第三十三話「確執」
「着いたー!」
ナツキの声が響く。ユキナリは照らしてきた陽射しに目を細めた。オツキミ山の洞窟の中では全く陽が差さなかったために一日ぶりに浴びる朝陽だった。
「現時刻は、九時過ぎか」
山越えとしては充分な速さだろう。ユキナリはオノンドをボールに戻した。もう警戒の必要はない。ナツキもストライクを戻し、視界の先に広がる道を眺めた。
「急勾配ねぇ」
ハナダシティが遠くに望める。それまでの道のりは山道らしい急勾配だった。跳び越えられる範囲の障害物がところかしこに見える。
「よし。ここから先は競争よ」
その声を皮切りにナツキは駆け出した。ユキナリは初動が少しばかり遅れた。ナツキは軽々と障害物を跳び越えていく。オツキミ山で陰気な道を通っていた鬱憤もあるのだろう。駆けていくナツキを追いかける形でユキナリも障害物を越えた。すると背後で奇声が発せられた。二人して振り返るとキクコが地面に顔を突っ伏していた。どうやら跳び越えられなかったらしい。
「大丈夫ー?」
ナツキは坂の下から尋ねてくる。ユキナリはキクコに歩み寄って手を差し出した。
「危ないから」
ユキナリの声にキクコはおっかなびっくりに手を伸ばす。顔を押さえて、「いたた……」と呟いた。
「運動、苦手なの?」
「うん……」
キクコはどうやら相当鈍いらしい。ユキナリの補助でようやく障害物を跨いで越える。「陽が暮れちゃうわ」とナツキは苦言を漏らした。
「しょうがないだろ。キクコだけ置いていくわけにもいかないし」
「これくらい跳び越えなさいよ。トレーナーでしょ」
ナツキが軽々と越えていくのをキクコは、「すごいなぁ」と羨望の眼差しを向けた。
「これくらい、誰でも跳び越えられるでしょ」とナツキは今しがた越えた障害物を足蹴にする。キクコは心底申し訳なさそうな顔をした。
「まぁ、誰でもは言い過ぎかな……」
ユキナリのフォローの声に、「どっちの味方よ!」とナツキが声を張り上げた。
「どっちの味方でもないって」
ユキナリは答えながらキクコをサポートする。すると、ようやくハナダシティの入り口に辿り着いた。アーチ状の街の入り口には「ようこそ」という文字が各地方の言語で書かれている。どうやらこの機に町興しも考えているようだった。
「ハナダシティは活気付いているわねぇ」
山越えをしてきた人々へと憩いの場が設けられている。宿泊施設だけではなく娯楽施設として巨大なプールも開かれていた。
「トキワシティもすごいと思ったけど、これはそれを上回るな」
「ジムに行きましょ」と急かすナツキに、「まずは回復だよ」とポケモンセンターを指差した。
「博士とも連絡取らなきゃ」
キバゴが進化したのだ。それを報告するのは義務である。ポケモンセンターに入ると回復受付に人垣が出来ていた。
「何だろう……」
ユキナリの声にナツキが、「相当強いって事かしら」と彼らを見やった。山越えで回復する人々と明らかに山越えだけではない人々が混ざっている。ユキナリはタケシとの一戦を思い出した。あれに勝るとも劣らない相手がジムリーダーとして君臨している。それだけで身が強張った。
「僕は、まずオノンドに進化した事を伝えないと」
ユキナリは空いているパソコンへと向かった。ナツキは回復受付へと回る。どうやらどこに行ってもパソコンに触れるのはごく少数のようだった。ユキナリは苦労もせずにパソコンを博士の研究所のアドレスに繋ぐ。すると、博士から間もなくビデオチャットが開かれた。
『やぁ、ユキナリ君。この様子だと山越えは出来たみたいだね』
気安い声にユキナリはオツキミ山で攻めてきたラムダの事を伏せようと思った。博士に無用な心配はかけたくない。それに両親の耳に入る可能性もあった。
「ええ、まぁ」
『キバゴは? どうしたんだい?』
「これです」
ユキナリがモンスターボールからオノンドを出す。博士は目を丸くした。
『キバゴが、進化したのか……』
博士は興味深そうな視線のオノンドに向けている。進化前と違い、オノンドはユキナリに抱えられるまでもなく、パソコンのカメラと同じ視線に立った。
「あの、進化後の名前を僕が勝手に考えたんですけど、いいでしょうか」
博士は佇まいを正し、『ああ、言ってみてくれ』と応じた。ユキナリは少しの緊張の後に、「オノンド」と名前を呼ぶ。
「オノンド、っていうのが、このポケモンの名前です」
博士は特に説明を求めなかった。吟味するように頷き、『なるほど!』と声を上げた。
『いい名前だ。キバゴの時と言い、もしかしたら君にはポケモンの真性を見抜く才能があるのかもしれないな』
「そんな、ないですよ、そんなの」
謙遜した言葉に博士は、『いや、いい名前だよ』と繰り返した。
『由来を聞きたいね』
「えっと……」
ラムダの事を話さずにオノンドに進化した経緯だけを取り出そうとユキナリは考えた。
「進化したら牙が鋭くなって、それで攻撃する時に青い光が斧みたいに纏いつくんです。それで斧の龍、からオノンドって連想で……」
後頭部を掻きながら話した経緯は自分でも信じられないほどに幼稚だった。こんな名前を博士は認めてくれるだろうか。ユキナリの不安を博士は一声で杞憂にした。
『いや、いい由来だ。技のモーションに由来を求めるとは、やるね。ポケモンの学名って言うのはそのポケモンの姿形はもちろんだが習性や、あるいは鳴き声からの連想ってのもあるんだ。ユキナリ君のセンスはいい線行っているよ』
博士に褒められてユキナリは顔を紅潮させる。自分にそのようなセンスがあるなど信じられなかった。
「いや、そんな」
『とにかく、オノンドか。それが最終進化形態か、あるいはこれからも進化するのかは分からないが強さは確かなのかい?』
「ああ、そういえば空牙がなくなりました」
それを説明せねばならない、とユキナリは思い出した。オノンドの鋭く生え揃った牙を見下ろしユキナリは牙を岩で研ぐ習性がある事を話した。博士は顎をさすりながら、『興味深い』と応ずる。
『キバゴの時は牙にそれほどの重要性を見出していなかったように思えたが、自分から牙を研ぐって事はその牙は相当重要な武器なんだろうね。マーキングの意味もあるのかもしれない。だとしたら縄張り意識が強いのかもしれない』
さすがはポケモンの権威だ。目のつけどころがユキナリとはかけ離れていた。
「両腕と脚も発達して、表皮も鎧みたいに丈夫になりましたよ」
ユキナリが緑色の表皮をコツンと拳で叩く。オノンドは首を巡らせた。
『ダブルチョップは牙から放つのかい?』
「いえ、両腕でも使えるようになったみたいです。牙でも使えるみたいですけど」
博士はそれを聞いて何やら考え込むようにオノンドを見つめた。オノンドはその視線に耐えられないのかユキナリへと助けを求めるように目を向ける。
「博士、オノンドが怖がっていますよ」
『ああ、すまない。しかし、見れば見るほどに攻撃的な外見だ。もしかしたら、キバゴの時、空牙だったのは何かのアクシデントに見舞われての事だったのかもしれないね。本来は強固な鎧と鋭い牙で相手を圧倒するポケモンであったのかもしれない。進化後からの逆算による憶測だが……』
博士の言葉にユキナリはキバゴが何故片牙だったのかを考える。何か事情があったのか。それとも、片牙でなければならない意味があったのか。
『そういえば、空牙の能力を引き継いでいるのかな?』
「あ、それはまだ分からなくって……」
ユキナリの思案を遮って博士は腕を組んだ。
『早く戦闘データが欲しいところだけれど、そう急ぐ話でもない。ポケモンリーグは百日にも及ぶ競技大会だ。そのうち、能力が何なのかの話は出るだろう。空牙が最早無用の長物となったから捨てたのか、それとも、の話は今しなくっても』
ユキナリはオノンドを見下ろす。オノンドは首を巡らせてユキナリを赤い眼球に捉えた。赤い眼、何かに似ている――、というユキナリの思考に、「ユキナリ君」と声がかけられた。
振り返るとキクコが受付を指差している。
「ナツキさん、終わったみたい」
「ああ、じゃあ行かなくっちゃ」
オノンドをボールに戻し博士に別れの挨拶をする。
「では、博士。僕らはハナダジムに挑戦します」
『おお、そうか。頑張ってくれ。定期通信は無理しなくっていい。また何か、変化に気づいた時にでも。何せ私は暇だからね』
笑ってみせる博士にユキナリは困惑顔を浮かべた。トレーナーズスクールの生徒達はほとんどがポケモンリーグ参加を表明した。つまり今の博士には自分達のような律儀に報告する人間だけがその無事を確認する手立てなのだ。ユキナリは出来るだけ博士と連絡を取ろうと思った。それが多分、お互いにとっていい。
『そういえばユキナリ君、今の声はナツキ君じゃないが』
ユキナリはキクコを紹介すべきか、と思って顔を振り向けたがキクコは既にパソコンの前に立っていた。物珍しそうにカメラを観察している。博士は突然にキクコの顔が大写しになったものだから面食らっているらしい。ユキナリは、「……まぁ、旅は道連れって事で」と呆れながら説明した。
「オツキミ山の前で出会った女の子です。名前はキクコ」
『あ、そうなのか』
博士の声にキクコは振り返って、「ユキナリ君!」と真剣な声音で自分を呼んだ。
「何?」
「小さい人が、こんな箱に入っている!」
博士を指差して放たれた声に二人して固まった。博士は呆然としている。ユキナリは、「えと、パソコンを知らない?」と尋ねた。キクコは小首を傾げる。
「パソコン?」
どうやら知らないようだ。まだ普及率が高い機器でないので無理はないが。
「えっとね、これは小さい人が入っているんじゃなくって、遠くと通信しているんだよ。映像つきで」
「え? すごい!」
キクコは世紀の発明だとでも言うように手を打った。ユキナリと博士は画面越しに顔を見合わせる。
「いや、僕らの持っているポケギアだって通話は出来るじゃないか」
「私のは出来ないから……」
キクコがネックレス型のポケギアを取り出す。博士は、『そんな形が?』と意外そうだった。
「あれ、博士でも知らないんですか?」
『ポケギアは携行端末として腕につけるものだからねぇ。まさか首から提げているとは』
流行かなぁ、と博士は続けた。恐らく流行ではないのだろう。
「何してるの?」
その声に目を向けると回復を終えたナツキが腰に手をやって佇んでいた。ユキナリは、「定期通信」とパソコンを指差す。
「ああ、博士と」
ナツキは歩み寄り、「どうも、博士」と会釈した。
『ああ、旅は順調かい?』
「……ええ、まぁ」
ナツキにとってその質問は鬼門だろう。ポイントを当初から奪われ、さらにオツキミ山での経験もある。もしかしたら戦う事に一番拒否感があるのかもしれない。
博士は見抜いているのかいないのか、『それはいい事だ』と頷いた。
『これからハナダジムへ?』
「ええ。遅れを取り戻さなくっちゃ」
ナツキには特にその意識が強いのだろう。口調は自然と自分を追い込むものになっていた。そこまで肩肘張る必要はないのではとユキナリは感じたがもちろん口には出さない。
『では最大の健闘を祈るよ』
その言葉を潮に博士との通話は切れた。ナツキはすぐさま身を翻す。既にハナダジムに挑む事を心に決めているようだった。
「ナツキ。待てって。そう急いでも」
「急がなくっちゃ、先に山越えした奴らに取られるわ」
「バッジは八つもあるんだ。ハナダジム攻略が全てじゃないよ」
ユキナリの言葉にナツキは歩みを止め、振り返り様に張り手を見舞った。ユキナリは頬を押さえて後ずさる。
「何を……」
「あんたは既に勝っているから、そう余裕をこいていられるんでしょうけど、あたしには後がないのよ!」
握り締められた拳にナツキの苦渋が滲み出ていた。勝たねば、という意識が雁字搦めにしている。ユキナリは頬を押さえる手を握り締めて、「勝つだけが、全てじゃないよ」と答えていた。ナツキがキッと睨みつける。
「何も、分からないくせに!」
自分より後からトレーナーを目指した人間が先を行くのは屈辱だろう。しかし、ナツキの今は当初の自信も、自負も失っているように見えた。
「ナツキは強いよ」
ユキナリの言葉に、「うるさい!」とナツキはポケモンセンターを出て行った。隣にいたキクコがハンカチを持ち出して頬に手をやってくれていた。
「顔、腫れているよ……」
「ありがとう」
ハンカチを受け取りながらユキナリは顔を伏せる。どうすればいいのか。ナツキとの隔絶は埋められないのか。
「キクコ。一つだけ、いいかな」
ユキナリの言葉にキクコは真っ直ぐに赤い瞳を向けた。
「頼みがあるんだ」