第二十八話「星空の夢」
キクコが見当たらず、ユキナリとナツキは放浪するようにオツキミ山を散策した。しかし、あまりにもガイドから離れた道を行くのは危険だと言う判断と、もしかしたらキクコははぐれた自分達と合流するつもりかもしれないとしてラムダ達を下した場所へと戻ってきた。
「ねぇ、ユキナリ」
ナツキの声に顔を振り向ける。
「何だよ」
キクコの事が心配なせいか、先ほどから落ち着きなく周囲に目をやっている。ナツキの口調はそういうユキナリの行動からは離れたものだった。
「あの、さっきはありがと」
何の事を言われているのか最初分からなかったが、助けた事だろうとユキナリは理解した。
「キバゴ、進化したんだね」
ナツキはオノンドへと目を向ける。緑色の堅牢な鎧を身に纏ったオノンドはナツキを見やって鳴き声を上げた。
「名前、オノンドだっけ」
「まだ、博士に意見を仰いだわけじゃないから」とユキナリはやんわりと否定した。学名は博士ほどの名のある学者に認められなければ意味がない。ナツキは、「そんな事ないよ」と首を振った。
「いい名前。きっと喜んでいる」
「そうかな。何だかキバゴの時より強そうになったせいか、考えている事が分かりづらくなったな」
ユキナリは後頭部を掻く。逞しくなった手足はキバゴの時のように全身をばねにする戦闘を主体に置けばどれほどの戦果が見込めるのか。ユキナリにははかりようもなかった。
ただ赤く鋭い眼差しはキバゴの時とは一線を画していた。これは戦士の眼だ。
「きっと喜んでいるよ」
ナツキはオノンドへと恐れる事なく手を伸ばす。ユキナリは、「牙が鋭くなったから」と注意した。ナツキはオノンドの頭を撫でる。
「牙、両方生え揃ったんだ」
よかったね、とナツキはオノンドへと微笑みかける。オノンドは牙を誇示するように振り上げた。
「誇らしいみたいだ」
ユキナリの言葉にナツキは、「そうね」と笑った。
「でも、空牙と片牙の扱いが今までとは違ってくる。多分、戦法を変えなきゃいけなくなるんだろう」
どこか寂しかった。二ヶ月間、修行した戦いのその先に行けるとはいえ。
「でもオノンドにとってはそれがいいよ」
「でも、僕はナツキと修行したのが無駄だと思っていない。むしろ、よかった。修行したお陰で、僕は大切なものを失わずに済んだ」
ユキナリの飾らぬ言葉にナツキは頬を赤く染めて、「……馬鹿」と呟く。
「何、正直に言っちゃってんのよ。ユキナリの癖に」
ナツキが顔を逸らす。ユキナリは、「こうして旅が出来て、よかった」と口にした。
「マサラタウンだけじゃ守れないものもあったから」
それは自分の夢も含んでいた。あの小さな始まりの町だけでは何一つ成し得なかっただろう。
「まだ始まったばかりよ」
ナツキの言葉に、「そうだね」とユキナリは笑い返す。するとナツキと目が合った。ナツキの瞳はいつもより透明感があるような気がした。潤んでいるようにも映る。何かを求めるような眼差しに吸い込まれそうになった。
「……ナツキ」
名前を呼ぶと正体不明の感情が胸の中から湧き上がってくる。それを確かめる前にユキナリが立ち上がろうとして視界の端に人影を見つけた。
「誰か」
ユキナリがすぐさま身構えると、「ユキナリ、君?」と声が聞こえた。それと同時に灰色の髪と赤い瞳が目に入る。
「キクコ」
立ち上がって駆け寄るとキクコは俯きがちに、「うん」と頷いた。
「大丈夫? 怪我はない?」
問いかけるとキクコは、「うん。大丈夫」と返す。見たところ、外傷はないようだ。
「よかった……」と安堵の息を漏らすとナツキが歩み寄ってきた。
「どこへ行っていたの?」
心配した、とは言わなくても声音にそれが含まれている。キクコは、「怖いのを仕舞ってきたの」と応じた。
「怖いの?」
「うん。怖いのは、やだから」
ユキナリとナツキは目を交わし合った。キクコの言葉の意味は分からないが無事ならばそれでよかった。
「今日はもう少し歩いたら開けた場所に出る。そこで野営しよう」
ユキナリの提案にナツキとキクコは首肯する。
「テントはないけれど寝袋なら」
オツキミ山の前にあったポケモンセンターで揃えた一式を広げる。ナツキが、「気が早いわよ」と口にした。
「着いてから開けなさい」
どうやら自分も少し気分が昂揚していたようだ。オノンドに進化したせいか。それとも戦いの後に昂った精神がそうさせたのか。
ナツキの瞳には先ほど一瞬だけ現れたものはもう見えなくなっていた。ユキナリも正体不明の感情を胸に仕舞う。何だったのか分からないが大切なものである事は確かだ。
二十分ほど歩くと洞窟の中でも空が見える場所があった。野営地、と看板が設えられており、数人のトレーナーが既にテントを張ってキャンプの準備をしていた。
「あたし達が一番ってわけじゃなさそうね」
ナツキの言葉にユキナリは頷いて、「ポケモンは仕舞わないでおこう」と言った。いくら公用の野営地とはいえいつ襲撃があってもおかしくはない。ポケモンリーグはただの競技でない事は先ほどのラムダのような人間がいる事からも明らかだ。
ユキナリが野営に適した場所を探していると見知った声が聞こえてきた。
「オレの勝ちじゃのう!」
その声にユキナリが目を向ける。視線の先には燃えるような赤い髪の青年がいた。
「アデクさん」
ユキナリの声にアデクは気づいたのか振り返り、「おお、ユキナリ!」と大股で歩み寄ってきた。
「アデクさんも、ここで野営を?」
また語り合えると期待しての言葉だったが、「いいや、オレはキャンプせずに山越えする」とアデクは言い放った。
「無謀ですよ」とユキナリが言うが、「うかうかしてられんでのう!」とアデクはポケギアを掲げた。
「既にポイントも充分稼いだ。あとはハナダジムに挑むだけ!」
アデクのポケギアに溜められているポイントを見やると、既に30000の大台に届こうとしていた。
「すごい……、いつの間にこんな」
「山越えする連中に片っ端から勝負を挑んだ。みんな、山越えのために体力を温存する腹積もりじゃから、本当の瀕死状態まで戦う事はない。当然、少し分が悪ければ降参してくる。それを狙っての事じゃ!」
アデクにしてはせこい戦法だと感じたがそれもまた王道なのだろう。自分のように相手も自分も追い詰める戦い方をするほうが特殊だろう。
「ん? キバゴじゃない、のう……」
ようやくオノンドに気づいたのかアデクが胡乱そうな目を向ける。オノンドは牙を突き出して威嚇した。
「進化したんです」
ユキナリの説明に、「なんと……」とアデクは歯噛みした。
「オレがついていれば防げたかもしれんな。スマンかった!」
アデクは真正直に頭を下げた。ユキナリは両手を振る。
「いえ、アデクさんのせいじゃ。それに、お陰で僕はまた強くなれた気がするんです」
ユキナリの言葉にアデクは微笑みかける。
「お前さんは強い。オレが保証する」
アデクの飾らぬ物言いにユキナリは頬を赤く染めた。ナツキは、「山越えするんなら」と業を煮やした声で歩み寄る。
「時間がないんじゃ?」
どうしてだかナツキはアデクを邪険にした。これほどいい人間はいないというのに。ポケギアを見やり、アデクは口を開く。
「そうやった! でもまぁ、無事でよかった! それにこのポケモン、オノンドは強そうじゃわい! オレの援護なんて必要ないかもしれんのう!」
その言葉に、「いえ、そんな事」と返す。
「アデクさんのほうが僕なんかより数段上ですよ」
「謙遜するなや! でも、メラルバだって充分に強い。負ける気はない!」
お互いに了承の眼差しを交わし合う。いつか戦う。それが誓いになっていた。
「僕のオノンドも強いですよ」
ユキナリのいつになく強い口調にアデクは、「そうじゃのう!」と快活に笑った。オノンドはユキナリに褒められた事を理解したのか喉を鳴らして首を引っ込める。
「さて、オレは行くか!」
アデクが荷物を纏め始めた。ユキナリは拳を突き出していた。
「いつか、またどこかで」
「そうじゃのう! ハナダシティにいち早く着くが、いつかは」
お互いに拳を合わせ、コツンという硬い音が約束手形になった。アデクが手を振りながら獣道へと入っていく。ユキナリはナツキへと、「どうして邪険にするんだ?」と尋ねた。ナツキは、「分からないわよ、あたしも」と腕を組む。
「アデクさん、大丈夫かな」
その進退を心配していると、「そんなにアデクさんの事が気になるなら、一緒に旅すれば?」とナツキは寝袋に入って不貞腐れたように転がった。
ユキナリとキクコは視線を交し合い、肩を竦める。
「晩御飯は?」
「いらない。食欲ない」
ナツキの言葉に心配になったがユキナリは夕食の準備を始める事にした。予め買っておいたミネラルウォーターを鍋に入れカセットコンロにかける。沸騰したらレトルトのスープを溶かした。キクコはその一挙一動を物珍しそうに眺めている。
「キクコはこういうの見た事ないの?」
ユキナリが訊くと、「こういうのは食べちゃ駄目って、先生が言っていたから」とキクコは答えた。
「先生、っていうのは」
恐らくスクールの教師の事だろう。だが、トレーナーになるからには野営の一つや二つを潜り抜ける気でなければならない。だというのにレトルトに抵抗を与えるのは間違っていると思われた。
「場合によっちゃ、乾パンで飢えを凌ぐくらい考えないといけないのに、珍しいね。キクコの先生は」
「私だけじゃなかったから。みんな、おんなじだった」
キクコはどこのスクール出身なのだろう。今どき集団に間違った知識を教える識者がいるとは考えられないが。
ユキナリは溶かしたスープをマグカップに注いだ。湯気が匂い立ち、コーンをベースにしたスープから芳しい香りが鼻腔をくすぐる。
「おいしそう」
「だろ? 僕もあんまりレトルトは食べるなって言われているけれど、こういう場合は別だよね」
キクコへとマグカップを手渡す。キクコは何度か息で冷ましてからようやく口に運んだがまだ熱かったのか舌を出した。
「熱かった?」
ユキナリが微笑みかけると、「うん」とキクコは注意深くマグカップへと視線を注ぐ。その様子がおかしく、ユキナリは自分の分をマグカップへと注いだ。
「さっきは、すぐに助けてあげられなくってゴメン」
出し抜けの声にキクコは小首を傾げた。ユキナリは拳を握り締める。
「怖かったろう?」
ようやく理解したのかキクコは顔を伏せた。
「怖いのは、先生から仕舞っちゃいなさいって教えられていたから」
仕舞え、という言葉の意味がユキナリにはよく分からなかった。多分、遠ざけろという意味だろうと汲み取り、「先生は、キクコの事、理解してたんだ?」とスープを口に運んだ。
「先生は姉妹の中でも私に適性があるって判断してくれたみたい」
キクコに姉妹がいるのか。それは意外だった。
「そうか。お姉さんとか、妹さんとかは、このポケモンリーグには?」
キクコは首を横に振った。
「私だけ、ポケギアを手渡されてこれに出なさいって言われた」
選抜試験でもあったのだろうか。ユキナリはキクコが何かしらの機体を背負っているのだろうと推測した。
「なんか、僕には予測もつかない世界みたいだ」
笑ってユキナリはスープを口に含む。キクコはやっと飲めるようになったのかスープをおっかなびっくりに口に運び、「……おいしい」と呟いた。
「こういう機会がないと飲まないからね。でも、僕はやっぱりマサラタウンの母さんの味を思い出すなぁ」
女の子の前で母親の話などするものではないと思ったがつい口をついて出ていた。ユキナリには随分と懐かしい話に思える。
二ヶ月前までは徴兵に怯える日々だった。画家になりたいという漠然とした夢を追いかけ、戦いたくないとわがままを捏ねるだけの人間。それを変えたのはナツキであり、キバゴであり、博士であり、なによりも背中を押してくれたのはキシベという一人の男の言葉だった。
そういえばキシベはどうしているのだろう。二ヶ月前に参加を表明していた大人は無事に参加出来たのだろうか。もし同じように旅に出たのならばもう一度会いたかった。会って礼を言いたい。背中を押してくれた事、夢見る資格があると言ってくれた事を。
「おかあさん……?」
キクコは不思議そうに尋ねた。ユキナリは首肯する。
「うん。僕の母さんも父さんも普通の人だった。画家になる夢を応援してくれたし、僕が進むべき道をきちんと見守ってくれた人達。でも、トレーナーになってポケモンリーグに出場するって言った時にはさすがに驚いていたなぁ」
ユキナリはキバゴを手にして父母へとポケモンリーグ出場を表明した夜の事を思い出す。キシベから得た言葉の熱が冷めやらぬうちに決意表明をしたかった。もちろんユキナリは反対意見が出る事を予測していたのだが、父母は落ち着いた様子だった。
――オーキドの血が、お前にも流れていたか。
そう父親が少しだけ誇らしげに、少しの寂しさを含んで言った事をユキナリは思い返す。ユキナリはオーキドの血、というものに対する反感を持っていたが、この時ばかりは父母を納得させるための要素になった事を感謝していた。母親は泣きじゃくるかと思ったが、意外にも気丈であった。
――トレーナーになるのなら、きちんとした靴を買わないとね。
そう言った次の日にはランニングシューズを買ってきてくれた事をユキナリは履いた靴を眺めながら思い出す。ランニングシューズは高価で庶民にはなかなか手が出ない代物だったが母親は貯金を切り崩してでもユキナリの旅を応援してくれる気になってくれたのだと知った。
「父さんも、母さんも、僕の道を応援してくれた。だから、僕は、そう簡単には諦めちゃいけないんだ」
それに、と握り締めた拳に重ねる。
もう逃げたくない。そう誓ったのだ。オノンドが近くの岩に牙を擦りつけている。ユキナリは、「そうだ」とスケッチブックを取り出した。鉛筆を構え早速オノンドの行動スケッチを開始する。
キクコはユキナリの様子が珍しいのか、「何しているの?」と疑問のようだ。
「スケッチだよ。いつか、このスケッチブックいっぱいに、この世界のポケモンを記録したい。それが僕の旅をする原動力でもあるんだ」
語った夢は少しばかり幼稚かもしれない。しかしキクコは嘲る事はなかった。
「叶うといいね」
なんのてらいもなく放たれた言葉にユキナリは、「キクコはさ」と返していた。
「夢はないの? ポケモンリーグに挑戦するのだから、やっぱり、玉座が目的とか?」
鉛筆でオノンドの体長を測りながら尋ねた言葉にキクコは沈黙を挟んだ。
「……夢」
その声音には何かしら含むものを感じさせた。その言葉を初めて口にしたかのような妙なしこりがあった。
「キクコ?」
ユキナリが尋ね返そうとするとナツキが起き上がってスープをマグカップに注いでいた。
「なんだ、起きてるじゃないか」
「うっさいわね。あんたらが話しているから眠れないっての」
ナツキはスープを口に含んで、「あったまるわー」と吐息を漏らした。少しばかり冷え込んだ夜の空気の中にナツキの息が白く居残る。
「スープ飲むんなら、最後までさらえておいてよ」
ユキナリはそう言い置いてオノンドの行動スケッチを開始する。キクコはスケッチブックに刻まれていく描画を見て目を輝かせた。
「すごいね、ユキナリ君。魔法みたい」
「大した事じゃないよ。ずっと続けていたから慣れているだけさ」
それでも褒められた事は素直に嬉しい。ナツキがぽつりと、「それしか能がないけれどね」とこぼした。ユキナリはその苦言を無視してオノンドを観察する。オノンドは自分の牙を丹念に磨いており、ユキナリ達の視線を気にする素振りもない。
「面白いな……。キバゴの時には牙に気を遣っている様子はなかったのに。もしかして、キバゴの時と違って生え変わらないのか?」
鋭く尖った牙はキバゴの時よりも長い。月光を反射して鈍く光沢を放っている。
「オノンドは、なんだか嬉しそうだね」
キクコの言葉に、「分かるの?」とユキナリは顔を向けていた。キクコは、「先生から」と口を開く。
「ポケモンが何を考えているのか分かるようになりなさい、ってよく言われていたから。オノンドは進化した事がとても誇らしいみたい。牙を大事にしている。何よりもユキナリ君のために」
「僕の、ために……」
オノンドにあの時進化しなければ自分達はポイントを奪われ、命も危うかっただろう。救ってくれたのはオノンドのほうだと思っていたが、自分も同時にオノンドの未来を切り拓く事が出来たのかもしれない。そう思えると少しだけお互いにパートナーである事を自覚出来た。
「ありがとう、キクコ」
そう言ってくれて、と付け足してキクコを見やる。その赤い瞳がオノンドと同じ色だ、とユキナリは感じて吸い込まれそうになった。
「ユキナリ君?」
キクコがいつまでも顔を見つめているので疑問に思ったのだろう。ユキナリは慌てて目を逸らす。
「何でもない」
逆に空々しかったのだろう。ナツキが、「いい空気で」と茶化す声を出した。
「うるさいな。行動スケッチがはかどらないだろ」
「本当に描きたいのはポケモンなのかしら。このムッツリは」
ナツキの言葉にユキナリが睨みを利かせると、オノンドは夜空を仰いだ。下弦の月が真っ暗な銀色の稜線を描き出し、ぽつりと浮かんでいる。周囲には銀の粉を撒き散らしたような星屑が見て取れた。どうやら街の中よりも空気が澄んでいるらしい。夜空の描き出す自然のプラネタリウムにユキナリは感嘆の吐息を漏らした。
「綺麗だ」
ナツキも空を仰ぎ、「満天の星空ってこういうのを言うのね」と感想を述べた。
ユキナリはその下を旅している自分達はきっと小さな存在なのだろうと感じる。しかし、その小さな輝きが大きな事を成す。それが人の営みであり、星の刹那の輝きに満たない一生に意味を見出す理由なのだろう。
「僕は夢を叶えたい」
誰に言うでもなく発した言葉にナツキもキクコも黙っていた。それは改めて自分の道を問い質す決意の現われだった。