第三十話「一幕」
山越えとなれば朝は早い。
月と星が満たしていた夜空は、既に明るくなって朝の陽射しを野営の土地へと降り注がせている。ユキナリは全く遮断されない太陽の光で目を覚ました。どうやら他の面々も同様で寝ぼけまなこでありながらも二度寝するつもりはないらしく、いそいそと山越えの準備を始めていた。ユキナリは寝袋を脱いでナツキとキクコを起こそうとしたが、既に二人は鞄に寝袋を突っ込んでいた。どうやら自分が一番よく眠っていたらしい。
「おはよ、ナツキ」
「よく寝てたから起こすのもどうかなって思っていたけれど」
「今の時間は?」
ポケギアを確認すると朝の六時だった。
「早い人達はもう山越えをし始めているわ。オツキミ山は他の街にある宿泊施設と違ってトレーナーだからという優劣はない。安全が確保されているわけでもないから寝首を掻かれる心配もあっただろうし、まともに眠れなかったでしょうね」
自分はよく寝ていた事から、暗に安全意識が低いと言われているようだった。ユキナリはモンスターボールを手に取ろうとする。まだまどろみの只中にあるのか、なかなか指先がモンスターボールを触れなかった。その時、懐からひらりと一枚の紙が舞い落ちた。覚えず手に取るとそれは名刺だった。
「何それ?」
「名刺」と答えると、「見れば分かるわよ」とナツキが顔をしかめた。
「誰の名刺? 博士の?」
ユキナリはその名刺の名前を確認してから、「まぁ、みたいなもの」と懐に仕舞った。自分に、この旅に出るきっかけを作ってくれたキシベの名刺だった。宝物のように持ち歩いている自分は女々しいだろうか。しかし捨てる気にはなれなかった。
どこかで、キシベもまたポケモンリーグを戦い抜いているのだろうか。自分にも夢を見る資格があると言ってくれたあの人は。
「行くわよ。今日中にハナダシティに辿り着かなくっちゃ」
ナツキが鞄を背負う。ユキナリも鞄を背負ってモンスターボールからオノンドを繰り出した。ナツキは既にストライクで周囲を警戒させている。キクコは、というとポケモンも出さずにきょろきょろと辺りを見渡していた。
「ポケモンを出さないの?」
ユキナリが尋ねると、「あまり出しちゃ駄目って、先生に教えられたから」とキクコは答えた。その「先生」とやらは一体どういう教えをしたのだろう。オツキミ山のようないつ戦闘になるかも分からない場所でポケモンを出さないのは危機意識に欠けているような気がする。
「出さないって言っているんだからいいんじゃない」とナツキは素っ気ない。ユキナリは、「じゃあ、きちんとついてきて」と手を差し出した。キクコはその手を見下ろしている。
「僕についてきてくれたら大丈夫だから。昨日みたいにはぐれるとよくないし」
キクコは僅かな逡巡の後にユキナリの手を掴んだ。ナツキは先頭で唇をすぼめてむすっとしている。
「どうかした?」
「別に」
ナツキは前を向いて歩き出した。ユキナリが小首を傾げているとオノンドは早速歩き出す。どうやらキバゴの時よりも冒険心に溢れているようだ。牙を両方手にした自信もあるのかもしれない。
「そういや空牙がなくなったって事は、今までみたいに相手の攻撃をキャンセル出来ないのか?」
ユキナリがオノンドに尋ねるがオノンドは分かるはずもない。強い鳴き声を上げてついて来いと鼓舞しているようだ。これではどっちが主人だか分からないな、とユキナリは苦笑した。
「頑丈特性みたいだったレアコイルを一撃で下したって事は、型破りの特性は生きているんじゃない?」
ナツキが声を振り向ける。だとすれば空牙の役割は消えていないのか。
「どっちにせよ、戦闘で証明するしかなさそうだな」
出たとこ勝負と言うわけだ。ユキナリは自然と身構えたが、ハナダシティへと向かう順路に大きな障害は見当たらない。時折岩壁をハンマーと小道具で削っている集団を見つけた。その度に立ち止まって、「何をしているんだろう?」とユキナリは気になった。
「山越えが先決よ」と先を急ごうとするナツキだが少しだけ気になっているらしくちらちらと見やっている。ユキナリは大きなバックパックを背負った山男に声をかけた。
「何をなさっているんですか?」
無精ひげを生やした山男は気さくに答えた。
「化石を掘り出しているんだよ」
「化石……」とユキナリは壁を見やる。地層が出来ており、山男はそれを掘り進めていた。すぐ傍に顔面ほどの穴が開いておりユキナリが顔を近づけると、「ああ、危ないよ」と山男が手で制する。
「ホルビーに任せているんだ。深いところはハンマー程度じゃびくともしないからな」
「ホルビー?」
ユキナリが小首を傾げていると、「出てくるぞ」と山男が口にした。すると穴から手袋のようなものが突き出した。目を見開いてその様子を眺めていると茶色の手袋と見えたのは実は耳であったらしい。長大な耳を手のように扱い、楕円形の目をしたポケモンが出現した。茶色を基調としており、本来の手は未発達だ。どうやら穴を掘る事に特化した耳を持っているらしく、耳にはイボらしきものも散見された。
「これが、ホルビーですか?」
「ああ。こっちじゃ珍しいかもしれないが、向こうじゃ普通だよ」
「向こうって?」
「カロスさ。こっちで言うコラッタみたいなもんでな。よく出てくるよ」
ユキナリはホルビーと呼ばれたポケモンへと観察の視線を注いだ。ホルビーは人見知りなのかユキナリから目を逸らす。
「カロス地方って、随分と遠いところから来たんですね」
「いや、俺はカントーの出身。向こうの友人から貰い受けてね。山を旅するならお供に連れて行けってさ」
破顔一笑する山男にユキナリは恐らくホルビーは想像も出来なかっただろうと考えた。まさか海を超え、遠くカントーで穴掘りをさせられるとは。
「あの……」とユキナリはもじもじした。山男が疑問符を浮かべる。思い切ってユキナリは鞄からスケッチブックを取り出す。
「スケッチしてもいいですか?」
ユキナリの言葉の意外さに山男は吹き出した。
「ああ、いいって事よ。それにしても、あんたも物好きだな。ホルビーなんてスケッチするのかい?」
「ええ。今回のポケモンリーグ、見た事のないポケモンばかりなので」
ユキナリは早速座り込んでホルビーの全長を鉛筆で測った。ホルビーは耳で身体についた土を落としている。どうやら耳のほうが器用らしい。
「びっくりだなぁ。こんなポケモンがいるのか……」
ユキナリの声に、「ボウズ。こんなので驚いていたら旅が進まないぞ」と山男は言いながらもユキナリの事を馬鹿にする風ではなかった。むしろお互いに夢を追う者として尊敬している声音だ。
「ボウズのポケモンも、この辺じゃ見かけない奴だな」
山男はオノンドに注意を向けていた。「大人しい奴ですよ」とユキナリはスケッチの手を休めずに応じる。
「そうか。でも攻撃的な牙だな。見るからに強そうだが」
「昨日進化したんです。トレーナーである僕にもまだどれだけやれるのか分からないって奴で」
ユキナリが謙遜した声で応じると、「あほくさ」とナツキはその場に腰を下ろした。山男が気づいて、「お嬢ちゃんら、このボウズと連れ合いかい?」と訊いた。ナツキが、「万事この調子ですよ」と呆れた声を出す。
「そりゃ、ちと大変だな」と山男は笑った。ユキナリはホルビーの発達した耳を丹念にスケッチする。攻撃性能も相当なものらしいと知れる耳をホルビーは軽々と振るって見せた。
「こいつ、進化するんだよ」
山男の発した言葉にユキナリを含め、三人が興味深そうな視線を注いだ。
「どんな風に?」
「可愛げのない姿さ。ホルードって言うんだが、俺みたいなオッサンをポケモンにしてやったら、きっとああいう感じなんだろうな」
山男と目の前のホルビーを見比べる。前歯の発達したホルビーはさながら乳幼児だ。それがオッサンのような姿になるのだと知れば我知らず幻滅してしまう。
「……なんだか、残念ですね」
「強くはなるんだがな。進化ってのも一長一短だよ。見た目を重視して進化させないって手もあるらしいからな」
「でもこのポケモンリーグでそれは厳しいですよね」
当然、強いポケモンが生き残るのだろう。山男はしかし、「そうでもないぜ」と拳大の石をバックパックから取り出した。黄色い鉱石である。ユキナリが、「それは?」と訊いた。
「進化の輝石って言ってな。進化前のポケモンに持たせると能力値が強化される。俺はホルビーに持たせているんだ。進化させるつもりはないからな」
「何でです? 進化したら強くなるのは明白じゃ?」
ユキナリの疑問に山男は頬を掻きながら、「俺みたいなやさぐれ男がホルード持ってたら、いよいよ婚期を逃しちまう」と困惑の笑みを浮かべた。冗談なのか、そうでないのかは察せられなかったがナツキは笑っていた。
「輝石は何個か持っているけれど、いるかい?」
ユキナリはせっかくの厚意に甘えようかと迷ったが、そもそもオノンドは何かの進化前なのか分からない。これ以上進化するのか、それさえも不明なので荷物を増やすのには抵抗があった。
「僕はいいです。ナツキは?」
「ストライクって進化するの?」
逆に問い返されユキナリと山男は顔を見合わせる。
「俺も虫ポケモンは専門外でなぁ」
山男の言葉にユキナリも同意だった。
「ストライクの事は一番よく分かってるのはナツキだろ」
「そうだけど」とナツキはむくれた。
「進化するのかしないのかは分からないわ」
ユキナリはキクコへと視線を流す。キクコは、「私はいいよ」と首を振った。
「そういえばキクコの手持ちを聞いてなかったけれど」
キクコは、「強いポケモンじゃないから」とだけ答えた。このポケモンリーグでいつ敵になるか分からない相手に手持ちを見せるのは危険かもしれない。アデクのような例は稀だ。
「……だね。すいません、誰も欲しがらないで」
「いいって事よ」と山男は豪快である。
「他にもたくさんあってな」
山男はバックパックを探り出した。あれよあれよという間に様々な鉱石が取り出されていく。ユキナリはホルビーの行動スケッチを終えたので、「これは?」と石を手に取って尋ねた。
「おお、それは進化の石の一つ、月の石。山越えしたら売りさばこうと思ってな」
オツキミ山で産出される進化の石のはずである。どうやらホルビーの功績によって多く採れてしまったらしい。
「あまり遠くで売ると検問に引っかかる。だから麓でさばくのさ。もちろん、俺が関わっているのはこうだぞ」
山男は口の前で指を一本立てた。ユキナリ達は視線を交わし合う。
「最近、うるさくってな。自然のものなんだからいいだろうに。何でも他の地方じゃ採れない石もあるから高値で横流しする輩がいるんだと。しょうがねぇな」
山男の苦言にユキナリは、「まぁ、オツキミ山は月の石の産出量じゃ一番ですから」と当たり障りのない言葉を選ぶ。
「ああ、これは石じゃないけど落ちてた。多分人工物だ」
山男が掲げたのは銀色の光沢を放つ塊だった。ご丁寧な事に円柱型をしている。ユキナリは手に取って眺めた。顔が反射して映っている。
「これは?」
「物の名前は分からんが、鋼の塊だろうな。ちょっとやそっとじゃ壊れない」
ユキナリはオノンドを見やる。昨夜、近場の石で牙を研磨していた。あのような事を街でやるわけにはいかないだろう。
「これください」
ユキナリの言葉に山男は目を見開く。
「ただの鋼の塊だぞ? いいのか?」
他にもっと価値のありそうな鉱石が並んでいたが当面、ユキナリとオノンドに必要そうなのはそれだった。
「使えそうなので」
「物好きだな。まぁ、いいぜ。ただでやるよ」
ユキナリは鋼の塊を鞄に押し込む。早速今晩から使ってみようと考えていた。
「他に面白そうなのは、っと」
山男の開催する即席のバーゲンセールがいつの間にか出来上がっていた。ユキナリは既に貰うものを貰ったので後はナツキとキクコだろう。
「あたし、石に興味は……」
「そう言わず。化石もあるぜ。もしかしたら後々価値が出るかも」
山男が手にしたのは貝殻を象った化石と、甲羅を象った化石だった。
「何の化石です?」
「俺も分からん。ただ、化石だぞ? ロマンがあるだろう?」
それは男にしか分からないものなのか、ナツキは怪訝そうな顔をして首を振る。
「そういやニビシティに化石研究所があったな」
ユキナリが思い出して口にすると、「何でまたニビまで戻らなくっちゃいけないのよ」とナツキは苛立たしげに言った。
「何かのきっかけで化石を復活させてもらえれば」
「そんな事している間にバッジが全部取られちゃうわよ」
言われればその通りである。今回の旅は物見遊山ではないのだ。
「でもお嬢ちゃん、化石ってのは高価で売れるぞ」
山男の退かない声に、「余計なものを持つ趣味はない」とナツキはばっさり切り捨てた。山男は、「価値があるのになぁ」とまだ折れない様子だ。今度はキクコのほうを見やり、「お嬢ちゃんはどう?」と勧めた。
「化石とか、進化の石とか」
「え、えっと……」
キクコは困惑している様子で山男を見つめた。山男は今度こそいけると感じたのか少し強引に売ろうと構えた。
「絶対価値出るよ。本当、持っていて損はないから」
「え、どうしよう……、ユキナリ君」
キクコがユキナリへと助けを求める声を出す。ユキナリは仕方がないので山男を制した。
「押し売りはどうかと思うので」
その声に山男はしゅんと肩を落とす。
「そうか……。まぁ、俺一人でも充分な軍資金になる分は確保出来たし。お嬢ちゃんにはこれでもどうかな」
山男の差し出したのは虹色の宝玉だった。ナツキが眉をひそめて、「これは?」と尋ねる。
「カロスの友人にたくさんもらったんで余りだ。向こうじゃよく採れるんだと。まぁイヤリングにするなり、ブレスレットにするなり好きに加工するといいよ」
ナツキはそれを受け取った。山男が、「あと、これ」とナツキに手渡す。それは内部に黒い文様を抱えたビー玉だった。
「子供じゃないんだけど……」
ナツキの抗弁に、「ストライクなんだろ?」と聞き返していた。
「だったら持っておくといい。カロスじゃ何でかストライクに持たせているトレーナーが多い」
ナツキはビー玉を翳したが何か特別な素養があるようには見えなかった。ユキナリも窺ってみたが、ビー玉以外の何かには見えない。
山男はバックパックを背負い直した。どこへ行くのかと思えばユキナリが来た道を戻っていく。
「そっちは逆に山の中ですよ」
「ああ、俺はもうちょっとここいらで稼いでいく。俺の目的は玉座じゃないからな」
「何なんです?」
「そりゃ、この旅で一山当てる事さ。多くのポケモントレーナーが集まるって事は、だ。カントーの物をありがたがる人間もいるだろう」
つまり山男の目的は最初からキャッチセールスだったわけだ。ユキナリは半ば呆れつつも、そういう旅の楽しみ方もあるのだと思った。
「それじゃあ、僕達は山越えしなくちゃいけないので」
ユキナリ達が反対側へと歩き出すと、「気をつけてな」と山男は手を振った。充分に離れてからナツキが愚痴をこぼす。
「あんた、高いもの買わされるところだったのよ」
「いや、いい物が手に入ったよ」
鞄を叩きつつユキナリが答えるとナツキは、「ガラクタよ?」と疑問の目を向けた。
「でもオノンドの牙の調整にはちょうどいい」
「ああ、そういう目的で貰ったんだ。あたしはてっきりあんたの目がおかしくなったのかと思った」
ナツキの言い草にユキナリは、「心外だな」と唇をすぼめる。
「僕がおかしかった事なんてある?」
「毎回じゃない」
ユキナリとナツキのやり取りにキクコが微笑んだ。二人同時に立ち止まり、キクコを見やる。キクコは突然自分に注目されたものだから戸惑う目を向けた。
「な、何……」
「いや、あんたそういう風に笑うんだと思って」
「僕も、笑った顔は見た事なかったから」
キクコは頬を掻いて、「変、かな……?」と顔を伏せる。ユキナリとナツキは二人して首を横に振った。
「変じゃないよ。いい顔してた」
ナツキの飾らぬ感想にキクコは顔を紅潮させた。ユキナリも続いて声にする。
「うん。素敵だった」
ユキナリの言葉にキクコはますます顔を伏せた。何か変な事を言ってしまっただろうか、と不安に駆られた。
「え、どうしたの? 僕、何か変な事言った?」
「馬鹿。男が言うのと女同士で言うのとは違うのよ」
ナツキの言葉の意味が分からずにユキナリは問い返したがナツキはぷいと前を向いて歩き出す。キクコも顔を伏せたままだった。ユキナリだけが取り残されたように疑問符を浮かべた。