第二十九話「マサキ拉致作戦」
『カントー標準時21時45分の便は予定通り、クチバシティ南から出航いたしました。サントアンヌ号の優雅な一時をお楽しみください』
船内アナウンスが流れ、イブキは自分には分不相応に思える豪奢な個室の造りを眺めた。シャンデリアが吊り下げられており、暖色系の明かりが部屋を満たしている。なかなか落ち着けない造りだな、という印象だった。
特に自分のような野生児には一生縁がないと思える。フスベの村で育ち、龍の道を究める事のみを考えていた小娘には過ぎたる代物である。
「失礼いたします」
ノックの音と共に給仕係が入ってくる。イブキは思わず立ち上がりかけて椅子にぐっと座った。どうにも西洋人形よろしく黙って居座っているのは性に合わない。
「船内サービスのご案内をさせていただきます」
サントアンヌ号と呼ばれる豪華客船ではそのようなサービスが提供されるのだと言う。曰く、最高級の食事と最高級のサービスで人生を彩る最高の一時を云々。
給仕係が出て行ってからイブキはようやくため息を漏らした。
「どうしてこんな所にいるんだろ、私」
そもそもニビシティのジムバッジ取得を目指し、旅を続けようとしたのを呼び止められてからだ。自分の旅の予定にはない日程を組まされ、本来ならばオツキミ山で野営でも汲んでいる頃合だが、どうにも自分の運命は捩じ曲げられたらしい。またもため息が漏れそうになったところ、個室をノックする音が聞こえた。「どうぞ」と苛立ち混じりの声を上げると、「随分と不機嫌なようで」と元凶が顔を出した。
紳士ぶっているが現れた男には読めないものがある。イブキも名前くらいしかろくに知らない。キシベ・サトシ。それがこの男の名前であった。
「別に」と素っ気なく答えると、「私としても楽しんでもらえると光栄なのだが」とキシベはわざとらしく口にした。
「私には性に合わない。こういうのは金持ちが使うんでしょう?」
イブキはこんなにも早くロケット団とやらに関わるとは思っていなかった。それだけに困惑が勝る。それを紛らわせるための口調だったがどうやらそれもお見通しのようだ。キシベは、「いずれは玉座に輝くのならば」と控えめな言葉を発した。
「気に入らないわね」と鼻を鳴らす。一日目は雌伏の時とジム戦を控え、手持ちとの瞑想に費やそうとした。だがその二日目に飛び込んできたニュースはイブキの根幹を震わせた。ポケギアが鳴りキシベが告げたのは「ジムリーダーの死」であった。それには自分を下したトレーナーであるオーキド・ユキナリが関わっているかもしれないのだと言う。イブキはなりふり構ってはいられなかった。事の真相を確かめるため、ディグダの穴からクチバシティに合流し、ジム戦などを考える前にあれよあれよとサントアンヌ号へと連れ込まれた。イブキは怒涛に過ぎ去った二日目を顧みる間もなく、サントアンヌ号の個室で自分を持て余していた。
「答えてもらえるのかしら。ジムリーダーの死について」
事実関係を洗う前にキシベの言葉に従った自分も迂闊だ。だが、閉鎖されていたジムがそれを如実に語っているように思えた。何よりも風の噂によればジムリーダーを下し、ジムバッジを手に入れたのはユキナリだという。勘繰らないほうがおかしかった。
「オーキド・ユキナリ。彼は強い」
キシベの言葉にイブキはまどろっこしさを感じて頬杖をついた。
「何が言いたいの?」
自分が弱いとでも、と言外に付け加えた迫力にも臆する事はない。キシベは淡々と、「脅威に成り得る一手です」と応じる。
「誰の脅威? あなた達が囲っているトレーナーの事? それとも私の?」
「彼には旅の目的がある」
「玉座かしら?」
「それは私が与えた。彼の旅は私がいなければ始まらなかった」
何を言っているのだ、とイブキは怪訝そうな眼差しを送る。キシベは、「言葉通りに」と告げる。
「彼の旅の目的、夢を掲げる事を示したのはこのキシベ」
イブキにはにわかに信じられなかった。一人のトレーナーの、その道を諭したとでも言うのか。
「傲慢だわ」
「そもそも彼はトレーナーではない。二ヶ月前にはただの少年だった」
「そりゃ、確かに未進化ポケモンを使っていたし、戦い方も荒っぽかった。でもそれにしたって昨日今日の素人の、戦いにしては出来過ぎよ」
ユキナリとの戦いを思い返す。キバゴと呼ばれたドラゴンタイプの使い方は荒いがそれでも訓練されたそれだ。加えて才覚も垣間見える。自分以外がトレーナーの道を示したなど考えられなかった。
「彼の中に燻る炎を刺激しただけです。元々、オーキドの血があった」
「オーキドの血?」
聞き覚えのない言葉にキシベが、「マサラタウンをご存知で?」と質問する。
「確か、カントーの南にある始まりの町だったっけ?」
「元々はマッシロタウンという名前だったのだが、出身者の高名なトレーナー、オーキド・マサラの名にちなみ、マサラタウンと名付けられた。彼はその子孫です」
イブキは素直に驚いていた。どこか自分の、竜の家系にも通じるものがある。
「じゃあ、彼には才覚があった、と?」
キシベは首肯し、「私は偶然を装って彼に接触しました」と続けた。
「今回のポケモンリーグにおいて脅威対象としては充分なほど」
「それでも、私みたいな人間に協力を仰ぐってのはどういう事なの? 私だって優勝候補よ」
驕ったわけではないが、自負のないわけでもない。それなりに力はつけたつもりだ。キシベはしかし頭を振った。
「あなたの実力ではせいぜいバッジ半分と言ったところ」
その言葉にイブキは思わず立ち上がっていた。キシベの胸倉を掴み、「私を、竜の一族を愚弄しているの?」と怒気を露にした。
「滅相もない」
キシベは淡々と応じる。イブキの怒りなどさして問題がないとでも言うように。イブキは自分だけ怒り狂うのも馬鹿らしく椅子に座った。
「……それは何? 客観的な事実と言う奴かしら?」
「そうですね。今回のポケモンリーグ、あなたが予測しているよりも猛者は集まっている。優勝候補の予測は早くも崩れるでしょう。なにせ、ジムリーダーはそう容易く陥落させられるものではない」
「そこよ」とイブキは指摘した。
どうしてその強力なジムリーダーを殺すなどという真似が出来るのか。
「我々としても調査中ですが、現在犯行グループと目しているのは一つだけ」
キシベが指を一本立てる。イブキは、「何者?」と息を詰めた。
「とある組織です。この組織は地方の枠組みを超え、あらゆる有識者にコンタクトを取り、このポケモンリーグを牛耳ろうと画策している。協力者は多岐に渡り、我々のネットワークを以ってしても全員の把握は不可能」
「でも何人かは網にかかった。違う?」
イブキの言葉にキシベは口角を吊り上げて笑う。
「……やはり、あなたを引き入れたのは正解だった」
「どんな奴なの?」
キシベは懐から革の手帳を取り出し、読み上げた。
「タマムシ大学出身、ベンチャー企業を掲げた実業家。ジョウト出身のマサキ」
「聞いた事ないわね」
「その筋では有名です」とキシベは補則した。
「ポケモンはデータ生命体という側面を持つ。この仮定に基づいた論文を書き上げ、学会で絶賛された異端の人間。十年に一人と言われる逸材」
「そいつがどうして脅威? このポケモンリーグの参加者なの?」
「いえ、彼は参加者ではありません。あくまで学会で有名な人間」
「門外漢だと思うけど」とイブキは率直な感想を述べる。
「ところが彼の技術、その頭脳に着目し、彼を引き抜いた組織がある。その組織は金の流れ、あるいはメンバーの動きを追えば追うほどに奇妙です。掴みどころのないとでも言うのか、まず取っ掛かりがない。そのせいでどうやって表舞台に引き出すべきかも分からない」
「八方ふさがりね」
「しかしマサキだけは何とか足取りを掴めました。ハナダシティ北部に彼の別荘があります。そこに彼はここ数日、滞在している」
「どうしろって言うの?」
キシベが望んでいるのはその先だろう。マサキがいる、だけで終わるはずがない。自分に何かしら動けと要求してくるはずだ。
「彼を拉致してもらいたい」
予想外の言葉にイブキは閉口した。次に出たのは戸惑いと怒りだ。
「私に、犯罪組織の片棒を担げと言うの?」
「誰も犯罪とは言っていません。拉致、という言い方が悪かったのならば彼を数日間、見張りのつく場所へと移送してもらいたい」
「それが拉致と言うんでしょう!」
キシベの落ち着き払った声音にイブキは眩暈を覚えた。一体、何を言っているのだ。
「シルフのお膝元とはいえ、立派な犯罪じゃない」
「落ち着いてください。何もあなた一人で動いて欲しいとは言っていません」
「そんな事を約束させるために、こんなお膳立てをしたってわけ?」
イブキは豪奢な調度品を見やり、鼻を鳴らす。随分と安く見られたものだ。
「私はあなたに、真実を見守って欲しいだけ。言ったはずです。いずれはこの組織、ロケット団がカントーを、いや世界を席巻すると」
「シルフの下請けがよく言う」
「しかしそのシルフカンパニーだって今のままではない。このポケモンリーグで、シルフカンパニーは大きく躍進しますよ。その一歩目が、これです」
キシベはホルスターに留めたモンスターボールを掲げる。それはイブキの所持しているボールとはデザインが違った。乳白色で、中央にラインが走りボタンが突き出ている。先鋭的な意匠にイブキはたじろいだ。
「何よ、それ」
「モンスターボールですよ」
「私達の使っているものとは違うわ」
イブキは自分のボールを突き出した。上部にネジで固定してある突起があり、そのボタンとボールの開閉が連動している。キシベは、「もう、それは古い」と首を振った。
「ポケモン産業を独占するシルフカンパニーはこのポケモンリーグを嚆矢として、モンスターボールから全てのポケモン事業を背負って立ちますよ。これは最新鋭のモンスターボールですが、いずれ誰もがこれを使うようになるでしょう」
キシベの言葉にイブキは疑わしげにそのボールを眺めた。「よければ手にとってみますか?」とキシベが言うのでイブキは思い切って手に取ってみた。意外に軽い。今使っているモンスターボールよりも利便性に富んでいる。
「この中央の突起がボタン?」
イブキが指差す。「ブランクのボールなので開閉しても大丈夫ですよ」とキシベは説明した。
「これを押すだけでいいの?」
「ええ。何なら手持ちをこのボールに移し変えますか? ポケモンを繰り出すタイムロスが大幅に減りますよ」
イブキはその言葉に、「冗談」と眉根を寄せた。
「まだ実用段階じゃないんでしょう? そんなものに大切な手持ちを入れられないわ」
キシベは肩を竦める。イブキはボタンを軽く押した。すると中央から走っているラインに赤い光が行き交い、モンスターボールはいとも簡単に開いた。内部の機構は驚くほどに簡素だ。プロジェクターを思わせる緑色の投射器が底にあり、機械のパーツが組み込まれているが今のモンスターボールのほうが随分と複雑な造りに思える。
「蒸気は出ないのね」
まずそれが驚きだった。現状のモンスターボールでは蒸気と圧縮によって内部にポケモンを留めておく機構だ。ポケモンは常にストレスに晒されており、モンスターボール内部は決して居心地のいい空間ではないのだと言う。
「このモンスターボールは違いますよ。それぞれのポケモンに適した居住空間をシミュレートし、内部は常に快適に満たされます。ポケモンにとって有害である傷口や、甚大な損傷を負ったとしてもモンスターボールの中では擬似的な時間制御によりその傷は進行しません」
「どうやってそんな技術を」
先ほどからキシベの言葉はまるで夢物語だが、それが実現の域に達しているからこそ言えるのだろう。キシベは、「ポケモンはデータ生命体」とモンスターボールを指差す。
「データの進行を抑止する事によって傷や状態異常によるダメージは全く心配いらなくなります。まぁ、あくまでモンスターボールの中では、の話ですが」
その話も今までは実現されてこなかったのだ。モンスターボールの中でさえ、ポケモンは傷の進行に悩まされていた。注入型の傷薬をモンスターボール内部に注射する事によって傷の進行を抑える術はあったものの、やはり傷薬を揃える手間がかかる。
「眉唾物ね」
イブキは新型のモンスターボールを眺めながらそれをキシベへと返した。
「いらないのですか?」
「まだ信用出来ないもの」
キシベも、新型のボールも。言外に含むところを汲み取ったのか、「これからはそれが法になりますよ」と暗示する物言いをした。
「シルフの技術が世界を超えて普及する」
「それと同時にあなた達ロケット団が世界を席巻するって? 馬鹿馬鹿しい。あなた達、世界征服でもするつもりなの?」
茶化した言葉にキシベは何も言わなかった。無言の肯定が恐ろしくイブキは話題の方向性を変えた。
「で、マサキの身柄を確保する事についてだけれど」
「やってくださいますか?」
「気は進まないけれど、請け負いましょう」
キシベの言う相手の組織というものも気になる。ポケモンリーグを裏で操る組織がいたのならおちおち優勝も出来ない。サントアンヌ号はクチバシティの港へと戻ろうとしていた。夜景を楽しむ事も出来ず、ただこれからの話だけで豪華な船旅は終わろうとしている。イブキは椅子に座り込んで、「不本意ではあるわ」と精一杯の抗弁を発した。
「そんな、犯罪紛いの事をさせられるのはね」
フスベの村に育った竜の一族の末裔、その名を冠する事を許された身となればプライドが邪魔をしたが無駄なものは捨て去るべきだとイブキは判断した。このポケモンリーグ、既にイブキの想定からは外れイレギュラーが混じり始めている。負ける事は想定外であったし、それもこんな緒戦で、とは誰も思わなかっただろう。フスベの村に住む人々の期待も双肩にはある。こんなところで腐っている場合ではないのは自分でも分かっていた。
「マサキの手持ちはないと推測されます。あったとしてもバトルに秀でた人間ではありません」
「私の敵じゃないって事」
その辺りもお見通しなのだろう。イブキが実力者なのを分かってこの任務をあてがっているのだ。キシベも意地が悪い。首肯して、「難しい任務ではありません」と答える。
「私が目指すのはポケモンリーグ優勝、この国の玉座よ。そのためならば手段は問わない」
汚れる覚悟くらいはするべきだろう。キシベは、「気高き事です」と思ってもみない事を口にする。この男の言葉は嘘八百だ。どれもが虚飾に塗れた声音でイブキの神経をいちいち逆撫でする。
「マサキのデータを」
イブキの言葉にキシベはポケギアを突き出した。受け取られるデータが、既に後戻り出来ない道である事を物語っていた。