士に何の用なんですか?」
「会いたい! ただそれだけじゃ!」
会話が噛み合っていない。ナツキが怪訝そうな顔をするのでユキナリが捕捉した。
「マサキさんへの手紙もらったろ? もしかしたら博士とマサキさんは知り合いかもしれないってアデクさんが言うから確認に行こうと思って」
そのついでに紹介、と付け加えるとようやくナツキにも意図が伝わったらしい。「ああ、だからユキナリも行くのね」と頷いた。
「って言うか、あたしのほうが会いたいんだけれど、どうやってあれ操作するの?」
「あれって?」
ナツキの言葉に疑問符を浮かべていると、「ポケモンセンターの隅っこに置いてあるパソコンよ」とナツキは苛立ちを浮かべた。
「どうやれば接続出来るのか全然分からない。こっちは早いとこ報告したいのに……」
ナツキの焦りはユキナリにも分かった。ようやくジムを制したのだ。報告したいのが当然だろう。しかし、ならばポケモンセンターに行けばいいはずである。どうしてこんなところをほっつき歩いているのか。ユキナリは尋ねた。
「係りの人に聞けばいいだろ」
「トレーナーなのに機会音痴って恥ずかしいじゃない」
そういうものなのだろうか。アデクと顔を見合わせると、「オレも機械音痴だがのう」と困惑した表情だ。ナツキはむっとして、「アデクさんはいいでしょ」とユキナリの手を引いた。
「ユキナリくらいしか分かっている人いないんだから。バッジ持って無闇に歩き回るの危ないし」
ナツキの認識は確かにその通りだ。バッジを無闇に見せびらかすのは得策ではない。ラムダのようにポイント狙いで闇討ちを仕掛けてくる連中もいるのだ。
「分かった。僕らもついていくよ」
当たり前のようについてくるアデクにナツキは眉根を寄せた。
「何でアデクさんも?」
「オレもパソコンの使い方は分からんし、博士にも会いたいからのう」
「っていうわけだから。それにアデクさんほどの実力者と一緒なら掠め取られる心配もない」
「どうかしら」とナツキは承服してない様子だった。道すがら、「キクコはいいの?」と尋ねる。
「何が」
「放っておいて、って事だよ。キクコだってハナダシティは初めてだろう」
「連れ立って行けって言うの?」
「そういうわけじゃないけれど、一人だけ置いてけぼりはかわいそうだよ」
ユキナリの言葉にナツキは何度かうなってから、「分かったわよ」と部屋へと踵を返した。ユキナリが黙ってついていくとキクコはお湯を沸かしてインスタントのお茶を飲んでいた。緑茶の香りが部屋中に広がっている。
「あれ、ナツキさん、ポケモンセンターに行くんじゃ」
まったりとくつろごうと思っていたようでキクコは片手に紙コップを手にしていた。ナツキはユキナリを親指で差し、「あんたも来てってさ」とぶっきらぼうに口にした。このような胡乱な空気が漂っているのがユキナリには意外だった。きっと二人きりで気まずいからポケモンセンターに行くと言い出したのもあるのだろう。
「私も行っていいの?」
キクコが小首を傾げる。
「一緒のほうが何かと安心だし」
ポケモンリーグのお膝元の宿泊施設とはいえラムダの報復がないとは限らない。あの連中が山越えしたかどうかは別だが、用心に越した事はなかった。
「だってさ」とナツキはキクコを見やる。キクコは、「じゃあ」と立ち上がりかけて、紙コップを差し出した。
「ちょっとだけ、お茶をしてから行こうよ」
キクコの提案に乗ったのはアデクだった。
「おっ、いいのう! オレも喉が渇いておったんじゃ」
早速キクコの対面に座り、紙コップに粉末の粉を入れてお湯を注ぐ。ユキナリは困惑していたが、「お茶会したいんならいいんじゃない」とナツキは冷たかった。
「ナツキは?」
「あたしはいい。部屋の前で待っているから、終わったら呼んで」
そこまでキクコを遠ざける理由は何だろう。水と油のように二人は反発し合っているように思える。
「僕も部屋の前で待っているよ」
ユキナリの言葉は少しばかり意外だったようだ。ナツキは、「あたしに合わせなくたって」と声に出す。
「別に、合わせるとか合わせないとかじゃない。僕は別に喉が渇いていないし」
「そうか。オレだけもらうのも気が引けるな!」
そう言いつつもアデクは次々とお茶を飲み干していく。キクコはおっとりとした物腰でお湯を注いでいた。
「じゃあ、終わったら呼んでよ」
キクコにそう言い置くとユキナリとナツキは廊下に出た。壁に背中を預けながらユキナリは尋ねる。
「何か不満があるの?」
ユキナリとしてはやんわりと聞いたつもりだったがナツキは、「何それ」と怒気を露にした。
「別にないわよ」と顔が背けられる。ユキナリは分かりやすい性格だと感じながら、「僕だってキクコが何者なのかは分からないけど」と続ける。
「そう邪険にするもんでもないんじゃないかな。オツキミ山から二日、僕らはもう一蓮托生って言ってもいい仲だ」
「それは、あんたの理論でしょ。あたしは、まだあの子に心を開けていない」
それは心を許せていないと同義なのだろう。ナツキの中では未だにキクコは突然旅に入ってきた闖入者でしかない。
「キクコの目的は何なんだろう」
「玉座じゃないの? あたし達だってそうじゃない」
ナツキの言葉に、本当にそうなのだろうか、と自問する。キクコの性格上、玉座を目指すような人格とは思えないのだが。
「そういえば手持ちも知らないんだ」
キクコは一度だって手持ちを晒した事はない。だから、自分達は手持ちも知らない相手と旅を同行していた事になる。
「お人好しが過ぎるのよ。アデクさんだってそう。あの人は優勝候補よ? もしもの時には捨て駒にされる可能性もある」
「アデクさんが? ないよ、そんなの」
「そう言い切れるの?」
詰問されれば、それは明瞭な言葉にならなかった。自分はいつの間にかアデクを信じ込んでいる。それが重大な見落としになるかもしれないのに。しかし、ユキナリにはアデクを疑うような気にはなれなかった。
「……だって、アデクさんは自分の事も包み隠さず話してくれた。あの人は嘘をつけない人だよ」
そうなのだ、と半分は自分に言い聞かせる。ナツキは、「どうかしら」と疑いの声を漏らす。
「嘘をつけない人なんて、この世にいるのかしら」
その言葉の明確な答えを待つ前にキクコとアデクが部屋から出て来た。ユキナリは今の会話を聞かれていたのではと内心焦る。
「終わったんですか」
「おお! インスタントのお茶は意外とうまいな! オレはイッシュで色んな国のお茶を飲んだ事があるが、カントーのお茶は渋くっていい!」
歩み出しながらユキナリは、「他の地方のお茶は違うんですか?」と尋ねていた。先ほどの会話を打ち消すために出来るだけ穏便な会話を目指そうとする。
「カロスのお茶ってのは、甘くっていかんな。オレの舌には合わなかった。向こうではガレットとかいう菓子と一緒に飲むらしいが」
ユキナリは話に適当な相槌を打った。しかし心の奥底ではアデクを疑ってしまった自分の浅はかさを覆い隠そうと必死だった。